April 30, 2005

文学ボイコット

来月から、ジャンルを変更しようと思う。理由は簡単。毎日本屋ばかり行ってたら飽きるでしょ?あっさり語ると飽きてしまった。もっと普通にニュースやサウンド、映画や日常、その他諸々知的好奇心を刺激するような記述の羅列を眺めているほうが気楽になってしまったから。

久しぶりに村松恒平さんのメルマガが届く。わたしは無料版しか申し込んでないので有料版に移行した間に何が発生したのか知らないけれど、村松さんの入院と共にいつのまにか有料版は廃止になったそう。というわけで、ぽつりぽつり無料のメルマガが再び配信されるようになった。(⇒ 『文章が上達する学校』

今週のネタは、「記事と文芸」について。(秘伝-通算166号)

質問者は編集/ライター。
小説を書いているほうが楽しいし、仕事に自信が持てないという悩み。

村松氏のお答え: 「ドライブが好きだからといって、タクシー運転手になって楽しいとは限らない」

もーね、だから村松さんのメルマガが好きなのよ。その時々にわたしのムーディでわがままな悩みにマッチしたメルマガが届く。こういうのは単なる偶然だから、電子文字にも相性ってあるのかもしれない。

記事と文芸の違いは、わたしでも分かる。

わたしは案外文学少女だったせいか、メタファーをちりばめたような文学的な表現を好む。そういう傾向は文学部出身者にはよくあるようで、わたしだけがスペシャルではない。でも、論文を書くようになると疎まれる。「小説でも書けば?」というのは揶揄である、少なくてもわたしにとっては。褒めてくれるならいいんだけどね、揶揄なのよ。バカにしてる。満足に論文一つ書けないのかとか、酷い論文ですね〜って笑われるわけです。そういう世界だからね、仕方がない。

例えはいいけど、喩えはダメなわけ。

最初の頃はともかく、わたしの脳は次第に論文カキコに汚染されていき、今では逆にわたしのほうがダラダラとした小説的文章に堪えられない。

「あんた、いったい何が言いたいのよ!」という具合に苛々してきてしまう。

「だったら読むな!」と思うでしょ?

その結果、途中で未読本として放り出す。
とてもじゃないけど、脳が優雅にストーリーを追えない。この傾向は2時間以上画面の前に座ってストーリーを眺めているのが苦痛という理由で映画を観ないことにも似ている。その2時間を確保するのが苦痛。映画館なら途中で出るのもつまらないので座っているかもしれないけど、家だとダメ。そのくせ観る時には3本くらいまとめて観ている。

切り替えなんだと思う。

今日は、映画を観よう、という気構えがないと落ち着いて座っていられない。昔は同じ映画を座る席を替えたりしながら前に座ったり、後ろに座ったりスクリーンそのものを楽しんでいるくらいのゆとりがあったというのに、近頃だんだん短気になっていく自分を感じる。特に何が忙しいわけでもないのに時間が足りないような気がしてくる。

そういう中で、まるで本屋の店員のように年中書籍の話ばかり眺めていると、その世界から逃げ出したくなるほうが普通ではないだろうか?

本が好きでも本屋の店員になって楽しいかどうかは分からない。書くのが好きだからといってライターになって楽しいかどうかは分からない。書きたいことを自由に書くためにはその一歩手前に身を置くくらいがちょうどいい。ドライブを楽しむためには、タクシーの運転手になるべきではない。客を乗せるというのはそういうことだ。

それでも仕事が楽しくてたまらないという人たちは幸せだ。

作歌なら作歌、文章なら文章という具合に学び屋は楽しい。ここはしばし学生気分に浸り、そういうノリでやっていきたい。どこが違うかというと、ビジネスの話ならほかでやってよ、という気分かな。アフィリエイトなどを考慮し、今の時代は売れたら紹介手数料というのが出版物の値段に含まれるようになったらしい。消費税が上乗せされて、アフィリエイトが上乗せされて、それでいて利の薄い世界。そういうことを知りたいかな・・・知れば知るほど本を買うのが嫌になる。わたしが天邪鬼なんだろうか・・・

