クリスマス、おめでとうございます。
イブの日は、前日に訃報が入り、親戚宅へ・・・
お葬式は来週になったので、クリスマスにクリスマスミサへ。
入り口のところでめずらしくフィリピン出身の方に話しかけられ、一緒に隣の席に座った。顔は知っているけれども名前はいまだに知らない。
彼女「昨日、一人で教会にいたら、ツリーの星がキラキラ光っていたんですよ。一つだけずっと光っていて」
わたし「そう言えば、一昨日伯父が亡くなったので、昨日は東京に向かって高速を走っていたら、天使の梯子がずっと見えていました」
彼女「天使の梯子?」
わたし「そう。雲からの光が降りてくるみたいなのを天使の梯子って言います」
彼女「ああ、なんとなくわかる」
わたし「天使が上り下りしていたのかもしれないですね」
彼女「夜の雲も、透明感があっていつもと色が違ったし・・・」
わたし「昨日は、晴れていましたよね」
彼女「そう、でも雲の色がいつもと違った」
わたし「あの星を付けたのは、実はこの子(隣の席の娘)なんですよ」
彼女「そうなの?」
わたし「そう。クリスマスの飾り付けを手伝うために連れてきて、左の星を付けたのは娘なんです」
彼女「偶然。私、そういうことって結構あるんですよ」
わたし「それを知らせてくれるために、今日、隣の席に座ったのかもしれないですね」
などと話していたら、御ミサが始まった。
途中でまた、
「ほら、見て。星が光ってる」
と言われ、眺めたら、金色の光が壁に反射している。角度からすると右側のツリーかと思ったが、彼女が右側は影になっているから左側の星の反射だと言う。さっきまでなかったのに、たしかに壁に星が写っている。
互いに不思議だということを確認し合いながら、彼女はツリーの星がキラキラ光っていたので感動しているし、わたしは椅子に上って娘が付けていた姿を思い出して感謝の気持ちでいっぱいになり、娘は娘でなんとなく喜んでいるような気がした。
彼女「私は、この席が好きなんですよ。ほかの席ではダメ。歌えない」
わたし「そうですよね。神さまの正面で、神さまに歌う・・・」
彼女「そう。神さまがよく見えて、ほかの席では見えないから」
なるほどと思いつつ、まるでわたしの気持ちをストレートに代弁してくれているようで、嬉しかった。そう言えば、日本語のミサだと端のほうから席が埋まっていくが、国際ミサだと中央から席が埋まっていくような気がする。2度ほど聖歌隊の席に座ったきり、その席を避けているので、それを遠目に気がついて、話しかけてくれたのかもしれない、とその時なんとなく感じた。それとも、偶然か? ツリーの星の話も偶然だし、席の話もたまたま隣に座ったので話してくれただけかも。
いずれにせよ、彼女が神さまからのメッセージを伝えにくてくれたのは本当だし、皆で写真を撮ったり、にぎやかな御ミサだった。
(使徒 15. 12-18)
まどろめば誰そ知るらん吾がこころ聖書のなかに目あり耳あり
冬バラの勢いの下倒れたる自転車のカゴ土を被りつ
少しずつ遠まわりせし道筋に楓散りゆき楓舞い吹く
木枯らしの気まぐれなるか流れ星雲のうえには流れんものを
見えずとも遠き流星落ちたれば地上に吾ら雲を眺めん
(ヨハネ 4. 35-38)
その昔、いつの頃か忘れたけれども、娘と一緒に教会へ行き、「ここの教会はいつも誰もいないね」と娘が言っていたことを思い出す。今は御ミサや行事のあるときに行っているので、いつも誰かいるけれども、そういうとき以外では、もしかすると誰もいない時間のほうが長いかもしれない。
今日、勉強会へ行き、聖家族の像のことを話していたら、テラコッタの像を使うのは、今年が初めてだと言われた。今までに使っていた像は、5人の羊飼いが4人になってしまったがゆえに、隣の部屋にひっそりと置かれていた。つまり、教会で像ばかり盗まれる事件が相次ぎ、そういうことになってしまったそう。
冷蔵庫にまで鍵がかかっているので、変な教会だと思っていたが、冷蔵庫だけではなく、誰もいないときにはあちこちに鍵がかかっている。さすがに教会なので扉の鍵まではかけれないということで、そういうことになったそう。
どことなくギスギスしたところのある教会だと思っていたが、そういうことがあったとは・・・
25周年はどしゃぶりの雨で、実行委員長をしていた方が先日交通事故で突然亡くなり、かなりの衝撃が走った。
