September 22, 2003

懐かしの”ジェイル・ハウス”的ネタ

NHKでやっている『宮本武蔵』が、巌流島の決闘シーンだったから今日で終わりだと思ったのにまだ続くらしい。
日頃テレビなどを観ない自分がどうして『宮本武蔵』なのかというと、このところダンナがあれを連続して観ているから。
同じ部屋に居れば、どうしたって観てしまう。
正確には聴こえてしまうと言ったほうが早いかも。

なんで観ているのかを聴いたら、武蔵が絶対に負けなかったからなのだそう・・・
もっとも負けたらその場で終わりだから、正確には武蔵が絶対に死ななかったから好きなのだと思う。
彼の口癖というか、彼の父親の口癖だったんだろうけど、「死んだら終わり」という口癖がある。
父親の葬式などを経験すると、それは結構感じたりすることが多いけど。
浮世の義理などはそういうものだし、一生懸命に世のため人のためなど言っても、生きている間には少しは何かが見える気がするけれど死んだら終わり。
勲章があるだけマシな場合もある。
でも、それがどこで子孫に還元されるのか、あまり理解できない。

武蔵が面白いのは、伝説の人だからなのだそう。
実際に、戦国時代に国取り合戦に参加していたわけでもないし、ひたすら剣の道だけで名を残したわけで、あれだけ剣客や暗殺を恐れていたからには、めったに人前をふらふらしたとは思えない。
だから、偽者もたくさん出没したという話。
知らない人たちから見たら、どうやって本物の武蔵と偽者の武蔵を判別したんだろう?
ダンナに言わせると、親友というのがいて、それで嘘がわかったというのだけれど、実際問題、顔で判別しても剣で判別できなければ、それは武蔵であって武蔵ではなく、つまりは、絶対に負けなかったらこその武蔵というか・・・
つまりは、彼は武蔵のそこが好きなんだと思う。

まったく関係ないけれど、そういう話をしながら、パソコンを眺めている自分は本物の自分だ。

「ネットでも自分のなりすましみたいなのが出没したりするのよ(笑)」
ちょっと言ってみる。
偽の"りんさん"が出没?
すごすぎるよね・・
確かに、武蔵じゃないけれど、顔が見えるわけでもないし、てきとーに書きたいことを書いて誰かが真似をする。
短歌にしたところで、あくまでも自分という個性がなければ誰が詠んだって同じだ。
ネタを追求すれば、それは自分しか詠めないような気がするけれど、結局はそういう自分にしか詠めない歌とか、自分にしか書けない話とか、そういうことが大切なんだろうな・・・

が、しかし・・・
いつもそこで立ち止まる。
自分にわかって、相手にわからないことを書く場合、気分が悪いとイライラしてしまう。
「なんでわからないのだろう」
などと、小学生を眺めるように世の中を眺めてはダメなことくらいはわかるのだけれど、どうしてそんなこともわからないのかとイライラしたりする。
勉強ならちょっと理解すればいいのかもしれないけれど、個人のメンタリスティックな部分とか、洞察とか、ちょっとした些細な人間観察とか、言葉とか、流れとか、その他諸々雰囲気や気配、発想、などなど、どこか一個の人間を形成している"何ものか"を感性という代物で捉えている場合、それを言葉にするのが大変。
ちょっと語れば理解してくれる人もいれば、まったく理解してくれない人もいる。
しかもネットというのは一方通行社会。
しかも、常識仮面というか、人間を型どおりにしか眺められないような人もいる。
こうなると、どうやって説明しても、理解の上を期待するのは無理だし、2割くらい理解してくれたらいいかな、とか、ちょっとでも・・とか、だんだん微かになっていき、そのうちどうでもよくなってしまう。
どうでもよくなるということは、誰も理解してくれなくても平気になるということでもあるし、誰も理解してくれなくても平気にもかかわらず、何かを理解してくれる人がいるから「選歌の目」なんだな・・という具合に発想も飛ぶ。

そうなのよね・・
何と言うか、名刺を配り歩く仕事ではない限り、ワザとか作品がすべてという世界では自分を説明するものが何もない。
作品は知られているけれども、顔はまったく知られていないということもある。