というわけで、ブログってるだけならほかのジャンルへ行きたい。

投稿者 Blue Wind : 12:31 AM | コメント (0) | トラックバック

April 26, 2005

「風マリア」

ブログ名を変えた。理由は、ペンネームの意味を理解したから。

幸田さんはいつも「風マニアさん」と呼ぶ。いつもと呼べるほどコメントを残したかどうか記憶にはないけれども、それも一つの「あれ?」って感じるような印象で記憶の片隅に残る。ペンネームそのものがブログ名というのもありいなんだろうかと、いつも不可思議な気持ちでいた。

屋号。

すなわち、ペンネームというのは屋号らしい。店があれば店の名前が屋号でしょうし、芸人さんならそのまま芸名が屋号。だからペンネームというのは確定申告欄にあるように、一つの屋号であり、組織や会社名と大して変わらないことに気づく。

例えば、田中先生が田中医院を開業し、患者さんが「田中さん」と呼べば田中さんは田中医院そのものであり、院長のことだけではなくもっと広いイメージで使っている。院長は田中先生。「田中さん」は田中医院であり、一つの屋号。

というわけで、屋号「田中医院」、院長「田中太郎」というのがペンネームの由来だということを理解したために、世界観がぐるりと変わってしまい、患者さんにとっては院長の名前には興味はなく、ただ「田中さん」という屋号があればよいことに気がついてしまった。

ということは、ペンネームというのは集合名詞なのかもしれない。

インターネットを始めて、サイト名をつける。ハンドル名を使う。そのうちいくつか複数のサイトやブログを運営するようになる。それでもすべて自分が管理人なので、サイト名やブログ名はいわばタイトルみたいな感じ。作家がいて作品にタイトルをつける。作家の名前は変わらない。でも、タイトルは可変なもの。

そのうち結社や歌壇では本名を使っているために、次第にハンドル名を使うのがだるくなる。これはうまく説明できないけど、非常に疲れる。一人で複数の名前を使いこなせるほどわたしは器用ではない。

しかも、そのうち筆名を考えなければならなくなるとすると、やたらと気が重くなる。

そこにね・・・・「風マニアさん」

ピンと来た。さすがに鈍感なわたしでも・・・

というわけで、ブログ名を変更した。作品のタイトルとしてなら「風マニア」でもかまわないけれども、筆名としては変だ。娘の名前をつけるとき、わたしは本当はまぽちゃんと付けたかったのだけど、皆が反対するのでまほにした。漢字が同じなら読みかたは自由ではないかというのがわたしの主張だったのだけど、あまりにも変だと言われ、素直に直す。

ロックバンドでもあるまいし、マニアさんとは呼ばれたくない。

マリアさんと呼ばれることにもそれなりに抵抗がある。でも、友達の洗礼名を眺めるとマリア・ソフィアとかエリザベトとかね・・・マリア・ソフィアさんは2人いる。となると、わたしが洗礼を受けると、マリア・ソフィアになる可能性もあり、世の中がマリアさんだらけだということを知っているわたしとしてはマリア・ソフィアよりも風マリアのほうが自分っぽい。

そういうわけで、屋号を「風マリア」に変更。

自分で税金を払うという発想が欠如した人生のために、歌集を出版すればしたなりに赤字でも確定申告の手続きから逃れられないことを考えると、筆名というのはそういう手続きのために存在することを知る。

それとどう言ったらいいのだろう・・・今までは、わたしという人がいて、そのパーツとして歌人というわたしが存在していた。でも、筆名をつけるというのは、いわば独立宣言のようなものであり、わたしという人に依存しない歌人が独り歩きすることになる。それが作品を世に送り出すという気分なのかもしれない。

わたしは、白石として作品を世に送り出すのではなく、風マリアとして作品を選ばなければならない。歌壇は、歌人としての力量世界であり、一度読んだ歌を読みたくないとまで言われたことがある。常に新しい歌を詠み続ける力量を試される。つまり、個の世界。

