October 26, 2005

頃合

学生時代のネットワークって何かと思えば、結局、教会つながりなのだと。もう長年会うこともなく、話す機会もめずらしくなりつつあるのに、おそらくはこのダラダラとした関係が死後にまで続いていくのかもしれない。というのは、死後半年が経過し、すでに音信も途絶え、最後に会ったのはおそらくはわたしの結婚式で、御聖堂だった、という希薄で濃厚なつながりが死後にまで続いていく。

たまに会って話すことと言えば、大抵は子どもに洗礼を受けさせるか、とか。わたし自身は洗礼も受けていないくせに、そういう愚痴がダラダラ続く。子どもの頃、あるいは学生時代に洗礼を受けた人たちはともかく、わたしのように、そのうち勉強会に参加して、と思いながらもダラダラしている人間にとっては、近頃少しずつ老眼が始まったような気がするゆえか、そろそろ真面目に、と考える年頃でもあり、今後ますます年寄りに近づくにつれ、この手の話が濃厚にわが身にふりかかることは想像に難くない。

おそらくは賀状一つとっても、カトリックやプロテスタントという枠をこえて、この狭い日本の土壌で細々とつながる糸によりつながれている。

ダンナがそろそろ開業すると言い出すのと同じくらいわたしがそろそろ受洗すると言い出すのはごく自然の成り行きであり、彼も昔は開業医になることなど希望していなかったにもかかわらず、ある程度の年齢に達するとごく自然の成り行きでそうなるように、わたしも昔は自分が洗礼を受けるということを希望していなかったにもかかわらずごく自然の成り行きでそういう気分になっている。

誰かの一生を振り返るとそれはとても儚く短い。

おそらくは、よくある出来事なんだろう。せっかく結婚して、子どもも生まれて、それでいてうまくいかなかった。おそらくはあまりにもよくある出来事なんでしょうけど、学生時代から信仰どっぷりの人にとって、それが二重の苦しみとして存在していることを考えると、複雑な気分に陥る。

わからないけどね・・・おそらくは彼女がカトリックの信者でなければ、もっとあっさり離婚していたような気がするけど、どうなんだろう。わが子とも会えず、母親のことを知らない娘。おそらくは淡々と実家に戻って、毎日教会へ通っていた彼女を想像するのは簡単すぎて複雑な気分に陥る。

おそらくは、ほとんど自分の感情を表すことなく、複雑な状況で生きているにもかかわらず、彼女は淡々と教会へ通う日々を過ごしていた。教会には教会の行事があり、たまに教会のコンサートがある日には友達を誘ったり、そういう静かな生活を過ごしていたことは想像に難くない。

大抵の友達は子育てに忙しく、月並みな生活。他愛もなく続くおしゃべり。その向こうにはほとんど表情を変えず微笑む彼女が座っていたことは想像に難くない。そして、彼女は毎日教会へ通っていた。

大して真面目な信者でもなく、いまだに洗礼も受けていないくせに、月並みな生活をしているくせに、わたしは少しも自分が不幸であるとは感じない。そのくせ、そういういい加減な人間に限って、そのうち受洗して・・・とあいかわらず。それでいて、わたしは少しも自分が不幸であるとは思っていない。そのうち、そのうち、と思いながらも神さまは近づくだけで、遠ざかることはない。それはいつかは誰でも死ぬわけだから、ごく自然の成り行きであり、おそらくは生まれたときから決まっていたことのような気がするくらい当たり前の出来事のよう。

若い頃は、気がつかない。ある意味、生きることに一生懸命で、そのために努力しているからかもしれない。でも、ある程度年をとってしまうと、やがては誰でも死ぬという事実を思い出すようになる。おそらくは、それからでも充分な気がするほどだ。おそらくは、それからでも充分なのかもしれない。

投稿者 Blue Wind : October 26, 2005 02:42 AM | トラックバック
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