そこが”ジェイル・ハウス”の住人だったんだろう・・
気配や雰囲気がすべて・・・

そうやって考えたら、すべてがどうでもよくなってきたな・・・

投稿者 Blue Wind : 01:40 AM | コメント (0)

September 20, 2003

他人と指紋が違うからといって個性があるとは言われないのよね

どこを見ても、何を読んでも、偶然なのか流行りなのか、多くの人に共通の悩みなのかわからないけれども、「自分を出す」とか「個性」というタームだけがやたらと目に付く。
個性などというものは、無理に出さなくても、他人と同じことをしているつもりなのに、気が付いたらそこからはみ出てしまっている自分というか、殺して殺しても殺しきれないものが個性なんだろうから、無理にあれこれ考える必要はないはず。
はずなんだけどね・・・
それだけではダメだ。

アートというのは、唯一無二だからアートなわけで、ダラダラと蔓延しているものは流行と呼ぶ。
ところが、指紋は一人一人違うはずなのに、指紋というタームを語れば指紋がわかるというのはどこか共通概念としての指紋が存在するわけで、自分の指紋を提示しても個性とは言われない。
単なるサンプルだろう。
第一、指紋に個性があるとは思えないけど。
ということは、他人と違っているだけでは個性ではないとういことなのね・・たぶん。

自分の得意な題材を探せという・・・
なんなんだ・・・
これではまるで卒論のテーマを探しているような雰囲気だ。

テーマが決まってしまえば、あとはやるしかない。
が、しかし、それが決まるまでが結構大変だったりする。
中には自分では自由に選べないという世界もあるらしいけど、それだって、そこのゼミに入るかどうかくらいは迷っているはず。

とにかく、テーマを探すということが大切であり、しかもオリジナリティというのかしら・・・そこまでたどり着くまでが大変であり、それが決定してしまうとそれだけでもあっぷあっぷしながらのたうちまわらなければならないことに気が付くために、探す苦労というのは少なくなるし、逆に、探さなくてもどうやって集まりすぎたネタを捨てていくかということが課題になる。
それでいて、卒論なんてものは遊びだ。

テーマがあり、しかも、得意な詠み方というのもあるだろうし、それを極めるだけでも大変。
やり始めたらキリがない。
詠めないところまで詠めば、自然と個性が出るらしいけど。
詠むのは簡単でしょ?
単に、5・7・5・7・7なんだから。
でも、何が詠めて何が詠めないか?

駄文でも、自分のことを書くのは案外平気だ。
姑のことでも教授の悪口でも、近所のことでも平気で書ける。
書いても何も困らないからだ。
自分のメンタリスティックなことでも、ジャンキー相手にくだらないことをしている自分というものをさらけ出すのも平気。
愛でも恋でも何でも平気。

でもね・・・
神さまとだけ話せという・・・・
死にそ。

投稿者 Blue Wind : 10:55 PM | コメント (0)

September 17, 2003

まだ自分4割

佐々木幸綱さんの言葉には励まされるなぁ・・・
現代短歌を定義する際に、あっさり個性の重要性から始めている。
そして、歌を理解するためには、最初に自分で一首でもいいから詠んでみること、そして、ご自分の経験として、次のように語っている。

「百首つくると多少面白くなる。三百首つくると自分の言いたいことが、短歌形式で多少言える気がしてくる。五百首つくってやっと、自分の心が他人にわかってもらえるようになる。本当に面白くなるのはここから先です。」(『短歌に親しむ』より)

そのように書かれているのを読んで、実際、自分がある日突然(2001年2月5日)に詠み始めて、データベースの数字などを眺めながら、気持ちを振り返ってみたりすると、本当の意味で短歌が面白くなったのは500首を越えたあたりからだったのではないかという気がする。

1000首を越えたあたりから、ぼちぼち自分のカラーというものが出始め、2000首を越えてようやく、歌の醍醐味を感じるようになる。
最初は面白半分だったのに、次第にそれでは物足りなくなってきてしまう。
結社へ入ろうと思ったり、あれこれ古典や現代短歌などを読み漁るようになったのもこの頃だし、2500首を越えてようやく自分が歌人の端くれであるという自覚が生じてきた。