でも、集合名詞として世界を描いたとき、風マリアを構成するのはわたしという個人ではなく、作品である。

・・・・・・・・・・そんなことを考えていたら、歌が詠めなくなるのではないだろうか。
いずれにせよ、2万首までは遠い。来月までに9000首。ちょっと今のペースではきついな。わたしの世界ではなく、風マリアの世界を構築すること。課題。きつい。難しい。いやになるかも。わからん。なんでもいいや・・・おおげさ。おばか。直らん。直そう。今。今、今。今は今。今。(ヒマではない。)

投稿者 Blue Wind : 03:18 AM | コメント (0) | トラックバック

April 23, 2005

言葉のない対話

柔道の谷 亮子がフランスで挙式し、彼女がクリスチャンなのかどうかわたしは知らないけれども、柔道の世界チャンピオンがクリスチャンでも驚くに値しない。

日本社会という制約の中にいると、文化として宗教を受け止めている人たちが多いことに気づく。スピリチュアルな世界においては、一切の制約は虚しい。わたしは日本人で、案外、日本人としてのプライドも高いし、愛国心もそれなりにあるかもしれない。それでいて、わたしはクリスチャン。日本の文化を否定することは自分や祖先を否定することであり、わたしにはそういう気持ちはない。

仮にわたしが生まれる時代が違って、丸髷を結っていたとしても、十二単を着ていたとしても、わたしはクリスチャン。精神は自由。天皇制を否定するわけでもないし、神道や仏教を否定しているわけでもない。ただ、神は人間よりも高いところにおり、唯一の存在であるとスピリチュアルに感じているだけ。つまり、天皇よりも、教皇よりも、大統領よりも、あらゆる世俗の権力を凌駕して絶対的存在としての神を思う。

それは思想という生やさしいものではなく、いわばスピリチュアルな世界の領域であり、理屈を凌駕して存在している。だから、それを言葉で表そうとすると、わたしのつたなさでは語りつくせないというだけのことであり、言葉を虚しく感じたとき、それをアウトプットするのに適していたのが詩の世界なのかもしれないし、どうしてそれが短歌という定型詩の世界なのか、わたしに分かるわけがない。

ただ、短歌という定型の狭い世界において、精神は自由ではないかと感ずることが、わたしには自分の置かれた何かをそれにより一層感じ入っているにすぎないように思うことがある。枠組みがあり、わたしはある種の制約の中に生きている。でも、精神は自由。

わたしの生きている世界や、物理的に存在している自分という存在とそれを取りまく環境とを考えた場合、そのどこに神がいらっしゃるのか懐疑的かもしれない。それでいて、それらのものを凌駕し、ひたすらスピリチュアルな自分を感じたとき、わたしはそこに神の存在を強く感じてしまう。

果たして、わたしはそれをどうやって伝えたらよいのだろう?

わたしに何ができるだろう?

無力。

いささか手続きに基づき、実験結果を述べるように語れたらどんなにかすっきりするだろう。理路整然と語る。わたしが少し『精神の自由』について書き始めたばかりの頃、そういうことを試みていたことがある。でも、それはもはや過去のことであり、真理に近づくにつれ、それが酷く虚しく、この「真理」という日本語ですらわたしには何やら汚染された言葉のようで使うのが嫌いである。何かほかに適切な表現がないものかどうか思索することもある。

それでいて、わたしにはその手の適切な表現を考える能力が欠如しており、共通の用語として存在しているものをどうこう語っても意味がない。誰かが勝手に歪曲し、使っていたとしても。

そういうもどかしさすら、ある瞬間消えてしまう。

混沌とした世界から光が出ように。

すべての思考と感情が停止したような真っ白な瞬間。

静かな愛。

言葉のない対話。

イザヤ書 30. 18-26 救いのとき

投稿者 Blue Wind : 12:40 PM | コメント (0) | トラックバック

April 18, 2005

短歌は写実なんですよ・・

皆さんが(って誰に言っているのだろう・・)、どのように思われているかわたしには分りませんが、短歌の基本は写実だと言われています。そして、”私”の世界。我の世界と言うべきか、このことがほとほと嫌になるほどのしかかってくるとは思いませんでした。

