November 29, 2004

釈放か・・・

インターネット・ジャンキーというのは壮絶。特に広義での出会い系のサイトに多い。あるいはチャット部屋の常連とか。まだネットを始めたばかりの頃には、とうとう呪いのサイトまでつくられてガイアックスにまで追いかけられてしまったことまである。
大抵は、嫉妬妄想とか、被害妄想とか、関係妄想とか、単なる妄想のような気がするけど、ネットは一方通行社会なので、そこまでになるとなかなか立ち直れない。わたしも2,3回、おおげさなまでに吐き気までするくらいになったことがある。もう、その電子文字が画面に現れただけで吐き気がする。まあ、そのうちに忘れるけど・・・こちらが忘れても相手が忘れていなければ延々と続くのかもしれないし、集団化しているとなおさら続くらしい。
ネットを始めたばかりの頃はサイトの作り方も知らないし、ヘンな話、パソコンの使い方も知らないから、結局、ランダムに知り合った人たちから情報を得る。そのうちに親しくなって、メル友になったり、チャッ友になったり、オフ会に誘われたり、物品をやり取りするようになったり、電話がかかってきたりする。何もなければ平和なんだろうけど、それが一度人間関係が荒れ出すと大変。なかなか消えない。普通は自然と疎遠になったりするものなんだけど、荒れたほうが消えにくいのかも。
要するに、生きるに必要な関係性ではないから、こころのつながりを求めて集まっているらしい。そういうグループが多い。こーね、そうやって集まっているうちに、自然と仲の良い人たちが分離していったり、仲間はずれがあったり、いろいろ。仲良くなったつもりでも、実はどこの誰かもわからないとか、こちらの人とは付き合うけど、あちらの人とは付き合わないとか、そういうラインも分けてはいるんだろうけど、そこが電子文字の悲しさで、たとえばBBSなどがあればレスがあるとかないとか、アクセスが簡単なだけにややこしい。そうするとBBSには書かないでメールだけとか。
長くやっていると、だんだんこの電子文字社会にうんざりしてきてしまう。完璧なジャンキーになると、男か女かもわからないし、サイトごと、メールごとにハンドル名を分けて別人格をつくって遊んでいたりする。そういう関わりが実は一番大変だったりする。消えると寂しいかららしい。人間関係の輪という意味なのかもしれないし、まったく知らないハンドル名で別人を装って現れたり、いろいろ複雑。

結社へ行こうと思ったのは、実はこういう面倒なジャンキー社会から解放されたかったのかもしれないし、逃げたかったのかもしれないし、それでいて、アクティブに活動できる立場ならネットなんかやってないって・・・正直な話。家庭の事情などがあるから、ネットでもやってみようかなと思っただけの話であり、たまたまダンナが新しいパソコンを買ってきたというだけの話だったのに、いつのまにやら歌人になってしまっていた。
誹謗・中傷、あらし騒動、勝手に懸賞に応募されたり、メルマガを申し込まれたり、そういう意味での危険性はあるけど、わたしはふつうの主婦なのである。アダルトサイトを運営しているわけでもないし、ヘンなストーカーに狙われるのもお門違いだし、家には家族がいる。よく考えたら、あまりにもあほらしいから、あっさり歌人のサイトをつくってしまった。そのほうがジャンキーは来ないだろうというもくろみだったのだけど、しばらくの間はBBSになりすましが現れたり、リアルとバーチャルが混在していたり、非常にややこしかった。
通りすがり的に歌を投稿してくれたり、感想を書いてくれたりする分は何も困らないけど、ジャンキーの世界の話題は削除。犬と遊んでいたほうがまだ楽しい。とうとうジャンキーサイトも消えたし、管理人さんには申し訳ないけど、何となくほっとした。ありがとう。

