なんだか変な時代だと思う。韓国の大統領と中国の国家主席が一緒に日本の被災地をお見舞いに来てくれることに大しては違和感はないのだけれども、その間に北朝鮮の代表が中国を訪問しているというのは変な話だ。首相の外遊中に、他国のトップが来日するなどということは、日本では考えられない。複雑なアジア情勢といったところだろうか。
なんだかんだ言っても今年は入梅し、なんだかんだ言っても21世紀なのだろう。なんだかんだ言っても、ユン・ソクホ監督の韓流ドラマを観てはボロボロ泣かされ、娘にはババア扱いされている。個人的には、『冬のソナタ』よりも『春のワルツ』や『夏の香り』のほうが好きなのだが、一番泣かされたのは『秋の童話』。
ってことは、春夏秋冬シリーズを全部観たことになる?
TSUTAYAでも、絶好のポジションを韓流ドラマが占めている。が、しかし、さすがに飽きてきたので、今度は名探偵ポアロシリーズを借りてきた。
夜中にワインを飲みながら、DVDを観て泣いている・・・というのはなぁ・・・
結構、ストレスが溜まっているか、現実逃避に走っているのかも。
今頃になってメルトダウンの隠蔽の話が出てきたり、増税やら復興やら不況やら就職難やら放射能やらネガティブな話題ばかりが続き、もしかすると、海外のメディアが語っていたことが、つまり、60年前の日本の状況とよく似た状況が訪れているのに、実際問題、不安を刺激しない程度に情報がコントロールされているだけなのだろうかという疑惑が頭を過ぎる。
いや、そんなことはどうでもいい。それよりもショックを受けたのは、YOU TUBEの画像か何かで、高い堤防の横を走っている車が、すぐ隣まで津波が迫っているのに気がつかない、というシーンだ。危険がすぐそこまで来ているのに、まるで気がつかない。そして山ほどの高さの津波。
わたしのような想像力のたくましい人間は、並木道を走っていても、並木よりも高い堤防の向こうに津波が迫っている図が脳裏に過ぎってしまい、自分で勝手に想像しているにもかかわらず、その想像に怯えたりする。それでいて麗らかな日々。そのギャップに疲れて、何かをしようという気力が萎える。
福島の原発の事故に関しても、アメリカからの情報のほうが正確で、連日発表されたあれらの報道に何の意味があったのかと感じてしまう。もしかすると、知らないのはわたしたちだけ?
わたしは被災地には直接行ったことはないが、行った人の話によると、荒涼としたパノラマを観てしまうと急にリアリティが増し、何も出来なくなってしまったという話を聞く。報道では、悲しい場面はあまり報道されず、生き残った人たちの姿や、復興に向けての動きなどを主に取り上げている。それくらい悲惨なのだろうか。
この、違和感は、何なのだろう?
うまく言葉にはならない。
被災地へ慰問に行った落語家が、わんわん泣いていたけれども、その理由は報道されない。それほど悲惨ということか?
知らないことには泣けない。
韓流ドラマを観て泣いていると気分がすっきりするというのは、今のわたしにとってはごく自然な成り行きという気がする。
(コリント 二 8. 8-15)
泥海のピエタの淵の見つむるは吾子眠る音息探しぬる
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「日本のために祈ろう 〜私たちは皆ひとつ〜」
日本に癒しをもたらすための十字架の道行
http://www.ofm-j.or.jp/doc/PrayforJapan2011_JP.pdf
* この中の写真を見て、詠んだ歌。
(エレミヤ 51. 1-2)
どんなことにも慣れがある、というか、近頃ではすっかり地震に慣れてきてしまい、地震がきたときの反応が人それぞれなのに気づく。
姑さんのことがあって、老人ホームの受付で話していたときにも震度4強くらいの横揺れの地震があり、ちょうどよいところに手すりがあったので、さすが老人用の施設だと思って感心した。
が、しかし、周りの反応を見てみると、ほとんどの人たちが無反応。
わたしの隣に立っていたおじいさんは、地震があったのにも気づいていない。その人は受付に挨拶をすると、ゆっくり振り返り、エレベーターのボタンを押した。地震のために非常停止になっているので、ボタンの電気が点くはずもなく、皆が地震があったからと言っても、首をかしげている。他の高齢者も似たような感じで、結構揺れたのに、あのまったりとした雰囲気は不思議だ。
かと思えば、美術教室にいるときにも何度か地震があり、高3なので、先生との面談中にも震度5強の地震がきた。
一言で言えば、なんだあの騒音は・・・・
という感じ。
ドアや窓がカタカタこすれあって、ものすごい騒音。食器が落ちるかと思って心配したが、それほどでもなかった。
ねこ先生の話によると、地震がくると小学生や幼児のクラスは、皆、きゃーきゃー言って、駐車場に避難するらしい。
高校生はと言えば、地震がきたので、わたしが教室に入ると、娘は石膏像が落ちないように押さえていた。わたし的には、地震なんだから石膏像から離れてほしいと思ったが、震災のときに石膏像が割れてしまい、何とか残ったものだけを落ちないようにヒモで固定している。モチーフがこれ以上減ると困るけれども、それよりも安全のほうが大事だと娘に言った。
ねこ先生はのんきで、「これ、結構大きくなりますよ」と言ったら、本当に揺れてきたので、わたしは天井を見上げ、ねこ先生は水槽を押さえていた。落ちるのが困るのならあんなところに置かなければよいのに、と思うのだが、カウンターや机の上に、巨大化した金魚やら、タニシやらが入っている水槽が3つ置いてある。震災のときに水が零れて、後片付けが大変だったらしい。
津波の映像を見てしまったせいか、自分が被災しているという自覚がまるで欠如しているが、よく考えたら、橋が落ちていたり、天井が落ちていたり、道路が通行止めだったり、茨城県は被災地なのだ。あちこちで補修工事が行われている。家が半壊しているところが多いせいか、今頃になって、近所に仮設住宅が建設されている。(遅すぎないか?)
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この前、大学や専門学校の進路相談会があり、わたしも娘と一緒に行った。自粛している大学も多かったが、逆に、去年よりも生徒の集まりがよく、盛況だった。
わたしは何をしていたかと言うと、大学の被災状況を訊いていた。理由は、大学の雰囲気がわかるから。
ある大学では、入試の後片付けをしていたときだったので、キャンバスが落ちないように押さえていたとか、ある大学では、被災時には生徒にカレーの炊き出しをしていたとか、本当に答えが違う。まったく被害がなかったという大学に、石膏像が割れたりしなかったかどうか訊いたら、石膏像はありませんと言われた。美大なのに石膏像がないというのには、逆に驚かされた。
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他人のことばかり考えていて、自分はどうなのだろうとふと思ったら、わたしの場合、地震がくると、まず天井を見て、落ちてきそうなものがなければ、そのままその地震の震度などを考えていることが多い。地震速報と照らし合わせて、当たったら嬉しい。
近頃、地鳴りのする地震が多くなった。おそらくは震源地が近いか、真下くらいのときに地鳴りがするのだと思うが、今のところ、地鳴りが大きいときには、さほど揺れない。
逆に音のないときのほうがよく揺れる。横揺れの地震が多い。震源地が海のときの地震だ。
でも、この2週間ほどはかなり減り、地震速報があってもこちらは揺れていないことが多くなった。
自宅にいるときに地震がきたら、とりあえずソファのほうに避難している。大きな揺れだと2階に寝ていた犬も降りてきて、わたしのそばに座る。といったことがしばらく続いていたが、このところ地震があっても、降りてこなくなった・・・ 犬も地震に慣れたか?
(エレミヤ 50. 6-8)