あの?枡野浩一さんですら、厳しく書いています。「顔に似合わない歌を詠むな」って。つまり、歌にしたほうがかっこいいってことなのかもしれないし、自分の顔、つまり自分の生き様と相談してから歌を詠め、ってことで、そこが小説などとは違う点です。

昨日から中城ふみ子さんを読み始め、わたしの読み方は気まぐれなので、その時折々の気分でページを送っています。

どこが違うかと言うとね、作家は自分が不倫もしていないのに不倫の話を書くこともできるでしょう。ですが、そんなアホなことをするやつは少なくても歌人じゃない。(と、わたしは思います)

俳句が出る前は違ったのかな・・・やけに写実にこだわる姿勢というのは禅の影響なのかもしれないし、そこのところ国文学に明るくないわたしには詳しいことは分りません。小説にはプロットがあり、登場人物がいます。そして、それがそれぞれに3Dとして存在している。つまりはフィクション。作家がそれぞれの人物の気持ちになり勝手に書いたり行動させたりしているのかもしれません。

が、しかし・・・・

短歌は違います。あくまでも私の世界であり、私の世界を写実に詠む。これが近代における短歌の基本です。

「源氏物語」は小説なので、作中の人物が詠んだことになっている歌も紫式部の創作です。そういう点において、和歌もフィクションであり、そういう歌のあり様ももしかするとありいなのかもしれませんが、現実問題として、わたしが自分を歌人であると称している以上、フィクションを短歌と称してよいか責任は持てません。

わたしの今日や昨日の生活において、娘の給食係用のマスクを買いに行ったついでに、深夜のコンビニの立ち読み族に対してどのように感じたかを詠んでしまった、というのもそれなりに写実。今の世相。たぶん。

どうせだったら美しい世の中に住みたい。

投稿者 Blue Wind : 01:34 AM | コメント (0) | トラックバック

April 14, 2005

無知の未知

わたしは、うたに関してはかなり淡白である。「気をつけていること・・・、気をつけていること・・・」と何度も繰り返し、気がつけば何もないことに気がついた。気をつけていることが何もない。それこそ自由奔放で、好き勝手な時期を経て、無知を良いことに無恥に遊んできた。最初は返歌のやりとりが主体で、わたしが一人で詠むことができるようになったのは、石川啄木の傍若無人がとても快適なことを学んだからでもあるし、そうやって一つずつ覚えていったことはたくさんあるけれども、実際にうたを詠むときは、相変わらず気ままである。

大昔、といっても作歌歴が21世紀に入ってからなので、そんなに昔の話でもないけれども、わたしは「1首1秒」を好んでいた。ひらめきだけ。一瞬にしてひらめいたものがすべて。その後にうたのよしあしなどを考えるようになればよろしいのかとも思ったけれども、いわば歌人は一人の世界であると常々思っているせいか、石川啄木の傍若無人を好む。

気持ちいいぞ〜、トラ歌人。

酔っ払って詠んだことはないと思うけど、うたを詠む時にはトラになる。詠みたい放題好き勝手傍若無人。うたの世界は毒があることも平気。その毒を好む人たちが多いことにも気がついた。そして、聖書を開く。毒を撒かれることにも慣れているせいか、毒を飲むことにも慣れているのかもしれない。もちろんことばの毒という意味で。鋭い一言。わたしはそういう残虐さも好きだ。

それでいて、詠んだらさっさと忘れてしまう。

そこが自分でも淡白だと思わざるを得ない。むしろ自分の中の毒を吐き出すために詠っていた時期も長い。時間的には短いのかもしれないけど、気がつけばうたの数だけは増え、流れすらある。自分の好みも明確に変わっており、初期の頃のうたを眺めると、これはたしかにうたではない。それでいてうたであり、そのうち気が向けば自選を繰り返しながら練り上げることもあるだろう。