来年からは、また違った作風で詠めるようになるといいんだけど・・・まだまだこれからやらなくてはならないことが山ほど。

投稿者 Blue Wind : 02:21 AM | コメント (0) | トラックバック

November 20, 2004

小鳥の目線

娘の絵は、わたしが中学生の頃に初めてビートルズに出会った時のような快進撃である。小学校の校舎の屋上で、グラウンドを真下に眺めるような絵。小鳥の目線。
小学校の授業ではよくある光景だ。図画の時間に校内をスケッチする。ただそれだけのことなんだけど、自分の子どもの頃とはまさしく風が違う。好きなところを描いてもよいと言われれば、校舎や教室、グラウンドなど学校という世界は限られている。わたしなら屋上に座っていたとしても、そこから見えている風景を描いてしまいそうな気がする。せいぜい光や風や木立、建物などを描く。
娘の絵は自由奔放で、秩序がある。四方に木立があり、絵の中央に描かれたグラウンドを囲んでいる。その倒れこむような描き方に鳥の目線を感じる。そして、真上から眺めたようなグラウンドのライン。実際の航空写真ではあのような世界はありえない。
屋上に座って、黙々と小鳥のように飛びながらあちこちの風景をとらえていく。その高さたるや一体どれくらいになるのか、実は絵を見ただけでは想像がつかない。

このように褒めても、娘の反応は実にクールであり、もっと立体感をつけたらよかったとか、せっかく先生に屋上に入る許可をもらったのだから豪快に描かないととか、あっけらかんとしている。そこがわが子という気もするし、今の時代の子という気もするし、感性という点では、もはやわたしは娘にかなわない。
これは絵をみる視点においても如実に現れている気がする。今回イタリアへ連れて行ってみて、とにかく主要な美術館へは足を運んだと思う。二人並んで、すでに違うものをみている。あまりにもたくさんみたために、すでにミラノへ到着した時点では飽きてしまったのかと思ったら、違う。要するに娘のお気に入りの絵は、アンジェリコの「受胎告知」らしい。あの絵をみてしまったら、ほかの絵はどうでもよくなってしまったのだろう。なかなか手厳しい批評家である。
こころの中に素直に飛び込んできた絵。受胎告知をモチーフにした絵はたくさんほかにもあるけれども、完璧にあの一枚を指定している。名画はほかにもたくさんあるけれども、子どもは実に素直に何かをキャッチする。
こういう瞬間、実に老いぼれてしまった自分を感じる。
ひらめきを感じる、インスパイアされた中に素直に飛び込む。ちょっとやってみようという程度の気まぐれなら自分にもある。だけど、その世界に素直に飛び込めない自分を感じる。
素直に飛び込みたい世界がシュルレアリスムだったとしたら、これはすでに自分にとっては敵である。敵でありながらそこに吸引されてしまう自家撞着というものが自分の感性を支えているのではないかと思う。シュルレアリスムが破壊の感性だとすれば、自分にはせいぜいエッシャーの不思議絵の世界や空を眺めているくらいしかないではないか。人間の視知覚そのもののおもしろさ、シュールな感覚。レンズに映っているものをそのままみているわけではないわたしたち。
だから、飛べない。
そこをあっけらかんと昇華して、娘は軽がる飛んでしまう。小鳥のような娘の自由さが酷くうらやましい。そして、娘のこの素直な感性にわたしは救われる。ルネッサンスの奔放さの時代に、修道院で絵筆を握っていたアンジェリコ。明るくもあり自由でもあり、真摯であり純粋。なんか、うらやましい。

投稿者 Blue Wind : 04:43 PM | コメント (0) | トラックバック

November 16, 2004

真性悪魔

れんこんあらしにはうんざり。名前で検索しても、ネットの懸賞で牛肉を当てたという記事しか出てこない。よくわからんね・・・匿名だと思って安心しているのかも。とにかくやることなすこと壮絶。あんな人を相手にしていたら、こっちが殺伐としてしまう。あーやだやだ、なのである。
本人も悪魔って言ってるように、真性の悪魔なのかも。冗談でなさそうなところが怖い。ヒステリーを起こして聖書を破きかねないタイプ。正直、世の中で一番苦手なタイプ。それで相手を怒らせて、相手を悪魔、悪魔と言っている。言われてもかまわない。だって、何の憐れみも感じないのだから、向こうにとってはこちらもまた悪魔なのかもしれない。
テロリストの言い分というか、アラジンの言い分というか、悪者の側から見たら、善は悪らしい。となると、悪魔から見たら、神はやはり敵なのだろう。あの過剰反応・・・壮絶。
まあ、もともとがああいう人だから、こうやって何を書いても関係ないんだろうな・・という気はする。虚しい。

