October 20, 2005

青で歌集

短歌はどうしたって?
なんで誰も訊いてくれないのだろう・・・(汗

短歌を詠み始めたのも、最初はちょっとやってみよっかなーという・・・・それだけ。自己中は他人のことはあまり気にしない。インターネット歌人がどうたらこうたらなんて、たまたまそういう流行や風潮に重なっただけなのだろう。

題詠マラソンも今年はキャンセル。

別に理由はない。ただ、忙しくなったということと、気分ということと、出版って大変なんだなぁ・・と思ったのと、商業出版系のノリにはどうもついていけそうになく、それでいて出版社の苦労を知るにつれて、やはりこれは遊びではないことを知り、そのすべてが鬱につながりそうなのであっさりリタイアすることにした。

そのうち歌集を出すとして、自費で出すとなるとタダではない。かといって出版社へ原稿を持って行くような性格でもないし、歌集なんて売れないと思っているから諦めがよい。

主婦の趣味の領域として考えた場合、あまりにも高額すぎる出費。ダンナは出してもよいと言っているが、わたしとしては気が進まない。だって財布を握っているのはわたしだもの。やだ。

けち!>あたし・・・

というわけで、診療所が完成し、青色で給料を貰うようになったら、好きにやらせてもらおうかと。別に、自分で働いた金を何に使おうがわたしの勝手ではないかと思うんだけど・・・ほんで、入り口に置いて勝手に誰かに持っていってもらう。誰も貰ってくれないかもしれないけど・・・まあ、それでも道楽だから。

そうやって考えたら一気にさっぱりしてしまった。

投稿者 Blue Wind : 01:57 AM | コメント (0) | トラックバック

September 19, 2005

もう忘れていた・・・

去年の題詠マラソンの単行本がこれから出るらしい。
仮名遣いについて、あれだけの量をいちいちチェックしていたという・・・もしかして、1人で? 編集者というか、俳人というか、今年はとりあえず3冊ずつの買い上げが決定しているせいか、のんびりしているだけなのか・・・

わたし的には、今年の題詠マラソンはお休み。

理由は、一身上の都合というか、要するに娘の受験があるからそれどころじゃないというのが実情に近い。

娘の進学?

それは、最終的には娘が決定すること。わたしとしては、ややこしいことは考えずに、前期に東大、東大落ちたら後期に東京芸大を狙え、としか言えない。両方落ちたら、受かったところへ行ったらいいさ、程度。

あれこれ言っても、結局、娘の意思。中学受験にして、それを思い知る。
つまらないところがわたしに似てしまった。

投稿者 Blue Wind : 02:50 AM | コメント (0) | トラックバック

August 02, 2005

第6回 常陸国 小野小町文芸賞 短歌募集中

◆テーマ: 自由。
◆表現形式: 歌の形式は不問。
◆応募条件: 作品は未発表のもの。2首組とし、何組でも応募可。漢字にはふりがな。応募作品に関する一切の権利は、新治村に帰属。
◆応募方法: 所定の応募用紙又はB5判の白色用紙に応募料2首組2000円(郵便小為替)を同封。(直接持参も可) 小中高校生無料。郵便番号・住所・氏名・年齢・性別・職業(学校名・学年)・電話番号を明記。
◆応募先: 〒300−4108 茨城県新治郡新治村小野491  
 問い合わせ先: 新治村村立小野の館内 「常陸国 小野小町文芸賞」係  
    TEL 029-892-1002 (FAX兼用)
◆応募締め切り: 平成17年9月9日(当日消印有効)
◆審査員: 三枝暁掘磯田ひさ子、坂井修一
◆賞: 審査の上、全作品から100首を入選とし、その中から短歌大賞1点、優秀賞5点、秀逸20点。ほかに小中学生・高校生入選各20点。賞状・記念品、応募者全員に入賞入選作品集の贈呈。*ただし、短歌大賞の作品は歌碑!
◆入選作品の発表: 平成17年10月下旬。入選者に通知。
◆表彰式: 平成17年11月上旬。

以下、省略。

死ぬまでには歌碑!
憧れです。

投稿者 Blue Wind : 12:18 AM | コメント (0) | トラックバック

July 23, 2005

PDF出版

エキサイトにブログをつくった。まだ何も書いていない。アドバンス(有料)にグレードアップすると、PDF出版で本をつくってくれるらしい。このサービスは、ニフやティーカップでもしている。エキサイトの場合は、いまだに進行形。

