March 23, 2005

古典を愛する人たち

久しぶりに短歌系のトラックバックをいただき、われに返る。「あ、いけない、風マニアは短歌のブログだったわ〜♪」←反省しろ、反省!

とは言うものの、自分の目から見た社会というか、それがささやかなローカルな社会であったとしても今の時代の影響は避けられず、学校というのは子どもたちにとってはそれなりに大切な人格形成の場でもあるので、決して軽んじるわけにはいかないと思うのです。

でも、正直な感想として、先生は年中研修で留守だし、文部科学省の指導方針というものを理解するために先生はもちろん親も昔とは大幅に変化してきている何かを察知するために必死なのは事実です。

細かいことなんだよなぁ・・・例えば、「先生の話をよく聞くようにするためにはどうしたらよいか?」とか。すると、テキストの文字数が減り、先生の話を聞かないとわからないシステムに改造され、指導方針としてそれが取り込まれる。このほかには、ゆとりや余暇という点で週休二日制、連休の増加、カリキュラムの減少。もっと言えば、子ども同士で呼び捨てにさせないとかね・・・じゃれあいから来る喧嘩や虐めを防止するためらしい。

反面、習熟度別(能力別だろう・・正確には)学習とか、英語や体育の専門教師の導入とか、落ちこぼれを無くすという大義名分のもとに、次から次へとニーズに応えてくださるのはよいのだけれど、実際にはきちんと道徳教育のできる先生はいないし、足りない分はスクールカウンセラーの導入とかね・・・わたしから眺めた学校というのは、理屈や理論ばかりが先行するばかりで、ハートのある先生が少なくなったような気がする。

いや・・・先生の質が変化したというのではなく、指導方針というものがあれば、それに対して忠実であることも一つ良い教師としての評価なのかもしれないし、分かっちゃいるがわたしはすでに先生とお話するのがいやだ。親同士の話もどこか欺瞞に満ちあふれている。

昨日お絵かき教室の先生と話したら、今度は絵を通して道徳教育まで含めた人格形成をする場を育成したいのだそうです。かなり具体的で、NPOとしての活動を始めるらしい。つまり、そういうことを誰もやらない、やれない時代だから、誰かがやらなければならないから、やろうと思ったらしい。子どもが好きってすごい。愛がある。

わたしは一人の母親ですからね・・・

ややこしいことはアタマの片隅に置いておき、自分のことをやるしかないなーと、正直、わが子のことだけでも精一杯かもしれない。特に誰が決めたというわけでもなく、赤ちゃんの頃からお絵かきしているような子で、小学校へ行くくらいからすでに本人がお絵かきさんになりたいという希望を持つ子で、それでいてどこか引っ込み思案で、親や周囲に迷惑をかける子ではないけれども、正直、今の学校教育の中でどうやって娘の感性を保護しようかとアタマを抱えています。

そういうときの相談相手がお絵かき教室の先生だったり、アート関係の友達だったり、この前も誘われて芸術文化振興基本法だっけ?の公聴会へ行ってきたけど、都市景観とか、街づくりとか、どちらかというとそういう方向なのね・・・

まあ、いいや。そういう公の問題と個人の問題と、その他諸々とは別問題なのかもしれないし、わたしには詳しいことは分からないです。

話を短歌の話題に戻すと、Kamomeさんの質問、「旧仮名使いや古文的文体で短歌を書く意味」について知りたいという問いに正確に答えられるのは、ぐたさんではないかと、近頃ぼーっと感じている。古典を愛する人たちというのは歌人であるか否かは別として、そういうものなのではないかというか・・・

わたしは最初の頃はまるきり口語オンリーだったけれども、近頃は旧仮名やうたことばを使うことが以前よりも増えた。その理由は、水原紫苑さんなどの影響なのかもしれないし、旧くは斉藤茂吉の歌論でうたの格調という話に触れたからでもあるし、一番の理由は、「なんか、そのほうがおしゃれなのよね」としか語れない。