なんかね・・・わたしはあまり神さま神さまと生きているタイプではないわけ。いわば、いやしを求めて聖書を読んでいたり、歌を詠んでいるわけで、常に思うのだけれども、いやしがほしいのはわたしのほうだと思う。ところが、あそこまでいやしのないタイプに襲撃されると、後は神のみぞ知るという気分になってしまう。
わりにこころのよい人たちに囲まれて生きているために、どうもネットのほうが殺伐としているような気がしてしまう。家族や友人、親しい人たちとお付き合いしているほうが平和。ネットでもごく少数のお友達だけのほうが気楽だ。気の合う人とだけ付き合う。
って言うと、すごく怒る人たちもいる。わけわからん。仕事じゃないんだから、気の合わない人たちと付き合う必要ないでしょ?

が、しかし、わたしはエネルギーが余っているのかも。そうやって友達に言われた。あっさり家庭に入ってしまったから、らしい。森瑤子の気持ちわかるもの。芸大まで出て普通に結婚して子育てをして、それが30代の後半で突然爆発するように小説を書き始めた。絵では食べていけないからと30代で絵の具の果てまで燃やして捨てた人がいきなり50代で再び描き始め、毎日おっそろしいほど描いているらしい。いくらでも描けるという。そういう話にやたらと共鳴共感してしまうのである。
ちょっとやってみよーっかなーとネットを始めて、書き始めたら止まらない時期があった。そのエネルギーが自然に短歌に変換されただけなのかも。一度詠み始めたら、いくらでも歌が出て来る。上手とか下手とか言う前に、勝手に手が動く。

それにしてもいやらしい。なんであたしより年上の人が女子大生のサイトつくったりしてるんだ?そういうのを考えると、一緒にされたら困る。あっちはれんこんあらしでも、わたしは白石優子だ。悪魔って奴は・・・・・しつこい。消えてほしいね。

投稿者 Blue Wind : 08:28 AM | コメント (0) | トラックバック

November 12, 2004

低コスト

題詠マラソンの単行本化ということで、それが売れるかどうかで主催者側は頭を悩ましているかもしれない。自分的には売れないと思っている。消費者はシビア。
そこで、今年は参加者が3冊を買い上げるという形で赤字を抑えようという。個人負担が6000円程度なら、かなり良心的なイベントのような気がするけど、ウェブのことを考えると、読者がタダで読めるものに金を払うかどうか極めて懐疑的。
こういうとき、しみじみ子どもは強いと思ってしまう。幼稚園の学芸会がホールを借りて、しかも午前・午後の部入れ替え制にしなければならないほどの盛況ぶりを考えると、個人でチケットを売らなければならない世界はシビア。赤字を出さないということが自慢だと言っていた意味が何となくわかる。
初出しにこだわったり、著名な歌人にこだわったりする理由がここにあるのかも。つまりは、売れなければ赤字・・・
ごく普通に結社に会費を払ったり、こういう風にアンソロジーで出す分には個人負担は小さい。だから、趣味の世界として細々として続けていられる。ところが、いざ歌集を出版したりすると、まるで売れなかったら出せば出すほど生活を圧迫する。これではよほど余裕がある人でなければ続けるのは困難となる。
しかも、これだけたくさんの賞が大盤振る舞いされている裏側には、箔がつかないと宣伝価値もないのかもしれないとすら思ってしまう。スポンサーというわけではないけど、プロ野球みたいに赤字になってもよいという具合に選手を食べさせてくれるところがなければ続けられない。

正直、一冊二冊なら付き合いで買ってもどうということはないかもしれないけど、結社だ何だと付き合いを広げて、売買の関係性が成立することを考えると不毛だ。歌集を買ってくれるから友達とか?いやはや・・・
本末転倒。
生きるに必要のない世界だから、歌にいやしがある。ネットと同じかも。そういう意味で冷たいと言われるのなら、それも仕方がない。
それで、か。いきなり、歌集を出したら20冊買ってやると言われたと言ってやれと言われたのは・・・・そういう苦労をしたことがないからわからない。
オンデマンドで5万円くらいで出版し、10冊くらい知り合いに配っていたほうが合理的なような気が・・・
インターネット歌人のノウハウでも書いたほうが売れそうな気がするくらいだわ。

