今日は、堅信式だった。
代母が病気で出席できず、代わりに母校の大先輩が代母を務めてくださった。昨日はお葬式だったにもかかわらず、6年ぶりの堅信式ということで高校生くらいの子たちが多く、いつもより賑やかだった気がする。
緊急連絡網の登録をしていなかったので、わたしはお葬式には出席しなかった。と言うのは、単なる言い訳か。
実は、木曜日に間違えて勉強会があると思い、教会へ行った際、お葬式があることを知る。名前を言われても誰のことかわからず、高齢者の方が亡くなったのかと思っただけだ。だが、実際には、少々心当たりがある。献堂式の際の実行委員長をしていて、今日、いつもいるはずなのにいない人、と言えば、あの人しかいない、と思う。それを考えると、お葬式には行くべきだったのかもしれない。あるいは、お手伝いとか?
何のインフォメーションもないのに、深く考えるのはやめた。
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去年は、まるで知らない人だらけだったので、案外、気楽だった。洗礼のときの写真を今日渡され、いなかったから渡せなかったと言われたが、御ミサにはぽつぽつ行っていて、いなかったというわけではない。代父がくすくす笑っていたが、わたしは存在感があるときとないときの落差が大きいらしく、イベントも好きではないし、仕事中に声をかけられるまで、誰も路傍の石に気がつかなかっただけだ。
堅信式は、結婚式の次に疲れるイベントだった。
でも、お葬式の後だというのに、たくさんの祝福をいただき、神に感謝。
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で、宿題。
聖書の中から、好きな言葉を選んで、司教様に葉書を送る。宿題は嫌いだが、皆がやる、あるいはやったというので、わたしも適当に選んで、すでに投函してしまった。読むのは新約聖書だけでよいのではないかと、誰かがアドバイスをしてくれたが、わたしは好きなのは、やはり詩編とコヘレト。聖書は毎日読んではいるが、あるいは、正確には毎日開いてはいるが、好きな言葉となると思い浮かばないことに気づく。
見よ、どれも空しく
風を追うようなことであった。
(コヘレト2. 11)
あなたに向かって両手を広げ
渇いた大地のようなわたしの魂を
あなたに向けます。
(詩編143. 6)
沈黙のぽつりぽつりと降る雨の音重ね聞く夕暮れる傘 (白石)
好きな言葉を選んで、その後にその理由を書かねばならないというので、久しぶりにうたを詠んだ。ヘンな結句の短歌だが、おそらくは、傘は教会を無意識のうちにイメージしているのだと、詠んだ後に気づく。
雨の日の夕暮れなんて、ヘンなのだ。渇いた大地のような魂に対する返歌。わたしの魂は渇いた大地のようなのに、恵みの雨の音が聞こえるのは傘のおかげで、それでいて、わたしの渇きに対する過保護な傘。
それが教会。
教会からもらった葉書は1枚。
書き直そうかと思ったが、迷う前に投函してしまった。
傘がないと困るのだけど、音だけ聞こえてもなあ・・・・・というのが、今の心境なのかもしれない。
(エレミヤ51. 49-50)
十字軍の本を読んだせいか?
エルサレムに行ってみたい。