なんか疲れる・・・
出版という形で考えるのなら、毎日1首を詠み、そこにダラダラと日常を書いていくほうがいいに決まっている。なぜなら、そのほうが美しい日記に仕上がるから。しかも幻想的で美しい物語が書かれているほうがいいに決まっている。なぜなら、そのほうが面白いから。

わたしは長い間小説を読む週間が欠如していたため、あるいはもうずいぶん長い間映画にもドラマにも興味の持てない生活をしていたため、そのようにストーリーを追いかけるというのが非常に苦痛になってしまった。

わたしは案外リアリストである。
架空のストーリーを読むほど暇ではない。
それよりも現実にはしなければならないことが山のようにあり、それでいてこのように駄文を打っていられることがわたしの何よりの楽しみであり、ストレス発散である。

アメブロから学んだこと?
それは想像以上に多いかもしれない。

あっさり語れば、とてもたくさんの人たちが出版の仕事に携わり、あるいは本を売ったり書いたりする仕事に携わりつつそれを憂いていること。その原因の一つがIT革命にあること、不景気によりごみ箱や電車の棚の上の雑誌や本がリサイクルされていること、競合する雑誌などがたくさん出版されていること、ゆとり教育により子どもたちの活字離れが進行していること、単にストーリーを追いかけるよりビデオやゲームで楽しむ人たちが増えたこと、ゆっくり本を読んでいる暇のある人たちが減ったこと、その他諸々出版物の全集化や絶版など、欲しい商品が欲しい時にないなど、書いていたらキリがない。

それと同時に、うまく説明できないけど、価値観そのものが商業ベースが主体となり、今の人たちは人生を考えるよりもどうやったらビジネスに成功するかや具体的な人付き合いの方法などマニュアルを求める傾向があり、人間がロボットに近くなりつつある。

そういう社会背景の中で、娘の楽しみは絵を描くこと。
が、しかし・・・・
そういう社会背景の中で、現実的に娘が絵の勉強をしたいとなれば、ごく普通に美大に進学し、留学させるくらいしかわたしには思いつかない。それでいてそうやって苦労した人たちが今は何をしているのか、わたしはよく知らない。

娘にはもっと勉強させなければならないと夫が言う。それは進学のためというよりむしろもっと日常的に勉強することが必要だと言う。わかってはいるが・・・娘はわたしの子である。必要性がないことに熱意を持つような性格ではない。

平凡な日常の中で、一つ絵を描くことが楽しみならそれが素晴らしい。
だるだるに受験勉強の夏は続いていくし、それでいて休みの日に友達と遊ぶ約束をしたり、旅行へ行ったり、そういう日常があるから絵が描けるのかもしれない。絵そのものが目的になってしまったらもはやつまらない。

すべてが道具として手段として存在している。
出版もタダではないことを考えると、記事もそれなりにまとまったものでなければならない。なんて厄介な作業なんだろう。そろそろ短歌も整理する時期なんだろうか。9割を捨てなければならない。テーマに分類したり日記だったりややこしい。記事数300というのが最大。ファイルの大きさを考えて整理せねば・・・

投稿者 Blue Wind : 03:50 AM | コメント (0) | トラックバック

July 15, 2005

近頃

バッグの中には、古今と万葉。
素朴さが愛しい。
いかんなぁ・・・
似合わないことしてる。

投稿者 Blue Wind : 10:11 AM | コメント (0) | トラックバック

July 07, 2005

無駄こそすべて

そういえば、わたしも学生時代、考えた気がする。英語はともかくどうして古文や漢文を勉強しなければならないのだろう?って。あっさり語れば嫌いでもやらなければならないのは受験があったからで、その後国文や史学を専攻するのでないかぎり、まるで役に立たないまま忘れてしまっていた。

そうやって考えると、わたしは役に立つ勉強をしたことがあるのかどうか懐疑的だ。それでもうんざりするほど英訳を受験勉強でやったおかげで、それがかろうじて大学院へ入ってから役に立った。でも、もしも進学しなかったらもっと実用的な英会話をやっておいたほうが役には立つだろう。

でも、よく考えてみたら働いたこともなければどれもこれも役には立たない知識ばかり。それでよくこの年まで生きてこれたのか不思議かもしれない。

母はそういうことを否定する人ではなかったので、今は役に立たないと思うことでもそのうち役に立つこともあるかもしれない、とよく言っていた。人生は思いがけないところで思いがけないことが役に立ったりするものらしい。そうやって考えると、まさか自分が歌人になるなんて予想だにしたことがなかったため棄てられていた知識ももしかすると少しは役に立っているのかもしれない。パソコンにしてもそうかも・・・まったくもってして苦労の種というか、いやいやながらやっていたことが忘れた頃に役に立ったりする。