こーね・・・だから、ウェブで見ごたえのあるページをつくろうとしたり、アンソロジーだったり、やる側に意気込みがなければできないね。
イラスト一枚500円か・・・・シビア。
なんか、ようやく皆の言っていた理由が理解できるようになったあたし・・・
が、しかし、歌を詠んでいるだけなら金はかからんのよ。
世の中ってヤツは・・・

投稿者 Blue Wind : 11:30 AM | コメント (0) | トラックバック

November 09, 2004

「加藤先生」

サイバー上において、わたしはあまり固有名詞を使った書き方をしない。それは自分が書き手であると同時に読み手であるからでもあり、飛ばすほうならキャッチするほうでもあるからである。
久しぶりに検索などをし、偶然、加藤先生の古い日記の過去ログを発見する。この、「加藤先生」という書き方も、BBSに書いたら、固有名詞を書かれても知らないからやめてほしいと言われた。つまり、どこの「加藤先生」かわからないからであり、世の中にはおそろしいほどの「加藤先生」は存在しているのだろうし、歌人の加藤治郎さんと伝えても結局知らないからやめてほしいと言われた。
これってつらいけど、あまりにもよくある話なのでなおつらい。結局、主宰の名前ですら知らないのが世間なので、要するに歌人でなければ知らないのだそう、歌人の名前なんて。ついでに言えば、わたしも知らなかったし、今でも知らない名前のほうが多いのだと思う。
そこで驚いたのが、加藤先生のインターネットに対する期待感である。つまり、インターネットになら推定3万人の歌人がいるという幻想。もしかするといるのかもしれないけど、実際には匿名の世界なので、純粋にネットだけで歌人をしているという人は少ないかも。
どうして数字の大きさに期待が集まるのかというと、購買・購読層の確保という点の期待なのかもしれないとふと思う。同じように期待はずれに悩んでいるのが、村松恒平さんかもしれない。無料のメルマガなら、1万人とも2万人とも言われる読者が有料化したとたんに購読が止まってしまう。ウェブは基本が無償提供の世界だから、金を払ってまでという人たちは少ない。
だからこそ、詩のサイトですら著作権のことがあり、かなりのサイトが閉鎖してしまったような気がする。個々に対する圧力はなくても、サーバなどに対しての圧力があれば、それがどうしてもユーザに広がる。いきなりのサービス停止とかね・・・

歌壇の特殊性というか、結局、歌壇を支えているのが歌人であるという閉塞性を考えると、とてもじゃないけど一般の読者を獲得するのは極めて困難な気がしてしまう。空手とか、書道、華道などを考えると、それはそれでかまわないのかも。特定のファンがいて、趣味の世界。同じ趣味を持つ人たちが何となく集まる。その中のごく一部の人たちがいわば仕事として生きている気がする。
それとは別に、ネット。
これはサイトを管理しているだけでも何となく感じたりする。つまり、ネットに求めているのはチャット仲間だったり、見知らぬ者同士の気軽な交流だったり、その集会の手段として、何らかのコンテンツがあるとか、ないとか、コミュニケーションだけを求めている人たちも多い。ちらっと思ったのだけど、いわゆる歌壇や文壇などの濃厚な人間関係とはまったく異なる世界であり、つまりはこれを指してインターネットの儚さを批判しているのだ、と。
結社に入れば、そりゃオフ会ではなく、懇親会やら歌会やら、もともとがそういう世界なのだから、当然、深い人たちになれば、濃厚にそういうお付き合いの世界を掻い潜って行くわけであり、そこから仕事が派生したり、作歌活動が支えられたりするのだから、おそろかにはできない。
が、しかし・・・・・
が、しかし・・・なのである。
歌を詠うだけなら、そういうものに顔出しする必要性はない。
そういう濃厚さが好きな人たちもいれば苦手な人たちもいるだろうし、華美を求めて歌人をしている人たちも少なからず存在するのだろうし、自分的には今さらという気がしなくもない。
しかも、歌集を出版するために150万円は用意しろと言われたとか、オンデマンド出版なら55万円で出せるとか、凶暴な世界だと思った。よっぽど経済的に余裕があるか、出版物が売れる人でなければ結局ぽつりぽつり結社に投稿するくらいしか発表の場がないとこぼす人がいたとしても無理はない。庶民として考えれば、それなら自分のサイトに歌をアップして誰かに見に来てもらうとか、そちらのほうが救われるような気がしてしまう。
あのランボーですら、自分で出版しようとした詩は僅かしかない。
今さらながらになるほどなーと思った次第。
こりゃ相当大変・・・
が、しかし、ネットでやっていたらお金かからないもん。ゆるせ、かとー。(←呼び捨てにしたら叱られるよん・・・真似しないでね。)