それはまだ混沌としたままであり、未熟な自分が徐々に姿を現しつつあるような不思議な感覚だ。

なんせ、作歌歴10年20年・・・50年以上という世界だから、自分のようにまだ詠み始めて2年半程度では入門者だ。
オンするとCGI、外出する時にはメモを片手に、という生活になってしまうと、すでに生活と短歌は切り離せないものとなっていることに気が付く。
それでもビギナー。

それならもっと早くから詠み始めていればよかった?
いえいえ・・・
決してそんなことはなく、自分という人間と付き合いの長い自分としては、いかに自分が気分屋であり、てきとーな人間であるかを熟知しているために、気分の乗らない頃に何かをやっていても長続きしないことは最初からわかっている。
ましてや、大学で専攻してしまったりしたら、どちらかといえば、学究肌なので、自分で詠むよりも研究するほうが面白くなってしまったような気がしてしまう。

佐々木さんの著書が面白いのは、歌人としてではなく、どこか根底に和歌というものを知りつくした人の目を感じるからかもしれない。
それこそ古典から現代短歌までありとあらゆる舞い散る言の葉を眺めては拾い上げ、それを感性と学究精神により、簡潔ながらも歌の要を得ているからだと思う。

これはうまく説明できないなぁ・・・
目が違う。

何冊か歌人の人たちの書いた入門書などを読んでみたけれども、何となく読めば読むほど要点から遠ざかっていってしまうような混沌とした気分に陥ってしまうのだけれど、佐々木さんの場合は要点しか書かれていない。
どこが違うかといえば、歌人というのは一人の世界だから、一生懸命に自分の歌つくりの精神をいうものを理解してもらおうという姿勢が勝ってしまうのかもしれないし、自分の属している世界観というものから切り離しては語れないのかもしれない。
が、しかし・・・
ある意味、和歌なら和歌を一つの学問として突き放してしまうと、結社がどうたらこうたらとか、どういう歌がよいとか悪いとかなどは意味がないことに気が付かされる。
何というか・・・流れがあり、その歌の流れの中でさまざまが歌人たちが今の歌を作り出していこうというさまざまな試みすら分類し、識別し、鑑賞してしまっているというか、視点があまりにも自分などとは違うために、スカッとするのよね・・・
俵万智さんを世に送り出したのも彼がいたからなのかもしれないし、ダイナミックな気分になってしまう。

いつの時代の歌でもよい歌はよい。
選歌の目がよい。
センスの問題なのかもしれないし、いろんな歌を見つけてくるなぁ・・というか・・・
読みを知ることにより、自分の作歌のセンスと視点が変化する。
「この歌、いいだろ?」
と言われて、素直に納得してしまえるセンスというか、ある意味、歌マニアの世界なのかもしれないし、そういう意味ではうちのダンナなどは和歌などには興味がない分、厳しいよね。
生きているうちに白黒はっきりさせろという・・・
家で、もちょもちょ詠んでいないで、堂々と外へ出ろというか・・・
相対的価値観で生きる人ではないから、素直なんだろう。

詠んでも詠んでも舞い散る言の葉・・・
しかも、自分の歌なんてわからんのに、勝負しろという・・・

一つわかっているのは、まだ磨きが足りないということかな・・・
まだ自分4割。
もう少し身を削る必要がありそうです。

投稿者 Blue Wind : 12:11 AM | コメント (0)

September 11, 2003

不思議なシスター

若い頃に読んだ森瑤子の小説の中に、「いざとなったら歯ブラシ1本持って修道院へ」というセリフが出てきたように思う。
たしかにそうやって考えると、人生はとても気楽になりそうだ。
が、しかし・・・
普通の人には無理ではないかと思うけど・・・どうなんだろう。