そうやって考えてみると、わたしの無駄な知識はわたしに利をもたらしてはくれないけれども理をもたらしてくれているらしい。

投稿者 Blue Wind : 12:30 AM | コメント (0) | トラックバック

June 28, 2005

だるだるミクシイ

わたしのミクシイはだるだるのまま放置されている。
入ったきっかけは、「ミクシイだとあらしはないです」というNatさん の説得力のあるメールだった。その結果一つわかったのはNatさんの奥さまがわたしの友達と小学校から大学まで同級生だったということ。奇遇といえば奇遇だけど、よく考えたら世間は狭いので間接的なお知り合いというのはちまたに溢れているのが普通。

ふじたさんは以前結社誌のことでお電話いただいて、「その節はどうも」というつながり。わたしはいまだに幽霊を続けているため、そのうち購読だけにしようかと思いながらもだるだるのままネット歌人を続けている。Natさんは間接的に「未来」関係のつながり。ふじたさんは「塔」。

Natさんはお父さまが有名な歌人だったらしい。まさぴんさんはおじいさまが白秋のお弟子さんだったらしい。「らしい」というのはわたしが歌壇のことにはまるで詳しくなく、おそらくはうたも知らない可能性があるため、深く追求しないことにしている。

Jasmineはサイトをつくり始めた頃からの友達。そのうち生姜湯を送る約束になっているのだけれど、だるだるのままそのままになってしまっている。

ごめん、Luluさま。忘れてた。誰か抜けているような気がしていたら・・・
Luluさんはアメブログを通しての関係。今、タンザニアのほうへ行ってしまっているため、空中庭園のようなつながりになっています。

題詠マラソンもそういえばどうなっているのか気になるところだけど、どうも2年目の今年、だるだるなまま放置している。2004年版が本来ならそろそろ活字になっている頃なんだけど、どうも2003年版が売れ残っているせいか気合が入らないのかもしれない。世間でこれだけ話題になり、賞の候補にもなり、それでいて期待したほど売れないということが何となく雰囲気で伝わってくる。

わたしという人がいかにだるだるな人かを何となく自覚。

とりあえず、生涯のうち3冊歌集を出すことに決めている。もしかするとプレミアがついたりして・・・というのは、大抵は贈呈の世界だからつながりがありそうなところに送られるらしく、アマゾンで購入しようとしてもよほど有名な歌人で絶版になっていないという条件でなければすぐに売り切れてしまう。そういうものなんだなーというのが今のわたしのだるだるさに拍車をかけている。

その点、インターネットはオープンな世界。
いや・・・・・ミクシイをやりはじめて、それが本当にそうなのかわからなくなっている。
いずれにせよ、幻の歌人でいたほうが気楽なのかもしれない。どうせ、うた、下手だし・・・いかんなー。

投稿者 Blue Wind : 04:07 PM | コメント (0) | トラックバック

June 15, 2005

発露

いつからだろう・・・
一体いつから自分がその手の代物を排除するようになったのか、よく思い出せない。少なくても大学へ入ってからは、宗教その他諸々オカルトを含めてその手の代物を避ける傾向が高くなる。

このことはかなり矛盾に満ちているだろう・・・
少なくても修道院の大学なのだから、年中その手の話題には満ちあふれているし、実際、毎日ミサ曲を歌わされていたようなものだし、信仰が日常的に落ちてはいる。それでいてわたし個人としては、その手の類を避けてきたわけで、その理由としていくつか考えられるものの自分でも明確な理由はわからない。

名目上は文学部の学生だったけれども、わたしはあまり文学にも哲学にも興味が持てず、ひたすら愛想のない世界で数字と戯れていたような記憶がある。おりしも時代はまだブラックボックスという言葉が使われており、心理学会も行動主義が主流。認知心理学が台頭してきたのはわたしが大学院へ入ってから。つまり、人間の「行動」を研究するのが心理学と教えられ、もっぱらアウトプットされた反応だけを扱うことにわたしはあまりにも慣れている。

実験で実証できない事柄は扱わない。つまり、神や神秘主義者の好むようなこと、あるいは哲学で扱うような事柄を含め、ユングもフロイトも心理学だという感覚で読んだことはない。バリバリの理系の人たちにすれば、フロイトは哲学だと言う。それでいて、哲学の人たちからすればどうなんだろう。精神医学というくらいだから、どちらかと言えば心理学の範疇に含めて捉えているのではないだろうか。