現代人だから現代語を使うなんて理由はどこにもないし、死に絶えゆくものに息吹を与えるがごとく、とにかく次から次へと『源氏物語』のこととなるとどうしてこうも多くの作家が口語訳なるものにチャレンジしたくなるのかと思うくらい不思議でもある。そしてそれにどうしてこうも多くの読者が魅了されるのかはもっと不思議。

古典とか、和歌というものに対する自家撞着は誰にでもあると思う。新しきものに向かいたいけれども、どこかレトロなものに惹かれてしまうというのもあながちめずらしい現象でもないし、古今東西人間なんていつの時代も変わらないとまでわたくしなどは常日頃感じることが多いせいか、いくらわたしが現代語で詠もうとも旧仮名を入れようとも、本質的なことは何も変化しているとは思えず、それでいて完璧な古語では詠めない。

もっとあっさり語ると、口語で詠んでも分かりにくいうたはいくらでもあるわけで、近頃そういう風に達観してしまうと、古文調だからとか口語調だから、というのは何の理屈にもなっていないとまで感じるようになってしまった。となると、どうせ理解されにくいのなら、分かる人だけが分かってくれたらいいな、という水原紫苑的無感情さにも魅力を感じてしまうのです。

好みなんだろうな・・・自分のうたをすっきりくっきりバチッと分かってもらいたいか、曖昧に濁そうと思うかは・・・自分的には近頃曖昧派。もともとそうなんだけど。メタファーをちりばめて、どこか二重構造的な世界を構築できると、そのうたは案外自分のお気に入りとなる。

わたしだけがそうなのかと思っていたら、案外、選歌していただくとそういう曖昧派のうたのほうがピックアップされるので、それならばさらにそういう世界を構築していこうという気になってしまう。

まあ、娘の小学校のややこしい問題をアタマの片隅に置いて自分のことをやる、みたいな姿勢は作歌にも通じるような気がするし、いずれにせよ、今の時代はマイペースを維持するのが非常に困難で、それも一つの風なのかも・・・

投稿者 Blue Wind : 10:51 AM | コメント (0) | トラックバック

March 14, 2005

奇異

この前、クルマで公園の前を走っているとき、カーラジオからパンダの話が聴こえてきた。住宅地の公園の前の道は一部舗道に石のタイルが貼っており、徐行しなければならないように工夫してある。まるで砂利道の上を走るようにクルマが揺れるため、でこぼこ揺られながら途切れ途切れでラジオを聴いていた。19世紀に中国にいた宣教師がパンダの毛皮を本国に送り、その時にパンダの存在が西洋に知られるようになったというお話。

情報伝達という面でも、異文化・異国という点でも、何となく感慨深い。

パース在住まさぴんさんの視点はいつも日本文化に対する屁理屈であり、バレンタインデイ、ホワイトデイ、加えてたまごチョコのイースターなど、イベントにまつわるものが多い。これに対して、Luluさんは、タンザニアに腹を立てながらもタンザニアへ住み着こうとしている。そのせいか、逆に愛国心まで感じてしまう・・日本に。

たまに思うんだけど、どうして中国にパンダが住んでいたり、パースに黒鳥がいたり、白ゴキブリがいたり、タンザニアの青い海やめずらしい動物たちには腹を立てないのに、人間や文化のこととなるとこうもおおげさに腹を立てるのだろうかと。

こういう傾向は何も海外に限ったことではなく、国内でも変わらない。北と南では売っている魚の種類が違うのは当然だし、野菜も微妙に違う。季節になれば、この辺ではあんこうが売られている。昔は、水菜もイタリアンパセリも牛筋も売っていなかったけど、近頃ではニーズがあるせいか大抵のスーパーには置いてある。

それでいて、その昔、市内の某スーパーで冷凍のワニ肉が売られていたのを見たときには驚いた。ニーズがあればちまたに溢れるのだろうか・・・・こわい。ワニ肉を常食で育った人たちには申し訳ないけど、わたしの脳には食糧としてはカウントされていないようです。それでいて、そういう感覚は差別や偏見なのだろうか?

