November 02, 2010

教会は忙しい

教会は、忙しい。

わたしは過去のことは知らないけれども、少し前までは女性の仕事が多く、かなりきつかったらしい。まあ、清掃一つとっても、あの重い椅子を移動させて掃除するのは、若い人でも大変なのに、それをいつも同じようなメンバーでやっていたのだとすると、かなりの負担。近頃は、御ミサの後に全員で清掃するようになり、それだけでも軽くなったのだそう。そのほかに行事の手伝い、ボランティア、広報、会計などなど、仕事はたくさんある。長くやっていた人たちは、近頃ではお役御免モードかも。ご奉仕しないと顰蹙ムード?

でも、わたし的には、どうでもいいというか、堅信の後、自分でできる範囲内のことはお手伝いするようにしている。日曜日の御ミサの出席、清掃、木曜日の勉強会、聖歌隊、バザーの手伝い。今、仕事が忙しい時期なのでかなりきついけど、今まで何もしていないに等しいので、この突然の変化には、自分でも戸惑っている。

聖歌隊の席は、いかにも式典部という雰囲気で、わたし的にはかなり抵抗があったのだけど、皆に後ろの席でもいいから座っていろと言われるので、聖歌隊に加わった。バザーの手伝いも、比較的ライトなところを教えてもらい、雑貨のほうを担当することになった。知っている人がいるところのほうがよかったのだけど、カレーライスの担当は、前日に来て準備しなければならいとかで、わたしは娘の送迎があるから無理だ。それに土曜日は仕事が忙しく、へとへと。

***

司教様からお返事が届きました。

かなり毒々しい内容で、アウシュビッツの収容所で亡くなった少女の靴の写真が印刷されていた。が、しかし、わたし的には、それを見ても、残念ながら連想したのは日本の介護施設の現状。

そのような感想を送り返した。

少数の看護師と無資格の介護士が働き、患者が骨折してもずっと放っておかれて誰も気づかない。誤薬は当たり前。ある病院では、朝になるまで誰も死んだことに気づかず、何号室の何番ベッドがステったから医者と家族を呼ぶ、という具合だろうか。

一生懸命に働いて、そういうところに入るために高額の費用を支払う。死ぬのをじっと待っているだけのような生活。死に方が違うだけで、よく似ているような気がするけど、似ていないかもしれないし、それでいて、死に対しては、鈍感になってしまった自分を感じる。

わたしは、そのことを非難しているのではない。ただ、自分が鈍感になっていると感じているだけだ。そういう現状だと知りつつも、入居を待つ人たちは多い。

神様の復讐か?

早くして亡くなった少女は気の毒だけど、長生きしすぎている老女もそれなりに気の毒だ。大抵の人は、そのどちらにもなりたくないと思っている生きているだけのこと。

それにしても、誰かが亡くなることに慣れてしまうと、死に対して無感動になっていることには気づいた。それゆえに、わたしの魂は渇いているのかもしれない。

それにしても、亡くなる少し前に司教を呼ぶ家族というのは、何を求めているのだろう。要するに、死ぬことがわかっているから、お祈りしてもらいたかっただけなのかも。だったら、酸素マスクだって取ったらいいのに。まあ、わたしが看護師だったとしても、「医師の許可が必要です」と言うだろう。仕事ってそういうものだから。でも、家族が望めば、医師が拒むとは思えないのだけど・・・ 病院や施設で、死を連想するようなことはタブーだから、まだ生きているのに、お坊さんや司祭が院内を歩くこと自体もタブーなのかも。なるべく、目立たないように私服でお願いしますとか?

わからん。

***

それにしても、つくば教会は行事が多くて、大変な感じがする。常総教会はシスターが大変な気がしたけど、普通の人は、さんざんやったから私はやりたくない、と言うほうが普通。「無理しなくてもいいのよ」という代母の言葉が近頃少し理解できるようになってきた。大変すぎて、マリア会が休会し、その代わりにまるで小学校のPTAのような組織に変わったのは最近のこと。小学校のPTAと信仰とどういう関係があるのか、わたしにはわからない。

(ゼカリヤ 10:4)

投稿者 Blue Wind : November 2, 2010 03:18 AM | トラックバック
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