投稿者 Blue Wind : 10:16 PM | コメント (0) | トラックバック

November 08, 2004

模様眺めの理由

近頃、** Blue Wind ** Tanka Blog のアクセス解析を眺めていると、古今和歌集のページからアクセスしてくれる人が多いことに気が付く。「古今和歌集 口語訳」で検索すると、いつの間にやらトップになっている。
このページは、ブログをつくる際にデザインを決定するために試しにつくってページ。せっかくつくったのにもったいないとばかりに、これだけちょこんとリンクしてある。
で、験をかつぐ意味もあってか、中途半端に訳してみたものが実はサイトの一番最初のブログ記事となっている。
こんなことなら、いっそのこと古今和歌集の独立ページをつくってしまうとか?
アクセス数を稼ぐつもりなら、それこそそういうメジャーなページをつくるべきなのかも。それはわかっているのだけれど、時間が足りない。(言い訳か?)それを考えると他人のつくったページをリンクするというのは実に簡単なのである。その代わり、消えるのも早い。

題詠マラソンで検索すると、何故かわたしのページが一枚出て来る。
「つくば 短歌」で検索したら、どういうわけか短歌履歴のほうが出て来る。こちらはまるで更新せずに放置サイトになっているため、どうしてこれが出て来るのか不思議。そこがインターネット・ミステリー。

どうしていきなり古今和歌集のことを考えたのかというと、たしかにアクセス数のこともあるけど、題詠マラソンの感想会とか、いわゆる歌の鑑賞という意味で何となく古典を思い浮かべただけ。選者という言葉や、鑑賞、歌会、あれにこれにと今さらながらに短歌というのは和歌なんだなーという気がしたから。
和歌や古典といえば思い出すのは、遥か昔の受験勉強・・・悲しい。おそらくは大学受験が終わり、大学院受験で浪人し、前期課程が終わったと思ったら、またすぐに後期課程の受験があり、わたしの人生の大部分はこういうことに費やされていたのではないかと思ってしまう。(おおげさ・・)
わたしはもしかすると、短歌が嫌いなのではなく、そういう受験勉強などを思い浮かべてしまうから自分で勝手に嫌いだと思っているのかもしれない。好きな教科ならともかく、古典となるとそれこそ現役の頃もかなり手を抜いていた気がする。範囲が限られていたせいかもしれないけど、勉強したという記憶ももはや失せている。
無意識のうちに、どこか避けているような気がしてしまう。
いや、きっと避けているのだろう。