学生時代、スペイン人のシスターがいた。
記憶というか、こころに残っている。
いつも頭の片隅に彼女の姿がある気がするくらい、潜在意識の中に浸透している。
名前も覚えていない。
おそらくは友達に訊いても似たようなものなのだけど、いつもお掃除をしていたスペイン人のシスターというだけですぐに通じてしまう。
自分が彼女に名前があることに気が付いたのは、彼女のお葬儀の日だった。

どうして気が付いたかというと、一斉にあちこちの授業が休講になり、もしかすると今日は休みの日だったかな?と思った記憶があるからかもしれない。
要するに、そのシスターのお葬式があるからと、シスターや学内の先生たちがバタバタしており、そういう空気ですら在学中に1度あるかないかくらいのめずらしい日であり、そのくせ、非常勤の先生の授業は普通に行われていたわけだから、なんとも不思議な雰囲気の日だったとしか言えない。

どうして記憶に残っているかというと、不思議なシスターだったからだ。
世の中の人たちはどういうイメージを持っているのかわからないけれど、自分の知るシスターは大抵インテリで、自分の専門分野を持ち、それは英文だったり国文だったりいろいろだ。
教授や学長などもシスターだったりするわけだから、その中でいつも黙々と誰とも話さないシスターというのはシュールな存在だったし、大抵のシスターは朗らかな印象。
それが、彼女に限っては、誰とも目も合わさない。
それでいて、いつも決まった時間に決まった場所をお掃除をしている。
一日中観察していたわけではないけれども、授業というのは同じ場所で同じ時間に行われるために、ラボを出て、いつも同じ場所にいるということは、そういうことではないかと、よく考えてみればこれも憶測にすぎない。

どうして彼女がスペイン人だと思っているかというと、誰かがそうやって言っていたからだ。
どうして彼女がいつもお掃除ばかりしているのかというと、一度結婚していたからだという。
これも実際のところ事実かどうかもわからない。
でも、誰かが言っていた。

この深々とした畏敬感をどうやって表現したらよいのかわからない。


◇『空気が揺れた日のこと』

この、隔絶とした雰囲気をどのように表現したらよいのかわからない。

日曜日の朝、カーラジオから流れてくる聖書の朗読などは、いわば政治家の政見放送のようなもので、田舎道をドライブしながら、「だから神さまは何もしてくれないという発想になるのだな・・」などとうすらとんかちはうすらぼんやり道路を眺めているだけだ。

教会というものがあって、そこを通して布教活動がなされているということが何となく理解できるというか・・・

ラテン語がわからなくてもラテン語の歌が歌えるようなものだ。
そもそも意味は後からやってくる。
音が先だ。

光は音よりも速かったということを不意に思い出す。

通常、まだ人としての関わりが存在しているような気がする。
道ですれ違えば挨拶もするだろうし、文字とか言葉とか文学とかその他諸々何か人としてのコミュニケーションが存在する。

ところが、そのシスターの場合は何もない。

同じ時間に前を通過する。
授業が終わり、ガヤガヤとやたらと音の響く廊下を音が通過して行く。
第一、そこの階段は誰も使わない。
たしか御聖堂へ続いていたはずだけど。
そこを使えば便利な時でも、外から回る。
つまり、わずか数センチ離れただけでも異空間であり、壁がある。
物理的には何も存在しないにもかかわらず、目に見えない壁が存在している。
シスターはそちら側におり、自分は通過する。

風だ。

行過ぎる風。

すべてが与えられていた。
そこには何もなく、それでいて一瞬にしてすべてが与えられていた。
まるで大昔の精神物理学のようだ。

愛という名の尊厳とかね・・・
この、空気が揺れた日の感覚をどうやって表現したらよいのかわからない。

投稿者 Blue Wind : 11:07 PM | コメント (0)

September 08, 2003

サラリーマンと主婦は一度やったらやめられない?

