May 29, 2005

構成への意志の欠如を嘆く

短歌というのは、一つの沈黙の方法である。
理屈が飽和した時、あるいは、理屈で語るのがかったるくなった時、何となく自然とうたを詠むようになっていた。詩ではなく短歌というのも言葉を増やさないための手段だと思っていたのだけれども、結局、連作として詠み込んでいけば同じことのような・・・

宗教や哲学の話は疲れる。わたしは心理学の人だからなおさら。しかも巷では心理学というとわたしの知らない意味を持ちながらこの言葉が徘徊しているため、なおさら語るのがかったるくなる。

そのすべてがかったるくなれば、薔薇の花が咲いていたことをボソッと語りたくなる。

ヴェイユの詩集の冒頭、「ポール・ヴァレリーの手紙」を読み、わたしはしばし作歌を止めている。通常ならば、わたしは大変素直な歌人でもあるために、作品からインスパイアされればされたなりにそのままを詠むようにこころがけているつもり。ところが、「構成への意志」の重要性を書くヴァレリーの言葉にしばし立ち止まる。

はてはて・・・・
わたしの作歌に足りない要素があればまさしくこれである。つまり、構成への意志・・・
一つの作品、あるいは作品群に仕上げようという構成への意志が欠如しているのは以前から感じていた。つまりは、やみくもに2万首と決めているため、それ以外の要素はそれから考えればよろしいのではないかという先急ぎ感。

それは一つにはわたしが作歌歴が浅いからだと勝手に勘違いしていたけれども、実はわたしの怠惰さから来るものではないかと感じている次第。

エネルギーを集約させるのがつらい。
ある種の構成への意志を持ち、それを作品群としてまとめるための不毛な努力を考えると、ひねもすをのんびり作歌に明け暮れているほうが楽しい。それと構成への意志を持つことは主題を持つということであり、果たして短歌とはそういう世界なのだろうかと考えてみる。

わからない。
とりあえず、それが詩であることは感じてはいるものの、一つの歌の中に構成への強い意志のある作品をひねり出すためには、それ相応の忍耐と努力とインスピレーションが必要。それを考えると、勝手に手の動くままに、ある時は自由筆記のように言葉を選ばず、その日その時を詠み込んでいくほうがはるかに楽しい。

楽しいだけでよいのか?

ならば、人生を楽しみましょう、という構成への意志を持ち、作歌を続ければよろしい?

まあ、いいか。
いずれにせよ、いつかは取り組まなければ課題には違いない。構成への意志を持つためには激しい動機が必要である。激しい動機が欠如したまま歌人になってしまったためにのらくらのらくらしている。むしろストレスを排除しながらのらくら詠んでいるだけのほうがはるかに楽しい。

そういう意味では、帰着しなければならない着地ポイントが必要という点で、詩のほうが構成への意志を持ちやすい。その着地ポイントへ向かいながら詩は踊る。つまりは、57577の中にもどこかに着地ポイントを入れなければならないということで、それがどこに来るのか・・・どこに置くかで微妙に生きたり死んだりする。

まあ、いいや。
そうやってややこしいことを考えるからうたが詠めなくなる。
それでいて、わたしは何かを学ぼうとしているらしく、その何かをキャッチするためにこのように駄文に励む。

投稿者 Blue Wind : 12:18 AM | コメント (0) | トラックバック

May 12, 2005

日記文学とブログ文学

ある日突然、アメブロの「本・書評・文学」のトップページで、『「山川塾」講座 第1回(仮) ブログは日本に固有な日記文学の復権だ』 という記事を見つけ、ジャンルを変更することにした。実際には、アメーバブックス編集部のブログなので、これもアメブロ企画の一つなんでしょうけど、「日記文学=ブログ」という発想がつらかった。

つまり、一つのブログ全体をまるごと日記文学として講評を山川氏が述べるという企画。何気ない日常の記述である日記を文学として講評するという姿勢がインターネット的ではない。

それでは一つの短編小説をそのまま一つのブログ記事にしてしまった幸田回生さんの小説『ペーパークラフト』 はどうなるのだろう?