アマゾンで注文した本がすべて揃った。

最初が釈超空、次が馬場あき子、そして今日、斉藤茂吉、中条ふみ子、葛原妙子。もう一冊は現代短歌大辞典。ボックス付きの本が3冊も混じっている。古書が2冊。まさしく食わず嫌いの世界。わたしは本当に感じたのである。これらを読まないのは単なる歌人としての食わず嫌いだけであると。今の風潮は、単に表面的なことに捉われすぎていて、口語であるとか、新しい風潮であるとか、すべてがどうでもよくなってしまった。

そういう些細なことに捉われるより、わたしは自由を好む。

わたしにとっては、古い体質がどうたらこうたらとか、形とか、型とか、そういったことさえどうでもいい。概念歌が終わったと誰かが書けば、終わったと言い切れるほどこの世界が浅いものかどうか・・・わたしにはまだ始まったばかりに思える。釈超空から宗左近へ飛んでみれば、それが俳句だろうか、短歌だろうか、一行詩であろうか、と悩むことほど滑稽。

本当の意味で表層的なのは、型や形式ではなく、深さを省みない姿勢。透明感や概念の広がり。つまりは、ベクトルの違いは大きい。短歌に限らず、アート、特に音楽には2つのダイナミクスがあるように常々感じる。つまりは吸引されるようなベクトルと、自分のほうへ入り込むような感覚と。情動を凌駕すれば透明に吸引されてゆくし、情動を入れ込めれば、そこには胸を打ち、心を動かされるものがある。そのどちらを好むかはその人次第であり、マライア・キャリーが好きな人たちもいれば、DEDEが好きな人たちもいるだけの話であり、自分的にはその時の気分だとしか語れない。

まだ始まったばかりであり、毎日が新しい。誰かがそれを古いと言う。でも、わたしにとっては無知の領域であり、無知は罪である。未知なる世界へ。わたしにとっては未知の世界。何だか一人でみんなと違った方向へ向かっているかのようで、今は周囲を省みる余裕はわたしにはない。あるのは未知なる世界であり、誰かには見慣れた世界であっても、初めて訪れる者にとっては新奇な世界なのである。少しレトロな短歌を新奇と感じるわたしは未熟な歌人。それでも、わたしの年になると、すでに未熟であることが新鮮であり、結構それが楽しいとまで言い切れる。

投稿者 Blue Wind : 12:27 PM | コメント (0) | トラックバック

April 11, 2005

作歌のために

アマゾンで本を注文した。
実は、これが初めて。
理由は簡単・・・
古書でないと手に入らないから。

一昨日の晩、近所の本屋で馬場あき子さんの『短歌その形と心』を買ってきた。まだ第一章しか読んでいない。だって本屋の袋から出したのが、ついさっきなのですもの。買い物の途中で本屋へ寄り、そのまま忘れていた。(一晩眠っていたわけである・・その本は。)

近頃のわたしは、どうも変だ。

作歌に身が入らなくなったのも、さっき気がついたんだけど、ちょうどアメブロのリニュの直前に、アップしようとしていた歌が消えるという事故があり、それが原因らしい。しかもそれは紛れもなく自分の責任なのである。画像フォルダを消そうと思っただけなのに間違えて編集のページを消してしまった。しかもそういう時に限って、記事のコピペもしていない。

そう、その時、わたしはとても気分よく詠んでいて、気分よく画像を選んでいた。

それが、一気にパア。

それはどうでもいい。

問題はそこから先で、わたしは消えてしまった歌を思い出そうとして、どうにか再び詠み始めた。それでいて、どれもこれも指先に力が入らないかのように、違う。うまく説明できないけど、何かどこかが違う。

今までも、似たような歌をいくつも詠んでいる。

それでいて、そのどれもが違う歌。どうして違う歌だと分かるかと言えば、CGIを使っているから。二重投稿を禁止しているため。

ウェブで詠んだ歌はすべて記録してカウントしている。

それはとっても便利な機能だと思っていた。

それでいて、歌を消してしまったことにより、わたしは軸が狂ったように言葉を捉えられない。どこが違うと言われても困る。何かどこかが違うとしか語れない。こういうのは鋭利な刃物のような感覚で、鋭利な時間の中で生みだされるか否かにより、何かどこかが違ってしまうことはよくある。