文学がどうして面白いかというと、何となく時代と共鳴しあっている自分を感じるからかもしれない。
サウンドは時代を写すダイナミクスというのは村上龍のセリフ?
すでに忘れたけれども、もしかするとサウンドではなかったかもしれないし、文学について語っていただけなのかもしれないけれど、何となく自分的に改ざんして解釈してしまっているような・・・
それでも今まであまりクレームも発生しない。

いずれにせよ、何が言いたいかというと、時代は変わるし、その時々にその時代や社会の中で翻弄されて生きているのが人間であり、それでいて、何となく考えることややっていることに大した違いはないような気がするのは自分だけだろうか?
生きるということはきっと成長して子どもを産んでやがては死んでいくというだけのことのような気がするし、その中でそういう生態系から外れた人たちも多く存在するし、なんか動物でありながら動物に素直に同化して生きていけない不器用な生命体というのが人間という気がしてしまうし、だからこそあれこれお考えになる人たちが存在するわけで、あれこれややこしいことを考えなくても人生はいたずらなまま過ぎて行く。

自分を晒すということはイヤだよなぁ・・・何となく他人の好奇心の餌食になるだけのような気がするから。
臭いものに蓋をするように、過去の自分を封印し、生きる。
自慢するとかしないとかそんな次元じゃないもの。
世界観が違うとしか語れない。

さらにそれから逃げ出すように、感覚やら知覚やら文系の学生のくせに数字と戯れる日々・・・
今は、文字と戯れている。

言の葉ミステリー。

なんで短歌が面白いかというと、限られた文字数の中に概念をぽいっと放り込んでいくところかもしれない。
別に定型にこだわる必要はない・・概念を語るなら。
でも、こだわりたい人たちが数多存在するんだよね・・・
何となく理屈っぽくもあり、不自由な中の自由というか、いかようにでも語れるからこその字数制限という気がしてしまう。

単なる言の葉遊びでしょ?
って言いたくなるのに、言の葉遊びだからのめりこんでしまうというか・・・
人それぞれなんだろうけど、他人のリアクションが面白いのはどこか突き放しているからなのかもしれないし、突き放せるのは定型だからという気がするし、突き放せるから自分がクリアになりやすい。

それをまたコネコネと評論したりして、そこが不思議な世界だ。
他人が深読みするのがよい歌というのは、そういうことなのかもしれない。
作者が意図した以上に誰かの反応があるからこその歌の一人歩きなんだろうし、一度発した歌がすでに自分とは違う世界を構築してしまったとしても誰も文句は言えないと思う。
作者ですら文句は言えない。
だって、文字は他人に晒すために存在するものだから、自分の書いたものは自分のためにあるのではなく、他人のために存在するから。
自分とお話するために文字が存在するわけではない。
文字にするから、自分とお話できるのかもしれないし、文字にするということは自分を他人にするためなのかもしれない。

他人になった自分を観察することは普通はしない。
それでも自分は普通の主婦だ。
普通である自分を放棄せず、作歌活動をするから歌がヘンなのかもしれないな・・・
サラリーマンと主婦は一度やったらやめられないって言うし・・・
ほんとそーだな。
主婦というのが安穏で平穏で平凡で、あまりにも幸せだから、どうしてもやめる気にはなれない。
なんか、幸せなのよ・・・

投稿者 Blue Wind : 10:09 AM | コメント (0)

September 05, 2003

世界中落ち日の色の変われるをゆらり太陽追いかけてみたい

うれしいな・・・
何がうれしいかというと、まったく知らない人が自分の歌から何かをインスパイアしてくれていると思ったら、それがとてもうれしい。
フィードバックの問題なんだろうな。
自分でさえ詠んだことも忘れてしまっている歌が多い。
それを忘れた頃にフィードバックされると、歌を詠んでいてよかったという気になってしまう。

そうなのよね・・・
自分のことを考えたらわかるじゃない?
好きな絵や写真、詩や短歌、その他諸々小説など文学やアートの世界は作者じゃないのよね・・
もちろん、作者に興味を持つ人たちはたくさん存在するかもしれないけれど、自分にとって大切なのは作品だ。

どうしてかわからないけれど、吸引されてしまう世界がある。
それが何なのかわからない。
それでいて、子どもの頃などはその意味さえもわかっていない。
それでも記憶の彼方に残っている。