奇異という感覚はどこか難しい。伝統文化に携わる人たちは、常に奇異との戦いのような気がすることがある。だって、歌舞伎だってヘンでしょ? 男の人が女性の役をしていたり、派手なメイク。今なお奇異を芸として伝えている。

作歌をするようになり、この世界もなんだかヘンだ。近頃では外国語でも俳句のような語数律で詩を詠む人たちが存在するらしく、それはまるでロック・グループのキッスが歌舞伎役者のメイクをパクッていたのを眺めるようなもので、日本だとデーモン小暮とか? 似ていて非なもののような・・・

奇異なものに対しては、拒否反応が発生して然り。それでいて伝統文化に対する拒否というのは概してさらなる反感を買いやすい。このため、奇異をブラボーにしてしまう人たちがアーティストと呼ばれる。異文化を母国に伝える人も、母国の文化を他国に伝える人も。

そうやって考えると、アートとは朱鷺やパンダや黒鳥なのかも。奇異。文化は難しい。

今日、また発作でMJC(Mission Japan Club)にメンバー登録してしまった。伝える難しさを学ぼうと思って・・・日本文化の一つとして和歌を詠んでいくか、はたまた宣教の難しさを異文化に学ぶか・・・のっちもむずかしくって。和歌を新しくしていくことより、和歌のよさを伝えることのほうがむずかしい気がする。それでいて和歌の中に何を詠んでいくかはもっとむずかしい。

投稿者 Blue Wind : 02:41 PM | コメント (0) | トラックバック

March 11, 2005

ティー・スプーン一杯のメディア

よく言った、ぐたさん?
「ダジャレを言う人=ダジャリスト」と、勝手にぐたさんをダジャリストに任命したところ、ダジャリストはジャリタレ?
その読み間違いを眺めるだけで、ダジャレ川柳にはまっているのが何となくわかります。脳内がぐるんぐるんにダジャレが徘徊しているのかも。

それにしても、今時、「ジャリタレ」なんていう言葉使うのだろうか?

わたしね・・・・そもそも昔からなんでしょうけど、タレントの顔と名前を覚えられない。それどころか、たまにCMを見ても顔の区別がつかない。みんな同じ人がやっているように見えてしまう。

それはどこかディズニーランドへ行って、歩く人たちの顔の違いの区別がつかないことにも似ているし、母のいる病院へ行き、食堂に座っている慢性病床の患者さんたちの顔が覚えられないことにも似ている。

知っている人なら何となく遠くからでもすぐにわかるのに、知らない人となるとその違いがわからないほど、みんな同じに見えてしまう。加齢するに従って、その傾向が強くなっているのを感じる。

人間というのも眺めてしまえば街の飾りであり、風景であり、気がつけば流行というものがあり、一様に同じような人たちが歩いている。そういうことに慣れてしまうから、隣に誰が住んでいるのかわからないとか、一駅隣に引っ越せばまるで見知らぬ街とか、同じ店で毎日のように顔を合わせていても誰がいるのかも気がつかないということになってしまう。

大昔、弟が同じ車両に乗っていたのにドアが隣だったのでまるで気がつかなかった。電車を降りて、後ろから声を掛けられて初めてその事実を知った。彼はわたしに気がついていたというので、幾分彼のほうがマシだ。

こういう傾向はどこか鬱っぽくて、自分でも警戒しなければならないところなんだけど、その昔、わたしのいた世界ではそれが当たり前だったから、実は大して気にしたこともない。他人に関心を持たない、ということをごく自然に学んだ。

