今日、日曜日の御ミサに、360年ぶりにカミングアウトした隠れキリシタンの人が来た。
平戸出身の人で、美しい海や教会の写真を持ってきてくれた。その美しい海で、70人の殉教者が帰天して以来、彼の家族たちはずっと隠れキリシタンとして生きてきた。たまたま同窓会があり、隣の町では教会が建ち、それに励まされてやってきたというが、彼の母親の話によると、360年ぶりに公にクリスチャンであることを表したというから驚いた。
360年・・・・・
迫害されて殺されたくはないし、その平戸の地域に住む人たちはずっと信仰を隠して生きてきた。
こんなに平和な世の中になっても、緊張でがちがちになって告白するように、写真でいきさつを説明していた。殉教していった人たちのことを思うと、長い間、教会にも来られなかったのかもしれない。
もう、ずっと昔のことのように思っていたが、いまだに終わっていない。自分には関係のないことのように思っていたが、罪の意識と信仰の板挟みになりながら360年・・・
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つくば教会の献堂25周年の記念式典があった。
当日はものすごい雨。テントの張り直しを手伝っているうちに、わたしの40肩は治っていた。本当は受付が担当だったのだが、あれだけ雨が降ると、テントを直したり、椅子を拭いたり、ちまちますることがある。
わたしの代母は、「無理しなくてもいいのよ」というスタンスなので、いままであまりその手の行事には参加したことはなかったのだが、誘われて参加。献堂の頃から来ている人達が結構いる。初期の頃は、まだ借金が残っていたので、世帯ごとに寄付金の割り当てがきたと言っていた。
わたしは小さな教会だと思っていたが、茨城県の中では一番大所帯の教会らしい。役員の人たちはよく見かけるが、それ以外の人たちは来たり来なかったり。来月は堅信式があるので、わたしも突然だが、受けることになった。
この前、ふらっと常総教会へ行ったとき、シスターに洗礼名は変えられないと言われた。それよりもその意味を考えるために、わたしはもっと勉強しなさいと言われ、勉強会に参加することにした。が、しかし、大雨の日、教会へ行ったら、わたしのほかには誰もいなかった・・・
でも、今日、役員の人から電話があり、堅信のときに霊名を変えるかどうか尋ねられた。この前、シスターに変えられないと言われたばかりなのに。
そもそもなんとなく成り行きでついた霊名で、しかも洗礼式の際、突然、神父さんが名前を間違え、面倒なのでそのままにしてしまっている。名前が決まったら堅信を受けようと思って考えていたら、代父に声をかけられ、堅信を受けることになってしまった。しかも、シスターは変えられないと強く言う。
与えられた名前は、簡単には変えられないのかも。わたしにとっては、意味のある名前なんだろう。
(ルカ 21. 5)
教会、か。
近頃、出費がかさむ。が、しかし、予定外というわけでもない。
追い炊きの出来なくなった給湯器をいつまでも放置しておくわけにもいかないし、壊れたエアコンはどうにもならないし、とうとうCDプレーヤーまで故障し、布製のソファは犬にひっかかれてボロボロになってしまっていたし、2階のカーテンは新築のときから使っていたので、かれこれ14年も何もしていなかったことになる。屋根を塗り替えないかという電話は年中掛かってくるし、テレビはなかば強制的に買い替え。家電屋へ行ったら、通路の邪魔になるくらいテレビの箱が山積みになっていた。
そのうち何とかしようと思っていたことが、何かがきっかけとなって、あれもこれもとなってしまっただけだ。
娘にお金がかかるようになることは、生まれたときからわかっていたことだし、国立にでも入ってくれないと大変なことになりそうだ。それでいて実感が伴わない。
実感が伴わないのは、皆がやっているからだろう。大学進学率が9割近くある昨今、生活保護の家庭でも子どもたちは高校へ進学しているし、報道は不景気なニュースばかりだが、エアコンを買い替えようとしたら取り付けまでに2週間待たされるほど猛暑でエアコンが売れている。しかも、日曜日の家電売り場はものすごい人の数。銀行が倒産して200億円の預金が不払いになるそうだが、それでも混乱はないだろうという発表。
少子高齢化と言うけれども、高齢化社会で経済成長を期待するほうが無理な気がするのだけど・・・