幸田さんの場合は、小説だから少なくても幸田さんの日記ではない。

わたしの場合、短歌は文学であるとかないとか、ブログは日記であるとかないとか、ネットはメディアであるとかないとか、道具を使うのは人間のため、実際にはどのようにでも使おうと思えば使える電子の世界を不自由に泳いでいる。

今回、ほとほと悩んだのは、小説の場合、作者がいて登場人物がいる。幸田さんの『ペーパークラフト』も「さやか」という登場人物の日記である。実際には日記とは言えないでしょうけど、読みようによっては完璧な日記。書いているのは作者。だから、フィクション。

わたしの場合は、ブログの作者はわたしであり、小説ではないから、登場人物も実在の人たちであり(当たり前か・・)、わたしはわたしである。でも、もしかすると読む人たちにとっては実はどうでもよいことなのではないかというのが素直な感想。

これが幸田さんのブログがまるごと「さやか」という架空の存在を主人公にしてブログ記事を書き続ければ、フィクションであり小説であっても、日記文学というカテゴリーに含まれてしまうようにも思われる。

文学、ということで考えてしまえばおそらくはどうでもいいことなのかもしれないけど、ウェブを主な作歌の場としてうたを詠んできて、ついでにそれが発表だと言われ戸惑い、次にはそれが文学であると言われて急にジャンル変更したり、CSS編集記事を差し入れたりするわたしという人。

このほかにも実際的な問題はある。

例えば、わたしの場合、素材を借りているけれどもそれは前提に個人のサイトないしはブログであり、営利目的ではないという条件がある。だから、アフィリエイトについても本来なら控えるべきだと思っている。このため書評を書くのも憂鬱の種。なぜならアマゾンのアフィリエイトの画像を使うにはアマゾンのアフィリエイトに加入している必要があるから。そうでなければいちいち自分のサイトやブログに画像をアップしなければならない。

完全な書評のブログであれば、余分な画像を使う必要性がないのでおそらくはくだらない悩みなのかもしれないけど、例えばニュースの記事や写真にも著作権があり、いちいち莫大なブロガーたちがニュース・サイトに承諾を得てリンクを貼ったり画像を使ったりしているとは思えない。それでも問題にならないのは営利目的ではないからだろう。でも、アフィリエイトは営利目的である。

そこのデリケートな部分が、アメーバブックスの編集室(あるいは企画室か?)はもともとが営利目的で出版している人たちのせいか伝わらない。ブログまるごと日記文学として扱い出版を考えるというのは発想としては今の時代の風潮でもあり、ブログを書いてアフィリエイトするというのも一つの仕事だと思っている人たちもいる。それを推進する、というのは商売なら当たり前だろうし・・・

感覚の問題なんだろうな・・・

今回、ブログペットがとうとうアメブログでは使えなくなり、こういうのはむしろ企業間の問題であることが多い。わたしがほかのブログにブログペットを置くことは可能である。ところがアメブロだと使えない。新聞社の記事も個人ユーザならアメブログでも使えるでしょうけど、企業のブログでは許可なく使えない。翻弄される一人のユーザであるわたしという人。

ブログは一つの世論だからな・・・
果たして、それを文学と呼び、文学にしてしまってもよいのだろうか?
文学記事として記事をアップするのなら、別でしょうけど。
どうもややこしい。
日記文学とブログ文学。

投稿者 Blue Wind : 05:04 PM | コメント (0) | トラックバック

May 08, 2005

短歌用語の語感

うたを詠むようになって覚えたことばがいくつかある。
作歌の時にしか使わない。

例えば、吾子(あこ)、夫(せ)、汝(なれ)。
短い句の中に効率的に収めるためには都合がよいことば達。

「こころさえ聖らかなればそれでいい汝語りしや愛を信じて」

このうたはすごく初期の頃のうた。「汝」というのはおまえとかアンタ。つまり目下に使う。間違えて詠ったわけではなく、そういう気分だったからとしか語れない。ジーザスに向かって、汝と言っている。だから、捉えようによってはすごく反抗的でつっけんどんな言い方をしているわけで、その後、神父さんのサイトに「サマリアの女」のイラストと話が。

いろいろ。

例えば、心理学と哲学は相性が悪いらしく、わたしは学生時代、何度も「心理学は哲学ではない」と言われた。実験実証主義というのはそういうものらしく、科学的手法を使って精神を説明することに意義があった時代。だから、すべてを信仰で語る姿勢というのは違和感があり、どうして今さら宗教なのだろうという反抗的な気持ちが込められている。