生ゴミは各自で持ち帰らなければならないとか、冷蔵庫の鍵のある場所とか、盗難事件のこととか、その他諸々信仰とはあまり関係のないところの話を知るにつれ、次第に暗い気分になる人たちも多いのかもしれない。
それにしても代母はいつも教会にいる。御ミサが好きで、毎日でも出たいと言って、あの年で毎日のように教会に来ている。ああやって年を取りたいと誰かが言っていたが、わたしも同感である。ちょっと見習って、わたしも行けるときには行こうかと思ってしまう。
娘も日曜日には一緒に教会に行ってくれるようになったので、わたし的には快調。が、しかし、娘を理由に聖歌隊から遠ざかろうと思っていたら、二人で誘われてしまった。あの子はまだ受洗していないのだが、よいのだろうか・・・
深く考えるのはやめよう。なんとなく自然に教会に溶け込んでいる娘をみると、なんとなく癒される。
(ヨハネ 4. 27)
生活保護の患者さんがいる。すでに3年以上通院していると思う。お子さんが4人いて、賑やかな家族だ。
ある日、障害センターから連絡があり、高校生になる長男ために医師意見書を書いてくれるかどうか問い合わせがあった。医師が手が離せなかったため、いつもの医療券の意見書だと勘違いし、受付の子が送付してくれるように答えた。数日して、送られてきた中身を確認すると、本当に障害福祉課からの書類が入っていた。
うちのクリニックで議論になったのは、あの子が本当に発達遅滞で、知的障害者かどうかということ。うちは内科なので、これまでに数回風邪などで診察したくらいで、ほとんど精神的な障害については記憶がない。そこで両親と一緒に来てもらうことにした。
わたしはそのどちらにも直接居合わせなかったのでよく知らないが、わたしの印象では、緊張すると少しどもるクセがあるほかは、あの家族の中では至ってまともで、今まで普通の高校に通っていると思っていた。ほかの子たちにも然り。
ところが、親が言うには、どの子も障害者で、すでにそういう学校に通わせているらしい。
皆、驚いた。
聞きたくなくても、父親の声が大きいので、診察室の話は筒抜け。一番上と下のお子さんを除くと、どの子も普通の子たちである。でも、障害者と言うからには、誰かが意見書を書いたのだろうし、ならばその意見書を書いた医師に頼めばよいのに、どういうわけかうちのほうに依頼が来ている。誰に書いてもらったのか訊いてもわからないと言う。
そこで、うちでは書けないから、然るべく精神科のほうを受診し、そちらで書いてもらうように親に伝えたらすぐに障害福祉課から連絡があり、受付で送ってくれるように言われたから書類を送ったのに、書けないというのはどういうことかとかなりきつい口調で言われたと、言われた。
***
どういうことなのか話が見えないので、今日、わたしが市役所に連絡した。電話口の人が3人代わり、ようやく担当らしき人が電話に出た。
とりあえず、うちでは親の消化器のほうは診ているけれども、お子さん達は風邪などで来ているだけだし、そういう話は初めて伺ったので対応に苦慮している旨を伝えたら、書類は破棄してくれて構わないと言われた。
そこでさりげなく、こちらのほうから、「あのお子さんたちは皆障害者なんですか?」と尋ねたら、「どこでその話を訊いたんですか」と逆に問われた。もちろん、ご本人からである。もし、本当にあの子たちが障害者と言うのであれば、その書類を作成した医師なり担当者がいるわけで、今回もそちらのほうで書いてもらうほうがよいのではないかと伝えたら、その担当者もよくわからないと言う。
要するに、すでにそういう学校(たぶん養護学校だろう)に通っているのだから、医者は意見書だけ適当に書いてくれればいい、という感じ。既成事実としてそうなっている以上、それ以外の方法は考えられないのだろうか。
とすると、あの子たちは、実は障害者でも何でもないのに、親によって障害者にされているのではないかという疑問が湧いたが、わたしとても、そこまでは言えない。
医師は、その子たちの父親から、お金が出なくなるから判子だけ押してほしいと頼まれた。が、しかし、子は障害者でもないのに障害者の学校に入れられ、そのおかげで、あの親は生活保護と子ども手当と障害者のための給付金まで受け取っているのだろうか?