話を元に戻すと、どうして古今和歌集のページをつくるのをやめたのかについては、たしか著作権のことを考えるとややこしいという理由もあった気がする。古典だからとっくの昔に著作権自体は切れているんだけど、結局、それをどこかの本から転載したり、サイトで配っているファイルなどを使ったりするわけで、ウェブは無償配布の世界だから捜せばいくらでもあるんだろうけど、なんせ聖書にも著作権がある時代だから、それを考えると非常に面倒。聖書の時にも結局、献金という形で間接的に許可をもらったようなもらっていないような中途半端なところで落ち着いている。これが出版物に引用するとか、布教目的とか、あらかじめ明確な理由であれば規定があるのだろうけど、個人サイトでの写教聖書という形になると判断が極めて難しい。決して悪いことではないにもかかわらず、著作権のことがあるという・・・なんで聖書に著作権があるのか不思議な気がするけど、出版社というのは完全なボランティアではないからある意味仕方がない。で、著作権料の支払いというのもヘンなので、献金ということで落ち着いた。
古今和歌集ということになると、どうなるんだろう・・・悩む。
和歌のサイトで、たしかあるサイトが別のサイトをコピペして和歌の部分をアップしていたのかな・・・よく知らないけど、それが理由で大いに揉めているという記事を読んだことがある。百人一首のサイトかな・・・もはやそれすら覚えていないけど、歌自体は同じなのに、コピペというのが気に入らなかったのだろうか。平仮名とか漢字とか、アップしている人によって微妙に違いがあり、それがまったく同じだったという理由で、コピペがばれたらしい。
それくらいどうでもいいような気がするんだけど、世の中は非常に面倒なので、触らぬ神に祟りなし的にうちの古今和歌集のページの更新はそのままになっている。幸いにして、今のところクレームは発生していない。まあ、あれはあれで勝手にわたしがサイト用に原文に改行を入れているから、もしかするとあれはわたしに著作権があるのかもしれない。その程度の著作権であれば、どんどん使ってほしいくらいだ。

でね、選歌。
実は、わたしも以前は自分のサイトに友達の歌などをアップしていた。ところが、いろいろあってやめた。ヴァーチャルな関係性においては、誰の歌がサイトにアップしてあるとかないとか、それ自体が関係性のネタになってしまうためにややこしい。
題詠マラソンや、著作物、あるいは結社誌などから拾って感想を書いてもトラブルは発生しない。逆に推奨されているような気さえしてしまう。狭いグループの中でやっているのとはそこが違う。
インターネットなんてところは、BBSへの投稿ですら匿名のくせに一旦それが著作物に引用されたということになると、訴える人がいる。つまりは、勝手に引用・転載してはいけないのである。ただし、自分のサイトへの荒らしの記録などを保管する目的であればかまわないという判例もあるらしい。それくらいややこしい。
歌を感想などを目的に引用するのは、一般の著作権で考えても違法にはならない。が、しかし、選歌となるとどうなんだろう。これまでのサイバー上のトラブルを考えると、「えっ、そんなこと知らない人が勝手にやってもいいの?」なんて思っていたんだけど、これも推奨されている気がする。
とにかく常識が違う。悩む。

それより以前に、自分の歌のページをつくるべきだろうか・・・これもそのまま面倒だからやめている。あらゆることがややこしいために、落ち着くまでにはまだまだ時間が必要なのかもしれない。

投稿者 Blue Wind : 01:09 AM | コメント (0) | トラックバック

November 04, 2004

歌人としてのパスポート

わたしね、(って誰に言っているのかわからないけど・・)歌人になって一つ気が付いたのは、なんて世論は短歌に冷たいのだろうということ。とりあえず、「インターネットで歌を詠み始めて・・」というフレーズまでは温かい。ところが、「結社に入って・・」と続けると、とたんに冷たくなる。
まあ、自分の子ども時代から今までを振り返ると、短歌や和歌は学校の教科書で習うくらいで、後は年寄りが詠んでいるとか、そういうイメージしかない。実際に調べたら、ちょうどわたしが生まれたあたりから詩が隆盛を極め、短歌や俳句は急に廃れてしまった。
自分も子どもの頃から翻訳詩などを読まされて、というか、読んで育ったくちなので、ランボーや中原中也が好き。だから、好きな歌人を問われると困る。
近頃は諦めて、小野小町と答えることにしている。とりあえず、郷土(茨城)ゆかりの歌人ということなので、一番無難ということもある。ただし、いまだにどうして小野小町と新治が関係あるのかまでは知らん。
このような有様なので、短歌はアートであるとかないとか、詩であるとかないとか、そういう高尚な次元の前に、うちの姑さんあたりになると、PTAをしていた頃の鬱憤の続きに歌会や短歌・俳句というものが存在しているらしいことにも気づく。つまり、PTAの誰某さんが歌人をしていて、自分の親しい人たちを集めてその中でグループをつくって幅を利かせていた、というヤツ。何か言おうと思ったけど、言っても無駄だからやめた。

