August 26, 2005

国という抽象的存在

人間らしさとか、普通の生活とか?
簡単・・・

たとえば、わたしが老いたとして、そのとき、わたしの心配をしてくれるのが”国”や”みんな”というのがいやなだけ。みんなで話し合って、年金がどうたらこうたら、という社会より、娘に、「お母さん、お母さん、大丈夫ー?」って言われたいだけ。

義姉が姑さんに言っていた・・・
「お母さん、そのために今は年金があるの」と。
つまり、親の生活のことや介護のことはみんなで考えるべきもので、だからこそ社会保険があり、国に支払った結果それが親に間接的に入るという仕組みについて。
あっさり言えば、誰も親の世話をしたくないし、一緒に住みたくないってことを国の責任にしちゃっているだけのような・・・

かく言うわたしだって姑の苦労を積極的にしたいとは思えない。姑さんにしてみれば嫁の苦労をしたくない。財布をきっちり分けたい。そのためには間接的な関係がうるわしい。つまり、トラブルを回避するために間接的な仲立ちが必要なだけらしい。もっともサラリーマンの家庭ではないためにある程度の話し合いは必要なんだけどね。でも、それはわたしには関係ないから・・・

国だと思うから、がっちりせしめたくなるけど、それが娘の稼ぎとなるとそういうわけにはいかない。国という抽象的な関係より、娘という愛する存在との関係のほうが大切。

あら?
愛国心って・・・
んなもんないってたまに思う。

投稿者 Blue Wind : August 26, 2005 12:30 PM | トラックバック
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?