どんなことにも慣れがある、というか、近頃ではすっかり地震に慣れてきてしまい、地震がきたときの反応が人それぞれなのに気づく。
姑さんのことがあって、老人ホームの受付で話していたときにも震度4強くらいの横揺れの地震があり、ちょうどよいところに手すりがあったので、さすが老人用の施設だと思って感心した。
が、しかし、周りの反応を見てみると、ほとんどの人たちが無反応。
わたしの隣に立っていたおじいさんは、地震があったのにも気づいていない。その人は受付に挨拶をすると、ゆっくり振り返り、エレベーターのボタンを押した。地震のために非常停止になっているので、ボタンの電気が点くはずもなく、皆が地震があったからと言っても、首をかしげている。他の高齢者も似たような感じで、結構揺れたのに、あのまったりとした雰囲気は不思議だ。
かと思えば、美術教室にいるときにも何度か地震があり、高3なので、先生との面談中にも震度5強の地震がきた。
一言で言えば、なんだあの騒音は・・・・
という感じ。
ドアや窓がカタカタこすれあって、ものすごい騒音。食器が落ちるかと思って心配したが、それほどでもなかった。
ねこ先生の話によると、地震がくると小学生や幼児のクラスは、皆、きゃーきゃー言って、駐車場に避難するらしい。
高校生はと言えば、地震がきたので、わたしが教室に入ると、娘は石膏像が落ちないように押さえていた。わたし的には、地震なんだから石膏像から離れてほしいと思ったが、震災のときに石膏像が割れてしまい、何とか残ったものだけを落ちないようにヒモで固定している。モチーフがこれ以上減ると困るけれども、それよりも安全のほうが大事だと娘に言った。
ねこ先生はのんきで、「これ、結構大きくなりますよ」と言ったら、本当に揺れてきたので、わたしは天井を見上げ、ねこ先生は水槽を押さえていた。落ちるのが困るのならあんなところに置かなければよいのに、と思うのだが、カウンターや机の上に、巨大化した金魚やら、タニシやらが入っている水槽が3つ置いてある。震災のときに水が零れて、後片付けが大変だったらしい。
津波の映像を見てしまったせいか、自分が被災しているという自覚がまるで欠如しているが、よく考えたら、橋が落ちていたり、天井が落ちていたり、道路が通行止めだったり、茨城県は被災地なのだ。あちこちで補修工事が行われている。家が半壊しているところが多いせいか、今頃になって、近所に仮設住宅が建設されている。(遅すぎないか?)
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この前、大学や専門学校の進路相談会があり、わたしも娘と一緒に行った。自粛している大学も多かったが、逆に、去年よりも生徒の集まりがよく、盛況だった。
わたしは何をしていたかと言うと、大学の被災状況を訊いていた。理由は、大学の雰囲気がわかるから。
ある大学では、入試の後片付けをしていたときだったので、キャンバスが落ちないように押さえていたとか、ある大学では、被災時には生徒にカレーの炊き出しをしていたとか、本当に答えが違う。まったく被害がなかったという大学に、石膏像が割れたりしなかったかどうか訊いたら、石膏像はありませんと言われた。美大なのに石膏像がないというのには、逆に驚かされた。
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他人のことばかり考えていて、自分はどうなのだろうとふと思ったら、わたしの場合、地震がくると、まず天井を見て、落ちてきそうなものがなければ、そのままその地震の震度などを考えていることが多い。地震速報と照らし合わせて、当たったら嬉しい。
近頃、地鳴りのする地震が多くなった。おそらくは震源地が近いか、真下くらいのときに地鳴りがするのだと思うが、今のところ、地鳴りが大きいときには、さほど揺れない。
逆に音のないときのほうがよく揺れる。横揺れの地震が多い。震源地が海のときの地震だ。
でも、この2週間ほどはかなり減り、地震速報があってもこちらは揺れていないことが多くなった。
自宅にいるときに地震がきたら、とりあえずソファのほうに避難している。大きな揺れだと2階に寝ていた犬も降りてきて、わたしのそばに座る。といったことがしばらく続いていたが、このところ地震があっても、降りてこなくなった・・・ 犬も地震に慣れたか?
(エレミヤ 50. 6-8)