Love Theory

■ 嫉妬とは恋愛の不純物?

 

あまりにも、『嫉妬』に関するラリーが長いので、久々に心理学辞典などを調べてみる。ところが独立した項目どころか、索引にでさえ載っていない。つまりは、あまりにもありふれた出来事であり、単独で研究する対象にもなっていないということなのだろうか?

嫉妬妄想というのがある。恋人や配偶者が浮気した(する)のではないか?という妄想だ。
恋愛妄想というのもあるけど、これは相手が自分のことを愛してるという妄想。
単なる思い込みと違うのは、それがやはり狂気に結びついているからだろう。

彼氏の”死んだ恋人”に焼きもちを焼く?
癌患者が、自分の死後の”後妻”に嫉妬する?
夫の架空の浮気に嫉妬する?

時に、架空の人物、架空の出来事に対して、嫉妬してしまうという・・・ヘンだ。ヘンだけど、何故かこういうことが原因で、自殺したくなったり、相手を殺したくなったりする?
スタンダールではないけれど、恋愛というのはどこか妄想と相性がよい気がしてしまう。『結晶作用』とはよく言ったものだと思う。ただの石ころが宝石に見えたり? いくつもの断片を組み合わせ、自分の世界を形成してしまう?

「りんは、焼きもちを焼かないか?」
そんなことないですよね・・・逆に、素直なくらいだと思います。すぐ顔に出ますし・・・行動にも言動にも表れます。でも、すぐに忘れてしまうことが多いと思うのです。
嫉妬でゆらゆらすることも嫌いではありません。ぼ〜ぼ〜になったときには、かなり過激な行動もしてしまうかもしれません。
自分でも、これがすこぶるエネルギーに感じる場合もあるし、それでいて、それが連続するようになると、どこか淡白です。

結局、嫉妬を克服するには、自分の妄想をどこで破壊するか?ということなのかもしれないです。
理性で考えた場合、ほとんどの嫉妬が単なる妄想です。相手を束縛したい気持ちが強いほど、相手に求める気持ちが強いほど、自分で自分の呪縛を解くことができなくなります。
そういう時には、枠組みを変換するしかありません。
ヘンな言い方ですけど、自分で自分になってみる。或る行動に対して、どのように行動するか?を考えてみる。やはりパターンがあると思うのです。或る行動に対しての受け止め方というのもあると思うのです。自分の行動特性というものを、自分で考えてみると、自分を客観的に見ることが出来ます。自分の置かれた状況、気持ちを客観的に観察すると、大抵は、酷くどうでもよいことが多くなってしまいます。つまり、他人事として自分のことを考えると、実際、どうでもよいことが多すぎるわけで、それがわかると、或る意味において、こだわりが無くなったりします。
他者の行動も同様です。相手の行動の一つ一つの意味を勝手に想像している場合がほとんどです。ならば、それを悪い方向へ考えなければ、健常者の場合、大抵の妄想は終わってしまいます。

どこまでが”妄想的に作り上げた現実”なのか?
つまり、現実をありのままに受け止めた瞬間、魔力から解放されてしまうことがあまりにも多いのです。
ありのままの姿・・・というのは、つまり、いかなるカップルであろうと、人間は一人ということを認めるということでしょうか。
自分が独立した存在であり、相手もまた別の人格を持ち、自分とは違う存在であることを思い出せば、カップルという事実は残り、互いに自立した自分を思い出せるのかもしれないです。

考えてみれば、この世の中に、自分のために存在しているという人間なんていません。反面、自分が誰かのために存在していると感じた瞬間、幸福な気分になったりします。ちょっと考えると素晴らしいことのような気がしますが、逆に考えると、誰かのために何もすることがなくなったら、幸福も消えてしまうのでしょうか?
つまり、自分も誰かのために存在しているわけではないのかもしれません。互いに独立した人間であったとしても、愛を感じられるか?
そのとき感じる愛が、嫉妬という不純物を含まない愛なのかもしれません。

つまり・・・嫉妬とは、恋愛における不純物なのかもしれませんね・・・でも、ピュアなままより、美味しいかもしれません。

 

 


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