November 26, 2010

人から学ぶ

就職難とは聞くけれども、ここまで酷いとは思ってもみなかった。事務員を募集すれば、毎回60人くらい応募があるし、看護師ですら10人以上。しかも、面接をすると、仕事を辞めて、わざわざ看護師に転職している人たちが目立つ。採用する側にとってはありがたい状況だが、娘の就職を考えると頭が痛い。


うちの新しい事務員は、新婚さんで、このところ忙しいので残業が続いているので大変じゃないかと尋ねたら、前職では10時までの残業は当たり前だったし、ボーナスの支給も無くなり、逆に、良い仕事が見つかったと思ってウキウキしているのがわかる。なんか、羨ましい・・・


わたしは仕事嫌いで、嫌々働き始めたが、教会に通っていると、仕事を持っている気楽さを感じることもある。このところ風邪気味で体調が悪いが、この程度で仕事は休めないが、教会はお休みできる。


もしも本当に、こころの平安を求めるのであれば、たしかに人の多い日曜日の教会へ行くよりも、静かな日を選んで教会へ行くほうが、人が少なくてのんびりしていてよいかもしれない。知り合いが増えるにつれ、何となくいつも誰かと一生懸命おしゃべりしている気がするし、だからわたしの代母は、いつも少し遅れて教会へ来るのではないかと、近頃疑っている。


わたしの新しい代母は、もともと修道院にいて、最終誓願の前に、この世に戻って来たらしい。わたしの先輩なので、どうして修道院に入らなかったのか不思議だったので尋ねたら(あのようなタイプはほぼ間違いなくシスターになるから!)、そのように言っていた。ご本人は、どうして戻って来ることになったのかいまだにわからないそう。ただ、後ろにくっついていると、自然と教会の仕事を覚えるので勉強にはなる。


むしろ、わたしとは正反対で、一緒にいると、自分が放蕩娘のように感じてしまう。教会に通い始めて感じるのは、わたしはずっと前からクリスチャンだったが、つまり神さまを愛していたような気がするが、自分でそれを認めたくなかったのは、単なる不勉強によるものではないか、ということ。それと、復活という認識が欠落していたからだと思う。なんせ、いつもイエスさまは十字架の上にいらっしゃるわけで・・・


真理というのもよく聞く言葉だが、その意味を知ったのは最近のこと。旧約の部分が欠落していたために、本当の神さまの姿=真理と言われても、ピンと来なかった。


ということなどを、勉強会へ出て学んでいるわけだが、勉強会のメンバーは好きだ。教会の人たちは好きでも嫌いでもないと言いつつも、自然と好きな人と嫌いな人にわかれて行くような気がしてしまう。


分類すると、イエスさまが好きな人たちのことは好きだけど、教会が好きな人たちは好きにはなりにくい。イエスさまが好きで、教会が好きな人というのが理想なんでしょうけど、聖歌隊の席は御ミサの途中に、お知らせに関するメモが回ってきて打ち合わせしているような席で、わたし的には好きにはなれない。


バザーの手伝いも大事かもしれないが、手伝いの人たちは御ミサには出ないで準備している。迷ったが、わたしは御ミサに出た。特に非難されたりはしなかったが、なぜかわたしの前に代母が座っていた・・・(さすが)


人付き合いを優先させようとすれば、仕事を抜けて、平日に手伝いに行くしかない。まあ、手伝いなどに行かないほうが普通だと、代母が言ってくれたので、かなり楽になったが、行くのが嫌なのではなく、単に忙しいからつらい、というか。


そこで代母から学んだのは、行事が多くて疲れそうなときには国際ミサに出て、そのまま帰る。日本語ミサはその後なので、その後の行事や仕事に参加できないときなどは国際ミサに出て消えるほうが自然だ。それから、御ミサには始まる直前に行くようにする。そのほうが落ち着くのならそうするべき。落ち着かないというのではないが、早く行くと大抵はいつ御ミサが始まるのか気づかないくらいわさわさしてしまうし、御ミサに集中できなくなる気がする。


人から学ぶって面白い。ずっと長い間忘れていたような感覚だ。


(汽灰螢鵐函4. 1-5)