つくば教会は建堂25周年ということでお祝いするらしい。おそらくは毎年何か祝い事があるので、何か特別なことという気がしない。土浦の教会へ行っていた人たちが中心となって建堂されたのかも。わたしから見たら、誰が古い人で誰が新しい人なのか区別できない。旧くは、土浦の教会の日曜学校に子ども達を連れて行っていた人たちで、今は一人で来ているし、そうやって一人で来ている人たちが固まっている席があり、あまり座り心地がよいとは思えないが、誘われたらわたしもそこに座る。そこに座っていると、結構、気を使われていたのかもしれないと、感じる。
何を気にしているのかというと、やっぱりあれにこれに気を使っているのだ。
例えば、何かお手伝いしようとすると、若い人は何もしなくてもいいのよ、という具合で、まだ結婚する前だった姑さんを思い出す。代母にも、無理しなくてもいい、とか、何もしなくてもいい、と言われたし、ぜんぜん無理なんてしていないんだけど、ものすごく気を使っているんだよね。
たまたま親しくなってお世話になっている人がいるのだが、彼女はこのところずっと土曜日のミサに与っているらしい。土曜日のほうが静かだから、というのがその理由。わたしは娘の送迎があるので、土曜日には行けない。でも、1度だけ行ったことがあるが、夜のミサは人も少ないかわりに静かで、日本人より外国人のほうが多かった。正直に語ると、外国人の信徒さんのほうが熱心だ。
皆、土浦教会が好きだと言う。
わたしも、一度しか行ったことはないが、小さな木造の薄暗い教会で、何となく落ち着く。家が近いのでつくば教会で受洗したが、正直、土浦で受けようかと迷ったくらい懐かしさを感じる教会。誰かが古いからだと言っていたが、果たしてそれだけなのか、わたしにはわからない。
熱心さが違うのだと思うけど・・・・・・・言えない。
(マタイ 24. 7-14)
本当はいろいろあるのかも・・・
わたしは、転校生みたいなものかも。まだまだ気を使われている。
無理しなくてもいい、という代母の忠告を覚えておこう。
(ヨハネ 19. 34-35)
民主党の代表選は、ある意味、衆院選より面白い。多党が乱立してマニフェストのよくわからない選挙より、シンプル。実際にはどうなるかわからないけれども、菅さんが勝てば消費税率が上がり、小沢さんが勝てば消費税は据え置き。なんか、わかりやすい。
仮に、菅さんが勝ったとしても、小沢派が離党してしまえば民主党が政権をとることはなくなる。そういう意味では、菅さんは勝っても負けても非常に不利だ。逆に、小沢さんは負けてもそれを口実に離党し、他の政党と連立を組めば、再び政権の座につける。こそこそ立ち回るより、選挙をしたほうが好印象で離党できる。
・・・・・・鳩山さんはどうするんでしょうね・・・・・・
わたしとて、小沢さんはあまり好きではない気がするが、来年の予算が足りないからといって即増税という菅さんの発想にはついていけない。たばこ税や消費税は、消費者が消費をやめれば増税には至らない可能性だってあるし、福祉を充実する予定が結局予算不足か解消せず、結果として増税だけが残ることだってありえる。だからこそ議論を尽くして、などと言われても、大きなお世話って感じ。そんな勝手な言い分が通るのだろうか。
どんどんどんどん借金を返すために借金を重ねるというのは、もっとも悪いパターン。増税は、身に覚えのない借金の肩代わりをしろと言われているようで非常に不愉快だ。娘の学費の補助金をくれるかわりに、借金を返済してくれと言われているようなもので、それなら育児給付金を辞退する代わりに税金を安くしてくれたほうが気分がよい。
仮に育児給付金を支給する代わりに扶養控除が無くなるとして、そのうち育児給付金の支給が打ち切られたあげく、扶養控除も無いままというのもありえるのだろうか。一度もらってしまって、それで生活が出来てしまったら、今度はそれが入ってこなくなった時、非常に困ることになる。無いなら無いなりになんとかするものを、有るものが無くなるということが大変。
もし、国が破たんして年金が入ってこなくなったら?
・・・・・・・・娘の世話になるしかないかな。
子どもが親の世話をしなければならない、という法律でもつくってくれたほうがありがたい。実際にどういう形で世話になるかは別として、大なり小なりだんだん自分では何もできなくなっていってしまうのだから、最後には子どものない人たちを含めた養老院でも完備してくれたほうが年金よりも確実かも。そこに入れるかどうかは、子どもが行政と相談して、決める。
(マラキ 3. 17-18)