ほかにもいろいろ。

日本人なのに、どうしてキリスト教なのかなーとか。ごく普通の疑問。そこに、サマリアの女。サマリアを通りかかったイエスがヤコブの井戸で休んでいる時、水を汲みに来た女。弟子たちは食べ物を買いに町へ出かけていたので誰もいない。サマリアの女にイエスは、「水を飲ませてください」と言う。サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と答える。(ヨハネの福音書 4章)

イエスと話しているうちに、サマリアの女は彼がメシアだと確信する。そしてそれを町の人たちに伝える。イエスがサマリアの女と話しているのを戻って来た弟子たちが眺めても、誰もそれを止めようとはしなかった。当時は、ユダヤ人とサマリア人は交際しない習慣だったというのに・・・

最初はピンと来なかったのだけど、あのうたを詠んだ当時のわたしの態度や気持ちがそのものズバリ「サマリアの女」。そうやって暗黙のうちに指摘されてみると、そうなのかもしれない。こころのどこかで強くジーザスに惹かれているのだけれども、あれにこれに。本当に余分なことがあれにこれにとあった。そういうつっけんどんさがうたにも現れている。わざとではない。あのうたは、そもそもが返歌をやりとりしていた時に不意に詠んだもので、サマリアの女をテーマにしようとかそういう高尚な意味はなく、ただどうして信者でもないわたしがあれにこれにと神の愛について語らなければならないのだろうかという、いわば自嘲的な意味も含まれている。

懐かしい。

ほかにも、「夕まぐれ」とか、「かごと」ということばをわたしは好む。夕まぐれは夕闇の時間のことで、青闇という表現のほうが好きかもしれない。青闇というのはわたし語。かごとは愚痴やぼやきのことで、わたしはあちこちからあれこれ言われてウンザリしている時、かごと渦と詠う。かごとだけでは足りず、かごと渦。
「敷島」は枕詞なんでしょうけど、わたしはそのものズバリ日本のことを指して使う。
含むと言うより、「ふふむ」と言うほうが好きだし、もはや短歌でしか使わないことばであったとしても語感と語数という意味で古いことばを好むことが多い。

投稿者 Blue Wind : 11:21 PM | コメント (0) | トラックバック

May 07, 2005

字が書けない

漢字は手で覚えていたので、近頃ではまったく書けなくなってしまっている。キーボードばかり打っているせいだろうか・・・

手書きで文字を書くことなんてカードのサインくらいのものだろうと高を括っていたら、いきなりアンケートを求められて書いてしまうわたしという人。断ればいいのに・・・というか断るべきだった。漢字が書けない・・・咄嗟に「豚肉」と書こうとして、つくりを隊と間違えてしまった。

変な漢字つくるなよー!>わたし

それでも連休中、クイズ番組を見ていたら、叶恭子が「不可能」という漢字を書けないことを知り、それに比べればわたしのほうがマシかもしれないとほくそえんでしまった。漢字が書けないというのは一種の老化現象だろうか・・・外見はさほど変わらなくてもどうも中身が抜け落ちていくようで悲しい。

それでいてキーボードとなるといつの頃からかブラインドタッチ。一つ覚えて一つ忘れて、プラマイ0だからよしとしますか。

それにしても酷いよね・・・うちのダンナなんて九九が言えない。でも計算はできるらしい。九九が言えるということと九九の計算ができるということとは違うかもしれないとは思っていたけど、やはり違うらしい。娘に一生懸命漢字を勉強させてその実わたしはすでに忘れている漢字も多い。それでもうちのダンナよりはマシだろう。

すでにペンだこも無くなってしまった。そのせいで、どうもペンを持つと変だ。感触がわざとらしくて、しっくりこない。昔は文字を書く時にもこだわりがあり、わたしはウォーターマンの万年筆がお気に入りだったのだけれど、すでに何年も使っていない。字も下手になってしまった。キーボードの文字に目が慣れてしまったので、そうやって感じるだけだろうか。

昔は数字の羅列に強くて、電話番号などは一発で覚えてしまったものだけど、このところ自宅の電話番号ですら間違える。こんなんでいいのか・・・ダンナの携帯の番号も覚えていない。

生活がすでに電子化されている。お習字でも習いに行こうかな。今のままではキーボードが無かったらうたも詠めない。広辞苑使ってうたを詠んでいる人の気持ち、何となくわかった。

投稿者 Blue Wind : 05:40 PM | コメント (0) | トラックバック