ややこしいことを考えるのはやめようと思っても考えてしまうな・・・
大きなマンションが二つできて、一つのマンションの人たちは子どもを連れてきてものんびりしている。もう一つのマンションの人たちは、「こちらが何か悪いことをしたかしら?」と思うほど、つっけんどんなところがある。ほかのスタッフに訊いたら、患者さんがどこから来たのかわからないし、ましてやどこが違うのか気がつかないと言われた。
そういうことを感じるのは、わたしが受付をしているからでもあり、そういう意味では接客業なんだよなぁ・・と感じる。
看護師が言うには、先に出来たほうは比較的年齢が高い母親が多くて、後から出来たほうは若い母親が多いからなのだそう。おそらくはTXが開通する以前に販売になったか否かで住んでいる層が違うからかもしれない。TXが開通する以前は「つくばローカル」というか、ツクバ系の住人ばかりだったし、開通してからはおそらくは新聞広告などを眺めながら沿線のマンションなどを比較して購入を決めた世代の人たちだろう。
今までは、農家を中心とした旧住民と研究所ファミリーを中心とした新住民という二つのカテゴリーしかなかったこの街にまったくそういうことには関係のない人たちが住み始めたのを感じる。
うにゅ。。。
看護師に言わせると、今の若いお母さんたちは、「私のことは放っておいて」という感じでつっけんどんなのが普通らしい。「私は母親失格かもしれない・・・」などと弱音を吐きながら入ってきた母親はわたしと同い年・・・
うにゅ・・・
考えるのはやめようと思いつつ、そうやって世代間ギャップを抱えながら、ママ友と付き合っていくんだろうな・・・と思ったらきついね。わたし的には娘が中学生になったのでそういう役割は終わったと思っているけど。
○ 日が昇り日が照り続き旱魃でうどんはどうなるオーストラリア小麦(字余り)
☆冷凍のさぬきうどんの白色に小雪がまじり冷蔵庫味
☆電ノコでつるくさを切る葉の影にからまりし蟻隠れ住みおる
けっこう、じめじめしてた。
○ 吊り下げた洗濯物を越えて見る どこまでも青く紫の空
☆ながながき一日(ひとひ)を飾る栄光の落つるのを待つ。空、まっしろけ!
☆Tシャツの裏よじのぼる蟻しぼりあげ腹刺した蚊の姿なき庭
本当に庭仕事、きつい・・・
○まさぴんさん ☆あたし
やけっぱち どんぶらこっことうたよめば焼けつく砂も一寸法師
妖精か死んだジジイかネット葬 生きちゃいるけど流れる雲母
ちっぽけな梨をみつけた庭の隅、嵐みやげの折れた捨て傘
葉がふたつ大きくみえるちっぽけなひとつの梨のみずみずしさは
信じろと言わんばかりにちっぽけな梨を残しつ、あまた星浮かぶ
花火にはなりたくないと夜空には星が浮かんで雲にまぎれる
遠い星 近い花火の夏空は 見えぬ花火にいらだちもする
こころいたみつかもとの死を生(あ)れてあれ床を討つスーパーボールのくぐもれる音
テレビには我が儘にして魔力あり しのびよる声割れてしまえば
苛立ちは床うつボール澄み切らず逃げ場なくした響き重かろく
細々と星にまじりて飛ぶ光り飛行機の点いみじくも夜
憎悪にも似た夢のごときまひる陽は雲へ雲へと彷徨うがごと
灼熱にとりのこされたままドアあけぬ文字おどるわがハンドルは
折れた傘 どこから飛んできたものか台風の朝、灼熱の昼
ひんやりと薄暗がりの玄関で飛び出す犬と脱げない靴と
鍵の音背にうけてなお脱げぬ靴まどろこし昼、眠気と吾子は
屋根のうえ歩く人みてありきこと初めて知つたアパートの尾根
あれ?
自分のブログを眺めたら、どうも最後にうたを詠んだのは去年の5月になっている。自分的には、19ヶ月ぶりなんだけど・・・
つまりは、自分のうたを保管しておこうという気になっていたのは、どうやら19ヶ月前までで、それからしばらく惰性で詠んでいただけなのかも。詠んでいた、という記憶すら、ない。
下手すると1万首を越えているかも?