他人に関心を持たない、ということは、他人からも自分は物質である、という意味であり、あらゆることが単なる事象として存在しているに過ぎなくなる。逆に語れば、見知らぬ人のちょっとしたことが不意に目に飛び込んできたり、あらゆる些細な事象がとても魅力的に感じられたりする。

そういう感性をどこで学んだのか、記憶にはない。だけど、後日わたしが歌を詠むようになり、フィーリングという点で、非常に役立っているのを感じる。

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話変わって、そろそろ発作でアメブロにブログをつくって3ヶ月になる。この3ヶ月の間に10万人の新規アメブログが出来た計算。スパム登録も多いから、今でも実質的にブログを更新しているのは1割強ではないかと疑っている。

昨日、nattoさんのブログでカリスマ枡野の話題を発見。そういえば、近頃、彗星集がどうなっているのかもまるで知らない。わたしの頭の中では、そういう結社の活動とネットとが切り離されて存在しているために、アメブロにブログをつくったばかりの頃、初めて枡野ブログに投稿し、いきなり「ある人から投稿があり、その人はこの歌を知らない」とばかりに、加藤治郎さんの短歌をアップしてあるのを見て、ギクッた。それでね・・・ほかの彗星集の歌人の投歌を解説してる。しかも、わたしが歌集を読まないってか?

その後、馬場あき子さんの短歌をトラバったら枡野さんからコメントが入った。そこが歌壇っぽい。

加藤さんのたまわく、歌壇の毒なんだって。マスコミ系のノリ自体がどこか歌壇の毒らしい。それでいて、大真面目。短歌人や未来等々その他諸々所属結社は違っても、みなどこかでつながりがある。

それで、次なる仕掛けが「真鍋かをり」さん?

わたし、ずっと枡野さんのブログには行っていないので知らないけど、トラバっているブログでお題を観察し、その時に検索した。それとスパム騒動の時にプロ野球の古田さんのブログと真鍋かをりさんのブログを話題にしている記事を読み、それで何となくお題を理解した。

ある一面、ファン心理というものがあれば、今まで短歌に興味がなかった人でも、真鍋さんが選歌してくれるならとばかりに枡野ブログに投稿が増える可能性もある。歌人人口を増やすにはなるほどカリスマらしいやり方であると感心すると同時に、相変わらず、「真鍋かをりって歌人?」って思っている人たちも多い。

受け皿というものがあって、そこはどこかアクセプタブルな世界なんだけど、一歩ディープに入り込めば外見の華やかさとは裏腹にとても厳しい。

そういう中で、わたしはノラクラとブロガーをやっている。題詠マラソンもどうなんだろう・・・今年はネットのことは話題にもならないような気配。若手の俳人が結構タレント俳人には文句タラタラ書いているのを見たことあるし、マスコミって無責任だからね・・・正直。

でも、どうなんだろう・・・積極的にマスコミを利用していくホリエモンのやり方を眺めていると、世論操作という点で、「大勝負」と語る意味が何となく理解できる。結局、枡野さんが一番声を大にして語りたいのも、今まで「枡野」というだけで差別偏見に満ち溢れていたということかもしれないし、そういう意味では、わたしも同じ。ネット歌人というだけでバカにされる。キャリアが違うから一緒に考えては申し訳ないのですが、立場的に一緒にされやすいから。

でも、少しずつ時代が変化しているのも近頃特に感じるし、それでいてわたしはお題「真鍋かをり」には投稿しない。ミーハー的に流れないことで、ネットを見直してくれる風潮があることも事実だから。

こういうことで自分が損をしているのか得をしているのか、今のところまるでわからない。でも、わたしは歌人をやめてもブログは書ける気がする。当たり前のことのようでいて、実は当たり前でもなく、だから逆にたまに短歌についてのコメントが入るとドキッとする。