それが、しばらく続いていた。

そこで、本屋へ行った。

近所の本屋に置いてあるのはほとんどが入門書で、ちらほら歌集が混じる。俳句のほうが種類が多いのが特徴。そうやって考えると、俳句のほうが人気があるのかもしれない。だけど、わたしは短歌のほうが好きだ。どこが違うかと言えば、形なのかもしれない。もしかすると、若干、心も違うのかもしれない。わたしには俳句の心得はないものだから、その違いが掴めない。

短歌の形式というものは、すらすら出て来たものであって、わたしはそのフォルムが単純明快なくらい好き。575では物足りないのである。

入門書には、馬場さんの少女時代の歌やいわば青春時代の歌の話が書かれている。育った時代、育った気持ち、何を感じ、何を詠みたかったのか、歌に添えて書かれている。第一章を、わたしはあっという間に読み切った。それは目で文字を追うという感覚ではなく、むしろ目の前で馬場さんがお話されているのを一言も聞き漏らさないように覚えておこうという気持ちに似ている。

本なのだから、いつでも読めるし、聞き漏らすという発想はおかしい。それでいて、それはさらさらとお話を伺っているかのようで、わたしはメモを取りながら授業を聞いている学生の気分に浸ってしまった。つまりは、それくらい馬場さんの入門書にはわたしの知りたいことが書かれており、ある程度自分が作歌を続けてきて、その上での共鳴共感がたくさんあることに気がついた。

それで、馬場さんの歌集を含めて、葛原妙子さんとか釈超空、斉藤茂吉、というラインで歌集を探す。古い歌集はすでに手に入らないものもある。そこで古書を検索し、かろうじて見つける。

本というのは出版社に在庫があるというのが当たり前だと思っていた。でも、歌集の場合は仕方がないのかもしれない。それでいて、近頃の出版状況を考えると、出版社は在庫を置きたがらないらしく、オンデマンドでもない限り、すぐに幻の出版物になってしまう。著作権というものがあるために、没後50年は著作権が存続し、すぐに再販されるということも考えられない状況を考えると、舞い散る言の葉というのはウェブだけではなく、活字のほうがもっとがんじがらめ・・・

第一章: 少女時代の歌、青春時代の歌、教師時代の歌、そして馬場あき子さんが第一歌集を出すまで。短歌とともに能の世界がある。一貫して歌人としての目がある。不思議なことに、わたしは馬場さんの言葉を読んでいるうちに、情景が広がり始めた。おそらくはささやかな言葉の選択の中に、そういう情景を思い起こさせるものがあるのかもしれない。さらに、57577の世界はもっと短く、一つの言葉で歌が生きたり死んだりする。

一つの言葉で歌が生きたり死んだりする!?

もはや、詩の世界というのはそういうものであり、さらに短い日本の詩。わたしには、その一言がないために死んでいる歌があまりにも多すぎる。分かってはいる。分かってはいるけれども、わたしは生きるとか死ぬとか言う前に2万首を詠む。どうしてそうなのかは、実は明確な理由はない。ただ、そうしないとわたしには歌人としての魂が未熟なままで終わってしまいそうな気がするからとしか語れない。

わたしは最初から歌人だったわけではなく、ある日突然歌人になってしまったために、いまだに自分が歌人であるという自覚が薄く、脳がそれを拒む。それでいて、そうやって頑なになってしまった自分というものを、もっと原初の世界へ向かわせるのが短歌であり、どうしてそうなのか、まるで懐かしい世界の出来事を思い出せないままに語らなければならないようなまどろこしさがあるため、とにかくその靄を打ち破るために、わたしは域値を2万首に設定している。

それだけ詠んでいると、まるで気が乗らない時でも詠むし、無意識のうちに歌が浮ぶこともあるし、楽しくて仕方がない時もあるし、お天気のようにその日によって歌が変化することに気がつく。

気分よく没頭したいものである・・・せめて、作歌の時間くらいは自分というものに。

投稿者 Blue Wind : 03:18 AM | コメント (0) | トラックバック