要するに、自分はまだまだ未熟だ。
自分という存在を求めているからかもしれない。
うまく説明できないけれど、そういう気がする。
自分という存在は名前により決定されるわけではない。
気配なのかもしれないし、存在なのかもしれないし、魂とか精神とかそういう言葉は使わないけれど、自分という存在は今ここに存在している。
つまりは、自分という枠を取り除いたとしても、おそらくは存在している自分というものが枠に収まりきらない自分なのかもしれないと思うほどだ。

投稿者 Blue Wind : 02:43 AM | コメント (0)

September 03, 2003

短歌ナルシズム

こーね、常に公に束縛されていると、個に立ち返る瞬間というのが大切になる。
個に立ち返るために歌なのかもしれないし、だから自分史の世界とまで言われているんだろうし、それでいて詩というのが国の記憶であるというパスの言葉も考えさせられてしまう。

が、しかし・・・
個が確立された社会で短歌というのはヘンだよね・・・
こころをつなぐから短歌というのもヘンだ。
集団の高揚というのは詩だ。
だから、抽象概念も言葉の冒険も可能となる。

知へ上るか、情へ落ちるか・・・
歌はムズカシイ・・

結社誌と商業出版系のライター本を読み比べながら考えている。
当たり前なんだけどね・・・結社誌というのは商売じゃない。
文字通り結社のための雑誌。
小売しているわけでもない。
単なる同人誌。
発行部数も少ない。
それに対して商業系というのは金だから、金の匂いがしないことにはどうにもならない。
発行部数が少なければ廃刊になってしまうし、出版しても損。
だから、常に受け手のことを考えながら書くほうも書いている。
タレントの書いたテキストなどは誰かがリライトしていたり・・・
つまりは、読みやすくないと売れないから。
何を書いたらよいのかも、案外、自由がない。
企画する側とOKを出す側が一緒でもダメらしい。
常に、誰かの客観的意見が大切となるのは失敗しないためだ。

短歌は失敗してもいいのよね・・・
自費出版や結社誌などは売れなくても困らない。
会費という名目で集めているから、損にならない程度に発行していけばよいのだろう。

というわけで、酷くのんびりした気分になってしまっている。

サイトも同じだなぁ・・・と思って。

クールの身勝手さ?にうんざりして、今度はロリポップ。
いたれりつくせりだもの。
いちいちサーバにメールを書いて、.htaccessのことやらblogのことを考える必要もなく、先に与えられる。
サイトのつくれない人でも、今度は雛形。
インスタントでサイトがつくれる。

のらくらとしたユーザは、簡単に乗り換える。

短歌でも、売れないと困る世界もあれば、売れなくても困らない世界がある。
売れるものをつくっていくか、売れないものをつくっていくかも自由なんだろう。
商売というのは売れたらいいのよね・・・
感覚的な世界でもある。

知が働けば自然と概念として消化されてしまうし、こころや情だと常に”人”だし、個人。
自分であるか、概念であるかは、ずいぶん違う。

こーね、常に公に束縛されていると、個に立ち返る瞬間というのが大切になる。
個に立ち返るために歌なのかもしれないし、だから自分史の世界とまで言われているんだろうし、それでいて詩というのが国の記憶であるというパスの言葉も考えさせられてしまう。
常に個に立ち返る時間が必要というのもこの国の特徴なのかもしれないないな。
集団の高揚としての詩の世界と、個に立ち返るための歌の世界は、ルーツが一つでありながら咲いている花が違って見えるようなものなのかもしれない。
実際、接木してあると違う花が咲いているし・・・
植物ミステリーの世界だわ。

まあ、結社のサイトを眺めるといささか排他的なような気がするし、それでいて案外のほほんとしているというところが個に立ち戻り空間ということなのかもしれないな。

が、しかし・・・
個が確立された社会で短歌というのはヘンだよね・・・
こころをつなぐから短歌というのもヘンだ。
集団の高揚というのは詩だ。
だから、抽象概念も言葉の冒険も可能となる。

知へ上るか、情へ落ちるか・・・
歌はムズカシイ・・

投稿者 Blue Wind : 01:54 AM | コメント (0)