ネットが好きなのよ・・・ティー・スプーン一杯のメディアという雰囲気が。

投稿者 Blue Wind : 10:59 AM | コメント (0) | トラックバック

March 10, 2005

粒か粒粒か

ダジャリスト・ぐたに触発され、はたまた時々ドキッとするようなコメントをくださるシャンティさんなど、あるいは近頃では政府のメルマガを読んでいても、”好き”なのよね・・・和歌が、日本人は。わたしは、自分があまり好きではなかったから、『源氏物語』に対するレトロな愛着を考えると源氏があるかぎりこの国は変わらないようなブルーな気分に陥ってしまう。

それでいて、今度は、源氏物語強化月間かよ〜!(泣)>ぐたさま

こういう時に、わたしは島田荘司強化月間に突入したい気分に陥る。考えてみたら、島田さんは小説の中に女性があまり出て来ないのと、小説の舞台が大掛かりすぎるせいか、ドラマには向いていないことに気がつく。
女性が嫌いというより、奥さんの失踪の謎を追って歩き続ける吉敷刑事とかね・・・

男と女の関係に社会が密接に絡みつくより、独立独歩のほうがさっぱりしている。

房から離れたぶどうの粒や、一つ転がるパチンコ玉や、ディズニーランドのポップコーンの粒や、NEETや、ブログや、まとまらないとあまり値打ちの無さそうなものに癒しを感じてしまう。源氏物語に出て来る女性たちは、いわばそういう粒々の中の一粒のようで、一粒一粒に解説を加えていく寂聴さんがどうして人気があるのか、何となく理解できる。

それでいて、和歌は集まらないと値打ちがないのだろうか。
それでいて、一首の重みということを頻回に繰り返されると、連作しか詠まない自分という人間が、これまた天邪鬼な歌人であり、粒か粒粒か、ジャラン(道)かジャランジャラン(散歩)か、俳句か川柳か、ブロガーか結社か、とてもわかりやすいことを考えているはずなのに、難解と思われたりする。

それで、これまた何かを説明するのが困難なんだけど、3枚のCDを借りてきた。わたしは割とレンタル派である。期限があるほうが聴くのよね・・・買うよりも。よほど好きで買うのでない限り、試聴して買ったはずなのに、ガムランやハワイアン、その他諸々一度も聴いたことのないCDやめったに聴かないCDは多い。コレクションと聴くという行為は違うらしい。

『源氏物語』の翻訳を比較するように聴いてやるのだ・・・ボッサを。

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アーティスト: ジョアン・ジルベルト
タイトル: ポートレイト・イン・ボサ・ノヴァ~ベスト・オブ・ジョアン・ジルベルト

アーティスト: ナラ・レオン
タイトル: イパネマの娘
(画像なし)



アーティスト: オムニバス, ディック・ファルネイ&ノーマ・ベンゲル, エリス・レジーナ&アントニオ・カルロス・ジョビン, シルビア・テレス&ルシオ・アルベス, マルコス・ヴァーリ, ナラ・レオン&ジョアン・ドナート, カエターノ・ヴェローゾ&ガル・コスタ
タイトル: ボサノヴァ・デュエッツ

投稿者 Blue Wind : 06:57 PM | コメント (0) | トラックバック

March 08, 2005

「神さまとふたり」

うたを詠んでいて、一番しあわせな瞬間は、Solitudo with God。
この言葉を日本語にするとき、わたしは、「神さまとふたり」と言っている。直訳すると、「神と一緒の孤独」という意味だけど、そうなるとまるでニュアンスが違いすぎる。インマニュエル(神と共にいます)というほうがよいのだろうか。

たまに思うのだけれど、わたしは教会にいるときより、バリ島の大きな夕陽を眺めている瞬間や、バンブー島の雲の形だけが時を知らせるような感覚に埋没しているときのほうが、遥かに近くに神さまを感じる。