「神さまとだけお話しせよ」という意味はさほどおおげさなことではなく、救いというのがささやかな事象を指すように、小さなことなんだと思う。
元来、詩なんてものはそういうものであり、自然を詠ったり、愛を詠ったり、日常を詠ったり、ささやかな目線の中に詩はある。

「ネット短歌」についておしえてくださいというメールをキャッチし、これもなんと言うか、なんと答えてよいのかわからない。
大抵の場合、ネットは恋歌ばかりとか、枡野さんの信奉者が多いとか、カラオケ歌壇とか、そういう悪い意味で使われることが多い。誰がそんなこころないことを言っているのか、については置いておいて、メディアとしてのネットを考えると、すでに歌壇はインターネットを無視できないらしい。
そこで検索したところ、ネットは上級者と初級者が多く、上級者は初級者の指導に手が回らないというニュアンスのフレーズを発見。
正直、「はあ?」ということで、どうしてわたしが「はあ?」と思ったことについても、どうやって書いてよいのか悩む。わたしは正直、歌壇や結社というものをまるで理解していない。誰かがカルチャーセンターと一緒にするなと怒っていたけど、あっさり語れば、カルチャーセンターでなければ水泳教室みたいなものなのかも。
まあ、メダルを取った人がいて、コーチになる、といった具合だろうか・・・だから、コーチによって選手が伸びるとか伸びないとか、素養とか、努力とか。

こーさー、なんていうかさー、詩、なのか?
そうやって考えると、一人でひっそりと恋歌などを詠んでいる人たちのほうがよほどポエムな人たちのような気さえしてしまう。

集団的努力があって維持されているとすると、その言い訳としては古典芸能だからとか、日本の文化だからとか、いろいろな言い訳が存在するのかもしれない。廃れゆくものを保護しようと社会が努力するのは当たり前なのだろう。それでいて、努力すればするほど廃れていってしまうような虚しさがある。

人にこころが消えないかぎり、詩は消えない。
だから、本当は形はどうでもいいのかもしれない。短歌でも俳句でも自由詩でも。

一人では何もできないと言われることも多いけど、そうやって言われれば言われるほど、天邪鬼は一人の世界に埋没したくなる。かといって、自分が完全に一人ではないことは承知している。歌をサイトにアップすれば、誰かが勝手に見に来る。誰にも見られたくないのなら、ローカルに置いておけばよい。
つまりは、関係性なのだと思う。
仲間内だけとか、先生に送るというのとは違って、ウェブにはそういうしがらみは少ない。勝手に詠んで勝手に読む。それがひとりよがりと言われるのなら、世の中の出版物はほとんどひとりよがり。
結社では短歌が廃れてゆく中、かつてカルチャーセンターから結社へ行った人たちと同様にネット歌人を考えているらしい。ある意味そういうものなのかもしれないし、それでいて、わたしから見たら、どうしてあんな窮屈なところで歌を詠んでいるのか不思議になることもある。固定読者がいることが強みらしい。先生に勧められた参考書を買うように歌集を買う世界だから、なおさらなのかも。

それでね・・・サイトで書きたいことを書いていて、何か困ったかと言えば、何も困らない。すごく困ることになれば、主宰が出て来て治まるようになっているらしく、自分に関係のないところで何かが生じ、何かが終わっている。そうやって考えると、自分もまた歌人をしている以上、保護されているらしい。
つまりは、あらゆる芽を摘んではいけないような状況にあるのかも。
誰かが言っていた理由が何となくわかる。このようにひまつぶしのような形で歌を詠んでいても、それは一つの文化的貢献なのだそう。
歌人としてのパスポートの発行はあくまでも短歌にある。だから、特に帰属を強く求めなくても日本人に生まれたら日本人であるように国民が政府に保護されているのと同じ。体制を批判しようとどうしようと、パスポートは発行される。

投稿者 Blue Wind : 04:27 PM | コメント (0) | トラックバック