21世紀になり、突然、短歌を詠み始め、どれくらいの月日が経過したのだろう。インターネットの気楽さで、ちょっとやってみよっかな〜という軽いノリで始めたことだ。
サイトの荒らし事件が発生して以来、当時の仲間たちは消えうせ、神父さまのサイトに貼ってあったコンテンツもいつのまにか見えなくなってしまっていた。
時空短歌の主宰はとうとう謎のまま消えてしまい、わかっているのは短歌はいわばおまけのようなもので、ボランティアでクリック募金を広めるためにやっていたような気がする。インターネットに関する知識は豊富で、右クリックの使い方もわからないわたしに、あれこれ教えてくれた親切な人だったことは間違いない。
荒らし事件は、本当に深刻で、被害者はたくさんいたし、困ったことに誰がやっているのかもわかっていた。わたしはすでに忘れてしまったが、実際に警察に相談に行っていた人もいて、その人からのメールによると、犯人は大手の会社を定年退職し、一日中パソコンをやっているという。トリガーとなったのはお子さんの自殺が原因らしく、家族は皆が迷惑しているのにどうして放っておくのだろうかと批判が書かれていた。
この事件をサイバー上のことで終わらせたい主宰と、弁護士を頼むと相談している人たちとの関係がどういう具合になっていったのかはわたしにはわからないが、そのことが原因で投歌も減り、しばらくはサイトのコンテンツの作り方などを指導してもらっていたが、わたしが結社に誘われたのが気に入らなかったのか、突然サイトは消えていた。
サイトは消えてしまい、結社の水も合わず、しばらくは神父さんのサイトで詠んでいたが、ちょっと不思議なことに気づき、短歌を詠んだあとに聖書を開くというのが日課になっていった。
ちょっと不思議なこと、というのは、その頃、わたしはあまり聖書を読んだことがなく、聖書をそういう使い方をしてよいものかどうか迷ったが、詠じたあとにパッと開いて目に入ったところを読むと、何となく神さまからのメッセージのような気がしてしまうのだ。
最初のうちは、聖書のページをも写していたが、もしかすると著作権の問題があるかもしれないと思い、そのまま文章を写すことはやめている。聖書にも著作権があるのかと思うと憂鬱になるが、ためしに英語の聖書を数冊買ってみたが、まるで言葉が違うことに気づき、同じことを表現しているだけなのに、言い方、あるいは訳し方は自由なのだということを知る。
その頃から、わたしはとりあえず1万首詠もうと考えていた。あえて言うなら、それも神さまとの約束というか・・・(と勝手に思っていただけだが。)
日常を詠い、聖書を開く。
そういうことを続けているうちに、わたしは次第に自由になっていった。
受洗したいのだけど、それを妨げているいろいろなことから、自由になっていったような気がする。
今はすごく自由なのだ。仏教のお葬式にも出るし、筑波山へ行ったりもする。ただし、ロザリオを持ち、十字を切って参拝するだけのこと。変かもしれないけど、特に何も言われないのが逆に不思議だ。クリスチャンなんだけど、知人のお葬儀に参列したり、家族で神社に出かけたりする。ただし、御ミサは一人でたまに通っているだけだが・・・
社会の儀礼的なことをきちんとしていると、しみじみこの国は心の中は自由な国なのだということを学んだ。形だけしていたら、後はその人が無宗教であろうが、仏教徒であろうが、クリスチャンであろうが関係ないと思っている人たちが多い。
短歌も最初の頃には、これは短歌ではないとかいろいろ言われたような気がする。にもかかわらず、お誕生日の記念に短歌を産経新聞に掲載したら、読者の反響がすごいと担当の人から電話がかかってきた。掲載までに時間がなかったので、本当に詠み始めたばかりの頃の歌を掲載していただいた。すると、今年一番の反響と問い合わせがあり、新人賞をくれるらしい。が、しかし、正直に語れば、掲載料は自前。辞退しようかと思っている。
新人賞はほしいし、読者からの反響というのもうれしい。一人で好きに詠んでいただけに、不思議な気分だ。批判されることに慣れていて、褒められると騙されているような気分になってしまう。うちの家族は、新人賞をくれるなら騙されてもいいと思っているらしい。
神さまはこんなわたしのことをどう思うだろうか?
単なるおバカ・・・
もともと歌人でもないし、舞い上がっているわけでもない。
フランチェスコもローマへ行ったし、今回の出来事はまるで予測不能なことに端を発しているため、逆らわないほうがよいのかもしれない。
困った・・・
わたしなんかが歌人と言われて、この国は大丈夫なのだろうか。
(エレミヤ 15. 9 「彼女は・・・」)