イタリア巡礼を終え、いろいろな教会があることも知る。今は閉ざされている教会へも行った。大きな教会、小さな教会、鐘の音・・・てくてく歩いてきた。

地中海の白い落陽・・・
鏡に白い光線が反射するように、太陽までの道ができる。

そういう瞬間、わたしはすべてがどうでもよくなる。

人間は、この世に生まれた瞬間から、死へ向かって生き続けなければならない。大抵の占いでは、死は、大凶なのだそう。そこが宗教とは違うらしい。

つまりは、この世に生まれた時から、死の支配下へ入ってしまう。そこで初めて、いのちを知る。不老不死で、永遠のいのちを持っている人たちがいるとすれば、彼らは死を知らない。死を知らないということはいのちを知らない。

わたしたちは、死の恐怖を知ることにより、いのちを知る。

それでいて、死の恐怖に怯えながら生きることは、耐え難い苦痛。自分が死ぬだけではなく、いつかは誰でも死ぬわけだから、それこそ大切な誰かを失った悲しみは誰にでも襲いかかる不幸。

ところが、どうだろう・・・

実際に、誰かの臨終に立ち会った人たちなら気がつくかもしれないけど、死への旅立ちは人間にやすらかな癒しを与えているがごとく、ハッピーな顔をしている。しかも、赤ちゃんは泣くことによりこの世で息を開始する。

この例えは、小平正寿神父さまの『イタリアアシジからの伝言―聖フランシスコとともに歩く』からの引用。

永遠の命・・・
イエス・キリストの復活。
十字架の栄光。

彼は、人間を死から解放するためにやってきたらしい。

わたしに問う人たちは、すでにわたしが問う質問しかしない。ということは、古今東西、同じことを人間は問うことにより、生きてきたのかもしれないと思うほど。

昨年、神父さんのサイトで、うたを詠み、聖書を開くという作業をしていた。そのうち、それが神さまからのメッセのような気がしてくる。しばらくひとりでも続けていた。

今はやめている。その理由は、こうである。

つまり、わたしの質問や嘆きや愚痴に対して、神さまはメッセを贈り続けてくださったのだから、次にはわたしが神さまの問いに答えなければならないらしい。

聖書を読み、そこからインスパイアされたことを言の葉にしたり、うたにしたり・・・わたしは、自分が宗教の人ではないために、そのようなことをしてもよいのか、ずっとためらっていた。聖書に詳しい人たちはたくさんいらっしゃるし、わたしよりも信仰心の厚い人たちもたくさんいらっしゃるでしょうし、第一、わたしはいまだに洗礼も受けていない。

そういうことに対するためらい傷はたくさんある。わたしの中の毒もたくさんある。

そういうとき、Solitude with God。

神さまとふたり。

寡黙であること、孤独であること、そして神さまとふたり。
その瞬間、陽射しがとてもまばゆく、空がやけに青いことに気がついたりする。

それが、どんなにかしあわせな瞬間か・・・

わたしは、それが Solitude with God だと気づくのに、8000首以上のうたを必要としていたへぼ歌人。先は長い。

投稿者 Blue Wind : 11:14 AM | コメント (0) | トラックバック

March 07, 2005

わたしの知らない誰かへのわたしの世界

Kamomeさんの「短歌に恋する」、という感覚に触発されるわけではないけれども、短歌なんて自由でいいような気がする。残念ながら、わたしには「○○さんのファンでそのままXXXへ〜♪」というノリがないだけ。

恋に恋してふわふわ〜っていうタイプじゃないもの。

どちらかといえば、恋と、恋することとは違うんだな・・・などと冷めた視線がわたしの特徴のような気がするし、アンニュイに浸りながら、ボッサでも聴いて、『春夫詩抄』など読んでいると和んでしまう。

