若い頃に読んだ森瑤子の小説の中に、「いざとなったら歯ブラシ1本持って修道院へ」というセリフが出てきたように思う。
たしかにそうやって考えると、人生はとても気楽になりそうだ。
が、しかし・・・
普通の人には無理ではないかと思うけど・・・どうなんだろう。
学生時代、スペイン人のシスターがいた。
記憶というか、こころに残っている。
いつも頭の片隅に彼女の姿がある気がするくらい、潜在意識の中に浸透している。
名前も覚えていない。
おそらくは友達に訊いても似たようなものなのだけど、いつもお掃除をしていたスペイン人のシスターというだけですぐに通じてしまう。
自分が彼女に名前があることに気が付いたのは、彼女のお葬儀の日だった。
どうして気が付いたかというと、一斉にあちこちの授業が休講になり、もしかすると今日は休みの日だったかな?と思った記憶があるからかもしれない。
要するに、そのシスターのお葬式があるからと、シスターや学内の先生たちがバタバタしており、そういう空気ですら在学中に1度あるかないかくらいのめずらしい日であり、そのくせ、非常勤の先生の授業は普通に行われていたわけだから、なんとも不思議な雰囲気の日だったとしか言えない。
どうして記憶に残っているかというと、不思議なシスターだったからだ。
世の中の人たちはどういうイメージを持っているのかわからないけれど、自分の知るシスターは大抵インテリで、自分の専門分野を持ち、それは英文だったり国文だったりいろいろだ。
教授や学長などもシスターだったりするわけだから、その中でいつも黙々と誰とも話さないシスターというのはシュールな存在だったし、大抵のシスターは朗らかな印象。
それが、彼女に限っては、誰とも目も合わさない。
それでいて、いつも決まった時間に決まった場所をお掃除をしている。
一日中観察していたわけではないけれども、授業というのは同じ場所で同じ時間に行われるために、ラボを出て、いつも同じ場所にいるということは、そういうことではないかと、よく考えてみればこれも憶測にすぎない。
どうして彼女がスペイン人だと思っているかというと、誰かがそうやって言っていたからだ。
どうして彼女がいつもお掃除ばかりしているのかというと、一度結婚していたからだという。
これも実際のところ事実かどうかもわからない。
でも、誰かが言っていた。
この深々とした畏敬感をどうやって表現したらよいのかわからない。
◇『空気が揺れた日のこと』
この、隔絶とした雰囲気をどのように表現したらよいのかわからない。
日曜日の朝、カーラジオから流れてくる聖書の朗読などは、いわば政治家の政見放送のようなもので、田舎道をドライブしながら、「だから神さまは何もしてくれないという発想になるのだな・・」などとうすらとんかちはうすらぼんやり道路を眺めているだけだ。
教会というものがあって、そこを通して布教活動がなされているということが何となく理解できるというか・・・
ラテン語がわからなくてもラテン語の歌が歌えるようなものだ。
そもそも意味は後からやってくる。
音が先だ。
光は音よりも速かったということを不意に思い出す。
通常、まだ人としての関わりが存在しているような気がする。
道ですれ違えば挨拶もするだろうし、文字とか言葉とか文学とかその他諸々何か人としてのコミュニケーションが存在する。
ところが、そのシスターの場合は何もない。
同じ時間に前を通過する。
授業が終わり、ガヤガヤとやたらと音の響く廊下を音が通過して行く。
第一、そこの階段は誰も使わない。
たしか御聖堂へ続いていたはずだけど。
そこを使えば便利な時でも、外から回る。
つまり、わずか数センチ離れただけでも異空間であり、壁がある。
物理的には何も存在しないにもかかわらず、目に見えない壁が存在している。
シスターはそちら側におり、自分は通過する。
風だ。
行過ぎる風。
すべてが与えられていた。
そこには何もなく、それでいて一瞬にしてすべてが与えられていた。
まるで大昔の精神物理学のようだ。
愛という名の尊厳とかね・・・
この、空気が揺れた日の感覚をどうやって表現したらよいのかわからない。