May 08, 2005

短歌用語の語感

うたを詠むようになって覚えたことばがいくつかある。
作歌の時にしか使わない。

例えば、吾子(あこ)、夫(せ)、汝(なれ)。
短い句の中に効率的に収めるためには都合がよいことば達。

「こころさえ聖らかなればそれでいい汝語りしや愛を信じて」

このうたはすごく初期の頃のうた。「汝」というのはおまえとかアンタ。つまり目下に使う。間違えて詠ったわけではなく、そういう気分だったからとしか語れない。ジーザスに向かって、汝と言っている。だから、捉えようによってはすごく反抗的でつっけんどんな言い方をしているわけで、その後、神父さんのサイトに「サマリアの女」のイラストと話が。

いろいろ。

例えば、心理学と哲学は相性が悪いらしく、わたしは学生時代、何度も「心理学は哲学ではない」と言われた。実験実証主義というのはそういうものらしく、科学的手法を使って精神を説明することに意義があった時代。だから、すべてを信仰で語る姿勢というのは違和感があり、どうして今さら宗教なのだろうという反抗的な気持ちが込められている。

ほかにもいろいろ。

日本人なのに、どうしてキリスト教なのかなーとか。ごく普通の疑問。そこに、サマリアの女。サマリアを通りかかったイエスがヤコブの井戸で休んでいる時、水を汲みに来た女。弟子たちは食べ物を買いに町へ出かけていたので誰もいない。サマリアの女にイエスは、「水を飲ませてください」と言う。サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と答える。(ヨハネの福音書 4章)

イエスと話しているうちに、サマリアの女は彼がメシアだと確信する。そしてそれを町の人たちに伝える。イエスがサマリアの女と話しているのを戻って来た弟子たちが眺めても、誰もそれを止めようとはしなかった。当時は、ユダヤ人とサマリア人は交際しない習慣だったというのに・・・

最初はピンと来なかったのだけど、あのうたを詠んだ当時のわたしの態度や気持ちがそのものズバリ「サマリアの女」。そうやって暗黙のうちに指摘されてみると、そうなのかもしれない。こころのどこかで強くジーザスに惹かれているのだけれども、あれにこれに。本当に余分なことがあれにこれにとあった。そういうつっけんどんさがうたにも現れている。わざとではない。あのうたは、そもそもが返歌をやりとりしていた時に不意に詠んだもので、サマリアの女をテーマにしようとかそういう高尚な意味はなく、ただどうして信者でもないわたしがあれにこれにと神の愛について語らなければならないのだろうかという、いわば自嘲的な意味も含まれている。

懐かしい。

ほかにも、「夕まぐれ」とか、「かごと」ということばをわたしは好む。夕まぐれは夕闇の時間のことで、青闇という表現のほうが好きかもしれない。青闇というのはわたし語。かごとは愚痴やぼやきのことで、わたしはあちこちからあれこれ言われてウンザリしている時、かごと渦と詠う。かごとだけでは足りず、かごと渦。
「敷島」は枕詞なんでしょうけど、わたしはそのものズバリ日本のことを指して使う。
含むと言うより、「ふふむ」と言うほうが好きだし、もはや短歌でしか使わないことばであったとしても語感と語数という意味で古いことばを好むことが多い。

投稿者 Blue Wind : May 8, 2005 11:21 PM | トラックバック
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