ところが、以前このノリで詠んだ時、やたらと歌が甘ったるくなりすぎ、自分でも自分っぽくないと反省したことがある。

歌のことだけ考えていると楽しいのよね。

いつからかな・・・
なんとなくひとりが気楽だと思うようになったのは。

ネットが荒らし騒動でややこしくなったせいかもしれないし、それがかったるくて結社へ行けば結社なりの厳しさもあり、そのどちらにもうんざりしてしまった。

「わたしはもともと歌人じゃないのよーー!」

って、声を大にして叫びたくなった。

それでいて、歌は相変わらず日課として続けている。

時にネット歌人、時にカフェ歌人。

でも、どうなんだろう・・・考えてみれば不思議な世界。同人とか結社とか、いつも誰かが所属を気にしている。好きな歌人がいて、その世界に飛び込むというほうがナチュラルなのかもしれない、と不意に思った。それでいて、そういうのって何もない自分。

何もないから、歌集を読まないとかあれこれ思われるらしい。それはそれでかなり迷惑な幻想。そうやって思われたとたん、わたしはもしかすると短歌が好きではないのかもしれないという気分になる。

家にいて気楽なのは当たり前だけど、カフェもそれなりに気楽。スタバだったらまた違うかもしれないけど。いつも行くカフェは、すでにわたしの顔くらい覚えていてくれる。だけど、何も言わない。よく知った店でも、誰もわたしのことを知らないというのはすごく気楽。そこで好きな詩集や歌集を読みながら、何となく作歌していたり・・・

静かなコミュニケーション。

誰かが忘れた頃に、不意に歌集を出すかもしれない。あからさまに歌人になるより、不意に知らない人に渡してみたい、わたしの世界。

投稿者 Blue Wind : 11:48 AM | コメント (0) | トラックバック

March 06, 2005

ふたりの世界

ボサノバの魅力は、「ふたりの世界」。
青い海や空はその他の出来事はまるで単なる背景のよう。
若い頃には、もっと過激なサウンドが好きだったかもしれない。
ラブソングもちまたに溢れ、それでいて次から次へとラブソング。

その昔、大嫌いだったのが、アミンの『待つわ』。



アーティスト: あみん
タイトル: P.S.あなたへ・・・


当時は、どこへ行ってもこの曲が流れ、これを聴くたびにむっかむっかしていた。

「私、待つわ。いつまでも待つわ。好きなあなたがフラレル日まで」

大嫌いだったにもかかわらず、サビの部分だけはどこででも流れているから頭の芯にこびりついている。デートでもしている時間、この曲が流れると、それだけでむっかむっかしてしまう。せっかくたまの休みにふたりでいる時に、これが流れるってきついと思いません?

自分の幸せの陰には不幸な人たちが存在している、という事実を認識する年頃でもあったし、誰かを好きになる理不尽さにも気が付く年頃でもあったし、大失恋に泣きそうな予感に押しつぶされている年頃だったからなおさら。

いっそのことさっぱり別れよう、と思った瞬間、「私、待つわ、いつまでも待つわ」って流れ出す。そうなると、悔しくて悔しくて、自己憐憫。

そういう時代を経て、わたしはJ-ポップが大嫌いになった。
言葉がわかるってつらい。

その点、歌詞カードを見ないといつまでも意味のわからないカフェ・ミュージックは気楽。ボサノバの場合、ポルトガル語だからそれこそまるきり意味もわからない。タイトルも知らない。それでいて何度も同じ曲を聴く。同じ曲をいろいろな歌手が歌っている。

いつまでたっても、ふたりの世界。

ナラ・レオンの遺作となってしまった、『ギターひとつの部屋で』を聴いていると、すべてがどうでもよくなってしまう。ナラとロベルト・メネスカルのギター。30年来の関係は、ギターひとつあればナラが歌い出す。

大人の恋。大人の関係。

遠のけば大人の恋があるやうによりそふ波はさやあたたかき(しらいしまさこ)

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創作ということで、わたしはひとつやってみたいことがある。

投稿者 Blue Wind : 03:49 AM | コメント (0) | トラックバック