February 20, 2004

まだ丘をめざすあたし

◇時間は遡る

ルドビーさん、うちの人たちは、誰も驚きませんでした・・・やはり。
単なる独り言です。
一人になったら修道院へ入ろうかなぁ・・・と言っても。

うつうつうつうつしながら、いつものように考えていたら、不思議な光と共に、すべての思考と感情が止まり、あまりにも静かな愛に包まれた話は以前も書いたかもしれません。
あの瞬間、自分は神さまに、「一番好きな人とは結婚できないよ」と言われた気がした。
「気がした」というのは、言葉がなかったからです。意味だけ。

あまりにも一瞬の出来事で、自分でもそれを今でも自分が覚えていること自体が不思議です。それくらい一瞬の出来事だった。そして、不意にわれに返ると、いつものように高らかな足音や話し声、慌しくお祈りをしてあしばやに立ち去るシスター。まるで何もなかったかの不思議な世界。おそらくは、自分はその後、授業に出たか、学食へ行ったか忘れてしまったくらい、ごく普通の単なる時間つぶしに御聖堂で編み物していたくらいだから、どこかへ行く途中だったのかもしれない。すでにそういうことは忘れてしまった。

それ以後、結局、就職したくなかったので、大学院へ。もっとも当時は院に心理学科がなかったので、受験しなければならないし、あまり真面目な学生でもなかったので、誰も受かるとは思っていなかったかもしれません。実際、浪人したし・・・情けなかった、院浪人。誰も理解してくれない。

あまりにも馬鹿らしかったので、いっそのこと語学留学でイギリスにでも行こうかと思ったら、富家先生が止めてくれたんです。驚いた。

道が変わるからやめなさい、って。
そのお話をしたのが元気な先生にお会いした最後でした。


◇ あの頃

あの頃の自分は、みんながほしがるものは大抵与えられていたような気がします。自分のことを客観的に見てはいけないと言われたので、もうすでに何もかも忘れてしまいました。そして、いかに不幸であったかは誰も理解してくれない。そして、自分には失うことの恐怖しかなかった。
そして、その後の20年間は失うことのために生きてきた気がします。名前すら失い、あるのは自分と家族。家族ですら、減る。失うためにだけ生きてきた中で、研究の道もある日突然、ダンナが阿弥陀くじに負けたためにすべてが消えた。復学の権利もあるし、今でも言われると戻ろうかと思うのです。もしも本気で復帰するのならいつでも戻れるんです。本気なら。
でも、もはやすべてがどうでもいい。

それは娘を抱っこした瞬間に終わったんだと思っています。

そして過酷な30代。もう書くのもいやです。それでいて、平穏無事な生活が続いている。あまりにも不思議で、ある視点からみれば自分は世にも不幸な人生を歩いており、ある視点からみれば、働いたこともないくせに、と罵られながら普通の主婦をしています。それでも何もしない。


◇ なんだか・・・

今は、ダンナが結核になったおかげで少しは静かな生活をしていますが、4月からまた通常の生活になるそうです。いつも誰かの死を計算しながらの生活。まいにちまいちにまいにちまいにち。いのちいのちいのちいのち。働いたこともなく精神世界だけを歩く。狂気から上位概念。リスカも自殺ももっと驚くほどの出来事もすでに驚かなくなってしまった。みんながいう。人のこころがわからないと。うつうつうつうつうつうつ。

なんだか、もう、どうでもいいんです。


◇ 平穏

先日、加藤先生から電話をいただきました。あたしがあまりにもほがらかなので驚いたそうです。は?あたしってどういうイメージなのでしょう?どうしてテキストにするとこんなに暗いのでしょう?事実を書くととても暗いそうです。でも、毎日子どもたちが遊びに来てくれる生活で、どうして暗いんですか?オトちゃんを見に、娘の友達がさっそくやってきました。まったく吠えないし、安心しました。かと思えば、キッチンでビニール袋に吠えているオトです。よーわからん・・・犬のことは。などと思いながら、平穏な生活が続いています。あまりにも平穏なので不思議すぎると、昨日もダンナと話していました。


◇ こんな自分ですが・・・

神さまの愛は、あまりにも巨大すぎて、いまだに受容できません。
勇気をください。この恐怖をどうやって伝えたらいいのかわからない。


◇ やはり・・・

聖書を読むしかないのかもしれません。
いまだにほとんど読んだことがありません。


◇ 結局

いまだに洗礼どころか、聖書も読んだことがない。クリスチャンでもない。それどころかバリ島へ行って、神さまが近く感じてしまうといういい加減さ。でも、本音なんです。母もクリスチャンではありませんでしたが、何となく言っていた意味がわかります。

神さまのすることは大きすぎてわからない、と。何となくこのセリフだけ覚えています。まさしくわからないからです。理解すればしようとするほどわからなくなり、うつうつと修道院へ入ろうと思えばそれは自分の道ではないと語られる。

なんだか、すべての出来事に両義性があって、もうどうでもいいんです。


◇ だから

おそらくは、ルドビーさんはすごく偉い神父さまなんだと思うんです。というのは、書けるからです。書いても無意味なんです。無意味だと思いながらも書く。すべてがどうでもいいと思っていると何も言わないし語らない。実際、語ったことはありません。でも、勝手に手が動く。それがインターネットです。


◇ アシジへ

行きます。アシジの丘へ座る。

投稿者 Blue Wind : February 20, 2004 02:25 PM
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