もー、今の修道会、あまりにも世俗的すぎて、私の理解をこえている。シスターと神父ができてるとか?
そーいうのも珍しくないのかもしれないですね。
ほとんどはまともだと信じたいけど、なまじか性欲を抑えているせいか、性的なことしか考えないがゆえに、性欲を恋愛と勘違いしていたり?
はたからみると、バカバカしくって話になりません。性交渉がないだけで、頭の中、そのこと一色かも。
それで、私たちには厳しいような気がする。
主の道を行くってどういうことなんでしょう。
神さまも見ていないと思っているのでしょうか。
全部知ってるけど、黙っているだけだと思うよ。
だから、どんどん司祭の数は減少するばかり。
そのうち潰れるかも。
いーびるの天下。
正義なんてどこにもないかも。
神さま、何とかしてください。
頭が変になりそう。(なってるかも・・・)
(使徒 18. 1-4)
フェベって誰?
って訊かれても、知らないと答える人がほとんどではないかしら・・・クリスチャンでも。
ローマの信徒への手紙の中で、パウロが個人的な挨拶する際に、一番最初に名前が出てくる女性です。
彼女について知られているのは、ケンクレアイ教会のお世話をしていた女性で、ローマまでパウロの手紙を届けた人です。パウロの手紙から察すると、彼女はギリシャのケンクレアイから旅立ち、戻らないつもりでローマへ行ったような気がします。
ケンクレアイはコリントの近くの港町で、教会も海岸線の海に面したところにあり、船で移動する拠点です。「多くの人の援助者、特にわたしの援助者」とパウロが言っているとおり、パウロにとっては大切な人だったのでしょう。
パウロはコリントが好きで、結構、長く滞在しています。そして、3回目の伝道ツアーでも立ち寄っています。そして、最後はローマへ。
なんかね・・・
聖書の解説はいつも大げさな気がする。
ケンクレアイの教会は人目につかないような海辺にあるけど、暮らすには適さない。そして、女性が一人で外出することなど当時としては考えられないし、とすれば、どうしてそう思うのかわからないけど、フェベは猫好きの未亡人か何かで、一人で出かけるとすれば、猫にエサをやりに出かけていたのかも・・・
イタリアの海辺の町で、夕方一人の女性が歩いてくると、どこからともなく猫が集まってきて、彼女にとてもなついていたのを思い出す。猫は用心深いところもあるから、フェベにはなついていても、他の人が一緒だと出てこないとか?
とすると、一人で外出して不自然に思われない最高の息抜きだったのかも・・・
用心深い猫たちも、パウロにはなついていたとか?
というより、普段なら見知らぬ人がいれば逃げてしまう猫たちが、最初からパウロに集まったとしたら、フェベにとっては不思議な出来事だったかも。だから、パウロに話しかけたとか?
教会のお世話ができるような女性で、しかもローマへも行けて、というと一人で水汲みに行くようなタイプではないし・・・ しかも、猫にエサをやるのが唯一の楽しみという孤独な女性とパウロの出会い。
地震がきたので、書くのは控えよう。
パウロの姉妹フェベ。
彼女はよい人です。
パウロの手紙を持って、海を渡った人。
エズラ(ラテン) 13. 57-58
どこの教会にもいるのかなぁ・・・ バッハはプロテスタントだからという理由で、ミサでは歌わない人。
長崎かどこか、九州の出身の方で、初代エルサレム教会の義人ヤコボ(イエスの弟)を彷彿させる。うちの教会にも何人か九州出身の信者さんがいるけど、大抵は、真面目で信仰心が篤く、皆から信頼されております。
でも、話を聞くと、たまに驚かされる。
例えば、女性がベールを被っていないと未信者と思われるとか、神父様にタメ口きくなど想像できないとか、自分の怖い父親が恐れていたのは神父様だったとか、いまだにバッハは歌わないとか?
は〜〜〜〜〜、想像を絶するほどのがちがちぶり。
だから、初代エルサレム教会がどういう感じだったか、ものすごくわかりやすいような気がしてしまう。
そこに、へなちょこサウル。サウルというのはパウロのキリスト者になる前の名前で、彼はギリシャに生まれ、ローマの市民権までもつエリート家庭に育ち、もしかすると甘やかされてへなちょこだったから、エルサレムまで勉強に行かされたのではないかと思うくらい素直で真面目な人かも。素直で真面目だから、何の疑いもなく、律法に逆らうキリスト者たちが嫌いだった?
そんなサウルが急にパウロになったらどうなるか?
バカです。家族も捨て、友人も捨て、何もかも裏切り、キリスト者に。しかも、エルサレム教会はヤコボとケファ爺さんが牽引しているような教会で、あたまがちがち、ふるすぎ。そこにギリシャかぶれしたへなちょこ青年が何か言っても、無意味だったような・・・
でも、サウルは真面目で礼儀正しい人だったので、目上を立て、エルサレムの長老たちも義人ですから表だって喧嘩するわけにはいかない。そこで、パウロは外へ出ることを決意し、布教の旅へ出かけた。
ところが、パウロの行った先々で、エルサレム教会からの使いがパウロを訂正しに回る。これは悪意でやってるというよりも善意によるご奉仕のようなもので、パウロと面と向かって喧嘩するつもりがなかったけど、嘘はいかんという長老的な気遣いにより、なされたことではないかと思うわけです。少なくても、うちの教会のヤコボさんたちならそういう感じです。ただ真面目で忠実なだけなの。バッハが嫌いというわけではないと思うよ。
そういう四面楚歌な孤独な状況で、人間がどのようになってしまうか・・・
おそらくは、今ならうつ病とか?
パウロのとげとか、つのとか呼ばれている病は、もしかすると心臓を針で突かれるような痛み。パニック発作とか?
パウロみたいに鞭で打たれても死なず、嵐にあっても生き延び、そういうタフな人が少々のけがや病気で自分のことを弱いとは言わないと思うのです。なのに、突き刺さるようなとげに苦しんでいたという・・・
弱いときに強いというのはどういうことか?
タフな人が弱いと感じるのは、自分の心の弱さ。こんなにも自分が神さまからの恵みをいただいているのにもかかわらず、自分の不幸な境遇を悲しんでしまう。人間なら当たり前ですよね。ましてやパウロはエリート家庭に育った好青年でしたから、それを捨ててまで自分は何をやっているのだろうか、とかね。そうやって考えるほうが普通。
でも、そういう弱さを自己否定したいから、神さまに完全な人にしてほしいと願うけど、神さまは弱いときこそ強いのだから、と言う。弱いときこそ強い・・・
弱いからこそ、強い。そして、自分が思い上がらないように、神さまが弱さを与えてくださった。
パウロ、悲しくて。
でも、そのパウロのおかげで、神さまの恵みにあずかっております。
ありがとう、パウロ。
(ヨハネ 7. 45-52)