1万首までは詠もうと決意していたため、記憶のないままに達成してしまっていた可能性もある。手帳に書いたままで放っているものまで含めると、自分でもすでにカウントできない状態で、放置していたのだろうか。
***
懐かしい・・・
自分の好きなうたばかり集めたノートの落書きを眺めていたら、なんだかジーンときた。
やっとだな・・・
なんだかよくわからないけれども19ヶ月ぶり。
なんだか、こう、われながら集中力に欠けると思いながら、とりあえず久しぶりにうたを詠む。それがうたになっているとは思えない気がするが、まあどうでもいいや、というか・・・
ほんとうにどうでもいい。
生きるためには必要がないことがよくわかったし、おそらくはひまだから毎日日課で詠んでいられたのかもしれないし、最初はいろいろ思い悩んでいたことも時間とともにどうでもよくなってしまう。生活が変わり、母が亡くなり、すべてが規則正しい生活の中に埋没していき、朝になれば自然と目が覚め、その日の予約などを確かめ、それこそ台風でもないことには怠惰な気分にもなれない。
なまけなわたしはこの前から昼寝の時間を取り戻しているが、それでも仕事に追われているには違いない。
なんか疲れるんだよね・・・
毎朝オフィスに出勤する人たちと一緒のエレベーターに乗り、勤勉な看護師たちと一緒に仕事をするというのは。
まったくもってして自分らしくないと自覚しているにもかかわらず、どこか自分を押し殺しながら何かに迎合しているうちに一日が終わっている。
でも、そういうことにも慣れ、それが生活になっていくと別の憂鬱が。
毎日毎日患者が多いとか少ないとか、そういうことに気分が翻弄され、気分転換の旅行から戻れば、もしかするとそれが大失敗だったのだろうか、などと再び考え始め、だったらひたすら勤勉に仕事に励むしかないのだろうか、とか。
そういう気分のときには、世の中に台風が来ていることを知りながら、台風に影響されてしまうことに複雑な気持ちにさせられながら、その二つがうまくかみ合わないままに不安だけがつのる。
なんか、疲れるんだよな・・・そういうまっとうさが。
いろいろ将来のことなどを気にしたり、あれこれ一緒になって不安にかられるようなまっとうさが、自分にとっては非常に疲れる。果たして、そういうことを考えないで生きている人たちがどのくらいいるのか知りたいが、家にぼーっとしているほうがはるかに何も考えないですむことを学んだ。
それにしても年金の問題はまだまだ根が深そう。年金を着服していたという公務員の話や、こちらから申請しないと何もしないで未払いのまま放置されてしまうやり方とか。あっさり語れば、わたしには自分が将来どの程度年金が入ってくるのかまるでわからない。今まで興味がなかったのは、自分では支払っていなかったからかもしれないし、払わなくても払っていることになっているからかもしれないし、自分の分を捨ててダンナの年金を貰ったほうが額が多いせいかもしれない?
というよりも、そのときにならないとわからないことのほうが多いからかも・・・
(だって、その年齢まで生きているかどうかわからないじゃない?)
「わたしは65歳までしか生きられないんです。祖母も母もそうでしたから」
などと言っても、誰も信じてくれない、ってどうよ?
まあ、母は寝たきりでほとんど植物状態でもそれからさらに7年以上生きたわけだから、わたしもなんらかの形で生きてしまうかもしれないが、少なくてもわたしは自分の老後などまるで気にしたことはないし、ある意味、わたしは幸せなような気がしているにもかかわらず、世の中の平均寿命がおそろしいほど延びているために、気にしなくてもいいようなことを心配の種として呆れた顔をされてしまう、ってつまらん。
が、しかし、今の65歳って若いのよね・・・それからまだ2,30年くらい生きてしまうし、それを考えると若いうちから心がけよく生きているほうがまっとうな気がする。
が、しかし、そういうまっとうさが重い。
蝉の声、嵐の声のくりかえし。雨の音さえかんかん一つ。
蝉の声、スコールの海、蝉の声。雨の響きは家のガラス戸。
台風を待っているよな今宵にはひかり漏れいづ冷蔵庫あり
予約などなけりゃいいのに明日朝は同じこと思う患者とあたし
台風の前にあらくさ刈りこんで顰蹙だろか風がわるかろ
のんびりとうたでも詠めるあらしの日、はよ来いあらし、はよ来いねむり
真夏日と嵐の夜とくらぶれば飽きてしまった熱のおもいで
ぐったりと終わった夏を背にのせてキーボード打つ気だるいしごと
台風のニュース被害と申すならこの3日間暇もてあます
どしゃぶりはまだましなんです夏だから。日照りと雨のくりかえす朝
台風に寸暇惜しんで鳴きつづく蝉のいる夜の静寂やぶり