***
どうしたもんかいな、と受付の子に話すと、「Oさん、夏休みに沖縄に行くって言ってましたよ」と言う。
はあ?
生保の人が、沖縄に家族旅行?
今まで、そういう話は聞いたことがなかったし、子ども手当てをどのように使おうと、そりゃその人たちの勝手だと思ったが、あちこちのショッピングセンターで目撃され、沖縄に旅行へ行き、子どもの学費はタダだし、バス代も医療費もタダ。しかも、働かない。
貧しい人たちにイエスさまを見つける・・・・
どうやって?
なんか、ものすごく裏切られた気持ちがした、嫌な話である。
(使徒 2. 12-13)
虐げられていた人たちがパラダイスへ行くということ?
が、しかし、それを現実に目の当たりにすると、まじめに働いている人たちがバカみたいじゃない? 子どもたちを障害者にして福祉を受けている人たちを喜べとか?
今まで、聖書をいかに他人事として読んでいたかを感じる。
罪深い人たちが赦されて、まじめな人たちがないがしろにされるのか?
でも、よく読むと、そうやって書いてある。
教会の人たちは、裕福で立派な人たちが多い気がするけど、世の中ってそういうものなのかも。
(エレミヤ 51. 48-49)
大学を出て職がない人たちと、養護学校を出て保護される人たちと。
何かが変わり始めているのかも。
娘を教会に連れて行く。
御ミサには行きたくないみたいだが、クリスマスの飾り付けがあるから手伝いに来いと言ったら、渋々着いてきた。バザーのときも、朝から起きて焼きそばを作ってくれたのも娘だし、高校生にもなると、わたしよりしっかりしているような気がすることがある。
本音を語ると、2週間ほど教会へ行っていなかったせいもあるし、聖歌隊の席に座らなくてもよい口実にもなると思ったし、青少年の育成という大義名分もあるし、前回、娘を御ミサに連れて行ったときよりも知り合いが増えて、娘を紹介したいと思ったからでもある。
娘を連れて行ったら、想像以上に、皆が好意的に喜んでくれたので驚く。考えてみたら、うちの娘などは孫の世代に当たる人たちが多いし、SさんやIさんなどは、ちょうど今の娘の年頃に洗礼を受けたので、それを思うと何となく感慨深い。3世代で何かを一緒にするという機会は、わたしにとっても娘にとってもめずらしく、案外、娘も楽しんでいたのではないかと思った。
***
教会の危機と言わんばかりに、アンケートが置いてあったけれども、あれは誰に向けられたものなのだろう?
若者か?
高齢者か?
それとも、働き盛りで忙しい世代か?
政治には興味がないと言いたかったけど、そのまま無視することにした。
教会の清掃当番ですらすったもんだしているのに、誰が教区の課題に首を突っ込みたがるのだろう? (現在、「マリア」会は、休会中である。)
朝鮮戦争にも興味が持てないし、尖閣諸島のビデオも観たけどどうでもいいような気がしてしまうし、地球は広いのだから、おそらくはいろいろな出来事が起こるのは当然のような気がしてしまう。
ただし、娘の修学旅行の行き先は韓国なので、中止になる可能性がある。親としては中止になってほしいところだが、学校側としては今のところ、どうなるのか推移を見守っているらしい。(という程度の興味はある。)
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それにしても、たった2回、御ミサに行かなかっただけで(勉強会もだが)、行かなかったことがバレてしまうというのは困る。いつも同じような人が来ているという印象は、間違ってはいないのかも。もともとちゃらんぽらんなんだから、そのうちパタッと行かなくなるかもしれないし・・・
でも、そうやって言ってくれる人たちがいないと、続かないのかも。毎週、御ミサに与るというのは、結構、しんどい。でも、娘の年頃からずっと教会へ通い続けている人たちは、ある意味、パワフル。
(エレミヤ 50. 1-5)