October 24, 2003

いつになったら出会えるのだろう?

特にこれといって
好きな歌人が見つからないの。
内緒でいるのだけれど、その人はまだ選者ではないのです。
ファン心理というか、この歌人の絶対的なファンというのであれば、
あっさり語ればそこの選者に歌を送りつけてしまえば終わる。(たぶん)

ところが、セレクトの世界なのよね・・・

パッと一目見て好きになるというのではなく、
どの人にしよ〜っかなぁってずっと迷っている。


結社もミーハー的に雰囲気だけで選んだだけだし・・・
雰囲気って大切だと思うのよ。

あー、このマニアな雰囲気って懐かしいなぁとか。

歌葉の歌人でも、この人に送りつけてやろうと思えるような人がいない。

あー、これが今の自分の悩みなの。


こーさ・・・
相性っていうの?

歌人同士でも感性というか、パッと見たときに、なんとなく惹かれるものがあるというのは、すごく大切なんだと思う。

特に理解されたいと思わなくても、何となく自分を理解してくれるような感覚は本能以上の感覚のような気がするし・・・

でもさ・・・
どーやってその人にたどりついたらよいのだろう?


ガウディと正岡子規?

なんかわかりやすいな・・・


宗 左近さんの『原初』なんて素晴らしいと思うけど。

あれこそ、あのシュールな感覚こそ、自分の世界のルーツのような気がしたほど。

が、しかし・・・
自分の歌がそこに行き着いていない。

悩むなぁ・・・


宇宙の始まりのような詩だよ・・・


宗 左近、中原中也、ランボー、「ミラボー橋」はアポリネールだっけ?
忘れた。

ちょっと考えよう。
やはり、あたしはラテンなのかもしれないです。
避けて通れぬ世界かな・・・なんか哲学書でも読むか。
迷う。


_______

*ラサさまの板にいたずら書きしたものです。

投稿者 Blue Wind : 04:40 AM | コメント (0)

October 04, 2003

リアリティの崩壊か?

短歌でもそうだけど、どこまで写実・・つまり、リアリティを追及すればよいのか悩む。

ジャンキー葬・・・
実際に亡くなったわけではないのに、”故人”を偲ぶ人たちで盛り上がっている。
これに関しては、神父さんのところにまで報告にしに行っているわけで、「悲しい」という気持ちが本当であればそれでかまわないのかもしれないとすら思う。
養老孟司さんも、現代はリアリティの流行らない時代と語っているらしいし、現金も持たずに買い物ができる時代だから、特に現物が大切というわけではないような気がしてしまう。
そこを、故人の娘はアメリカにいるはずなのに岐阜のプロバイダを経由してBBSに投稿されているとかを調べる人などもいて、自分的にはいささかうんざりしているというのが本音に近い。

”場”というのは難しいよね。
実際には事実ではないにしろ、その場の人たちは”故人の死”を信じて追悼しているわけで、その場にそれは嘘だと言って何になるのだろう・・・

これに対して、実際に故人を偲ぶサイバー上の場・・・
いきなり風俗チャットの人が乱入して、営業活動をしている。
はあ?
りんさまとしては、かなり切れそうになったんだけど、あれでも抑えていたという・・・
普通の管理人なら追い出すとか、「今日はやめてくださいね」とかさ・・本当に(つまりはバーチャルなどではなく)友達だとすれば尚更そういうことには敏感になるはずだと思うんだけど、なんかね・・どうでもいいんだな・・ってちょっと思ってしまった。
それもリアリティを追求するわけでもないネットならではの世界というか・・・

ここでまた「蝉丸」問題に突き当たる。

こーさ・・・
自分という人間はこの世に存在しているんだけど、それが電子の世界に突入してしまったとたんに実体が無くてもかまわないのではないかという・・・
単なる電子文字が徘徊し、それにより何らかの反応が生起する。

それが嘘とか本当とか、いわゆるリアリティを追及するよりも、架空の世界であったとしても、精神世界に埋没している限りすべての存在は実在を持たないわけだから、そのままふわふわ飛んでいるくらいがちょうどいいのかもしれない?

自分は架空の人間ではない。
にもかかわらず、「りんど」としてふわふわ飛んでいるくらいがちょうどいいのだろうか?
実在の人間かどうかわからなくても短歌は伝えられているわけで、それを誰が詠んだかなどはどうでもいいことなのかもしれない?

それくらいの実体の無さが隠遁するということなのかもしれないし、つまりは出家ということなのかもしれないし、自分はまだこの世の中に生きているわけで、何となく違和感がつきまとう。

そんなこんなを考えているうちに、近頃はネットからも短歌からも遠ざかる傾向にある。
ちょっと考えたいのよね・・・
写実を追及したいわけではないし、自分のように精神世界を遊覧しているような人間にとってはリアリティそのものが脳を通した虚像ということも何となく理解しているし、だったら誰かが一生懸命に何かを事実だとか虚構だとかを実証しようとしていても、生きていること自体が虚構みたいなものだもんね・・・
それでいて、生きるということは厳然として存在しており、それを感知するかどうかということがいわばレセプターの問題なんだろうし・・・
だって、桜の季節に水仙が咲いているのを見ても何も感じない人たちも存在している。
「なんかヘンだ」ということを直観で察知する。
知識として、毎年うちの水仙は桜より1ヶ月くらい先に咲いているのにということを提示すればおかしいということくらいは伝わると思う。
でも、それを見て、「うちの庭だけヘンなんだろうか?」とか、「石榴の木が生長しずぎて水仙が咲かなくなったんだろうか?」などとうろたえる自分も大袈裟なんだろうし、咲いているものを素直に観察している人のほうがまともなような気がしてしまう。
後に全国的に今年は異常気象・・つまり、季節が1ヶ月くらいずれているようだということが判明して、水仙事件は終わった。

が、しかし、問題は振り出しへ。
水仙が桜と一緒に咲いている短歌を写実として詠めばよかった?
(そういう地方の人たちにとっては何の意味もない短歌なんでしょう・・)
誰がナンと言おうと知っちゃこっちゃねーという具合にありのままを詠む。
写実は強い。
でも、概念として、桜や水仙の短歌も詠める。
だって毎年見ているわけだから・・・
桜や水仙のイメージで詠めないわけではない。

リアリティを追求しなくても、よい歌はよいような気がしてしまう。
つまりは、こころに響くという点で・・・
「だから何なのさ?」ということを積み重ねても何となく不毛な気分になってしまう。
それよりも、その場の気持ちとか感性を大事にしたほうがいいような気がする。
だから、概念歌なんだろうし、いっそのことシュルレアルな短歌まで突き進む?
シュルレアルそのものも旧い。
でも・・・
感性として、現代人がリアリティを求めていない傾向にあるとすれば、今の時代を映す鏡として、写実を求めない短歌というのがあってもいいのよね・・・

悩む。

投稿者 Blue Wind : 02:59 AM | コメント (0)