正直に語れば、わたしの目から見ても、青山圭秀さんはバリバリの先鋒というか、神秘主義者であるがゆえに物理学を専攻したという気持ちがよくわかる。さらに、神が見えないからこそ聖書学者になった前島誠神父さまのことも何となく理解できるような気がする。

否定しても否定してもわたしは神を信じている。
これって今の時代にはかなりきつい。
でも、考えてみれば、神父さんやお坊さんを考えれば、世の中自体がそんなものなのかもしれないと思う。つまり、一生懸命に否定する傍らで、死者は弔うのである。人間とはなんて矛盾に満ちた代物なんだろう。神仏を信じる気持ちがない人たちでも、聖職者が神や仏を信じていないとなったらいささかの不満を覚えるだろう。
バカだ。
人間というのはなんてバカだろうって思ってしまう。

そういうバカは自分だけだろうと思っていたら、実はおまえもかーということはめずらしくもなんともない。一生懸命に信仰や題目に目覚めている人のほうが実は信仰心がないような気がすることもめずらしくない。ってことは露出が多いほうが嘘っぽい。

遠藤周作氏がどうして小説を書いていたのか、少し理解できるようになった。というのは、例えば意識という言葉すら行動主義が全盛期の頃にはブラックボックスの中に閉じ込められていたのである。つまり、そんなことを心理学者が言えば完全にバカにされるという時代。

人間なんだから誰でも生きている。精神もあるだろう。ってことは、それが意識であるという部分は誰でも持っているはず。なのに、その部分はブラックボックスだから扱わない。

そのことに対して不満があったかどうか・・・・
学部の頃は、かなり不満だったかもしれない。
が、しかし・・・・
実験や研究には手続きというものがあり、妥当性にこだわれば排除せざるを得ない部分は思い切って排除しなければならない、という宿命に慣れてしまうと、さほど迷わなくなる。分野は違っても大なり小なりそういうものなんだろうな。そして、本当に大切なものは鍵をかけてしまっておくように、どこか人目につかないところに隠す。

小説はフィクションである。
フィクションを前提としているから許される部分が大きい。
研究はそういうわけにはいかないもの・・・
そして、どうしてわたしが研究を進路に選択したかと言えば、それがわたしの鎧となり、わたしを守ってくれるからだ。

ユングが自分の神秘主義者的な部分を隠すためにあのややこしいユング心理学が構築されたのかと思うと、なんであれほどまでも読みにくくコムズカシク書かれているのか少し理解できた。ユングの理解者たちはいともたやすく解説してくれるけど、ユング自身の著作物の難解さといったら苛々するくらいだ。つまりは、それくらいガードを堅くしなければならない理由・・・

わたしはすでに神がいるとかいないとか、信じるとか信じないとか、キリスト教とか仏教とか、西洋とか東洋とか、すべてのことに対してどうでもいいという投げやりな部分を抱えている。投げやりというのは正しい言い方ではないかもしれないけど、いわば「だから何なのさ」的に突き放すことに慣れている。つまり、神秘主義で語らず、それを何らかのアウトプットしやすい方法に置き換えて語るほうが遥かに楽だからだ。数値は素晴らしいとすら感じる。

他人と議論するパーツにおいては用語を用いる。それ以外のパーツは沈黙する。それらはわたしの中ではすでに違う。つまり、余計な露出を避けるために、わたしには専門用語が必要だったのかもしれないし、どうしてそんなに回りくどさが必要かといえば、それだけ世の中が唯物的で露出されたものだけしか必要としないということなのかもしれない。

信仰心が持てない人ほど変な意味で神秘主義にのめりこむ。だからといって、わたしは彼らに何かを言ってもムダだということを承知している。というわけで、傲慢にならない程度に逃げるに越したことはない。

無宗教ってどういうことなのかというと、鎧なんだろう。他人に踏み込まれたくない精神領域があるがゆえに、あえて露出を避ける。そこが無神論とは大きく違う。

でも、まあ、完璧なブラックボックス排除の世界で生きていたがゆえに、わたしは極めて普通の人なのである。変にオカルトや神秘主義に感知することなく、その手の人たちと一緒にされるのは非常に自分でも苦痛だし、それでいてわたしは神秘主義者でもある。バランスなのかもしれない、生きていく上での。

・・・・・・・・・というわけで、わたしは歌人になったのかも。
どこかに発露がないと、つらい。

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