投稿者 Blue Wind : 07:30 AM | コメント (0) | トラックバック

November 02, 2010

教会は忙しい

教会は、忙しい。

わたしは過去のことは知らないけれども、少し前までは女性の仕事が多く、かなりきつかったらしい。まあ、清掃一つとっても、あの重い椅子を移動させて掃除するのは、若い人でも大変なのに、それをいつも同じようなメンバーでやっていたのだとすると、かなりの負担。近頃は、御ミサの後に全員で清掃するようになり、それだけでも軽くなったのだそう。そのほかに行事の手伝い、ボランティア、広報、会計などなど、仕事はたくさんある。長くやっていた人たちは、近頃ではお役御免モードかも。ご奉仕しないと顰蹙ムード?

でも、わたし的には、どうでもいいというか、堅信の後、自分でできる範囲内のことはお手伝いするようにしている。日曜日の御ミサの出席、清掃、木曜日の勉強会、聖歌隊、バザーの手伝い。今、仕事が忙しい時期なのでかなりきついけど、今まで何もしていないに等しいので、この突然の変化には、自分でも戸惑っている。

聖歌隊の席は、いかにも式典部という雰囲気で、わたし的にはかなり抵抗があったのだけど、皆に後ろの席でもいいから座っていろと言われるので、聖歌隊に加わった。バザーの手伝いも、比較的ライトなところを教えてもらい、雑貨のほうを担当することになった。知っている人がいるところのほうがよかったのだけど、カレーライスの担当は、前日に来て準備しなければならいとかで、わたしは娘の送迎があるから無理だ。それに土曜日は仕事が忙しく、へとへと。

***

司教様からお返事が届きました。

かなり毒々しい内容で、アウシュビッツの収容所で亡くなった少女の靴の写真が印刷されていた。が、しかし、わたし的には、それを見ても、残念ながら連想したのは日本の介護施設の現状。

そのような感想を送り返した。

少数の看護師と無資格の介護士が働き、患者が骨折してもずっと放っておかれて誰も気づかない。誤薬は当たり前。ある病院では、朝になるまで誰も死んだことに気づかず、何号室の何番ベッドがステったから医者と家族を呼ぶ、という具合だろうか。

一生懸命に働いて、そういうところに入るために高額の費用を支払う。死ぬのをじっと待っているだけのような生活。死に方が違うだけで、よく似ているような気がするけど、似ていないかもしれないし、それでいて、死に対しては、鈍感になってしまった自分を感じる。

わたしは、そのことを非難しているのではない。ただ、自分が鈍感になっていると感じているだけだ。そういう現状だと知りつつも、入居を待つ人たちは多い。

神様の復讐か?

早くして亡くなった少女は気の毒だけど、長生きしすぎている老女もそれなりに気の毒だ。大抵の人は、そのどちらにもなりたくないと思っている生きているだけのこと。

それにしても、誰かが亡くなることに慣れてしまうと、死に対して無感動になっていることには気づいた。それゆえに、わたしの魂は渇いているのかもしれない。

それにしても、亡くなる少し前に司教を呼ぶ家族というのは、何を求めているのだろう。要するに、死ぬことがわかっているから、お祈りしてもらいたかっただけなのかも。だったら、酸素マスクだって取ったらいいのに。まあ、わたしが看護師だったとしても、「医師の許可が必要です」と言うだろう。仕事ってそういうものだから。でも、家族が望めば、医師が拒むとは思えないのだけど・・・ 病院や施設で、死を連想するようなことはタブーだから、まだ生きているのに、お坊さんや司祭が院内を歩くこと自体もタブーなのかも。なるべく、目立たないように私服でお願いしますとか?

わからん。

***

それにしても、つくば教会は行事が多くて、大変な感じがする。常総教会はシスターが大変な気がしたけど、普通の人は、さんざんやったから私はやりたくない、と言うほうが普通。「無理しなくてもいいのよ」という代母の言葉が近頃少し理解できるようになってきた。大変すぎて、マリア会が休会し、その代わりにまるで小学校のPTAのような組織に変わったのは最近のこと。小学校のPTAと信仰とどういう関係があるのか、わたしにはわからない。

(ゼカリヤ 10:4)

投稿者 Blue Wind : 03:18 AM | コメント (0) | トラックバック