January 22, 2005

femme: 2

大人になれよ>わたし
気にするな。
ただ、カタルシスが終わっていないだけだ。それでもわたしは神を愛している。わたしはこの話になると過剰反応してしまう。わたしは娘を愛している。わたしはわたしの罪のゆえに、神を愛し、娘を愛している。そして、ダンナに感謝している。もしかすると、かつては違っていたかもしれない。わたしは普通だ。罪を意識すれば、それから逃げ出したくなる。

あまりにもよくある話。親にも相談した。学生時代に子どもが出来てしまう。医者は癌細胞でも取り除くように胎芽をわたしの胎内から除去した。医者はご機嫌で母に言った。母体は安全、オペは成功。母がうれしそうに礼を言っていたのを思い出す。わたしは麻酔から醒めると胎内の異物が消え、体が軽くなったのを感じた。家に戻り、母がめったにないことだけど、わたしを抱きしめてくれようとした。わたしはそれを振りほどいた。わたしのためではなくわたしの子どものために泣いてほしかった。わたしは悲しすぎて泣けなかった。

わたしたちは子どもだった。誰かと誰かの子どもだった。そしてわたしたちの親はそれぞれの子どものために心配した。その子どもというのがわたしと彼だ。彼の親は言った。結婚はかまわない。だけど、子どもはダメだとヒステリックに言われた。彼女が心配しているのはわが子のことだけだった。わたしの親が心配しているのもわたしのことだけだった。そのくせ父は何も知らなかった。わたしも父には知られたくなかった。それだけ。どういうわけか、何を言われても説得力が欠如していたくせに、母に言われた「父が悲しむ」という一言でわたしはすべてを受け入れてしまった。歪んだ骨盤のことも、金が無いことも、将来のことも、子どもに対する責任のことも、道徳も倫理も何もかもがどうでもよかった。彼は大学を辞めて働こうかと言っていた。ははん。弱いくせに。最初から無理だということはわかっていた。常識、良識、くそったれ。そしてわたしは再び実家を飛び出し、彼のところへ。幽霊だ。互いに幽霊でも見ているようにそこに存在していた。彼は衰弱し、泥酔し、泣いていた。弱い自分に泣いていたのかもしれないし、子どものために罪のためにわたしのために泣いていたのかもしれないし、彼は弱っていた。わたしは体が傷つき、彼は心が傷ついていた。

ある日、姑さんがボソッと言った。彼の姉二人と彼との間に年の差があるのは流産したかららしい。そして結婚してすぐに4回の腸の手術をし、子どもができないという理由で虐められた話。叔母は中学生の頃に眼を患い出産すれば失明すると医者に言われていた。結婚と堕胎と離婚。そして再婚。失明してもかまわない、妻の世話は自分がすると、新しい叔父が言った。そして二人の子ども。

いろいろあら〜な。

そして、それでも神はわたしを愛してくれる。罪の無い人などいない。アダムの頃から、人間なんてそんなものらしい。そして、わたしたちの罪を贖ってくれたのがイエス・キリスト。彼はすべての人の罪を赦すために生きている。彼はわたしたちを裁くためにきたのではなく、わたしたちを救うためにやってきた。わたしが罪のうちに責められるとき、皮肉なことにわたしを救ってくれるのがジーザス・・・福音があるから罪も悪も知ることになり、福音があるからわたしたちは救われる。皮肉だ。地球が反転するような奇妙な感覚と静かな愛。罪を背負うために生まれてきている。誰もかれもが。罪を知るために生きている。だから、わたしは罪の中にあり、罪の中で神を愛す。

わたしと彼は互いに罪の中に生きることにより、今でも一緒に生きている。恋愛なら冷めてしまったかもしれない。皮肉だ。誰もかれもが一緒に罪を背負うことにより家族になった。わたしの傷は誰よりも彼を傷つけた。弱さ、か。弱いよ。わたしが責められれば、彼が泣く。そういう人生は今でも続いているらしい。

春になれば、子犬がやってくる。何事もなかったかのように連れられてくるのだろう。そしてひねもすはゆく。わたしはいつも要らないと言う。それでいて娘もオトもマリも新しい子犬もわたしの子。愛することでしか自分を救えない。

投稿者 Blue Wind : January 22, 2005 06:47 AM | トラックバック
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