August 25, 2012

マリア様の家

いつものように、すっきりとトルコ旅行をまとめられないのは、かなり精神的にショックを感じているのかもしれない。

トルコ人は、フレンドリーだし、親切だし、トルコという国が嫌いなわけではない。日本人としての私は、トルコが好きなのかもしれない。

でも、クリスチャンとしては、心の中にさわさわとした思いが広がり、遺跡として、あるいは博物館扱いされている教会をみると、複雑な思いに駆られてしまう。

それは一つの過ぎ去った歴史だと思っていた。この場合の、”それ”という言葉の中には、アヤソフィアも含まれてはいるが、あのように観光地化されてしまっていると、特に何かを感じるわけではない。

でも、夕方にもかかわらず、マリア様の家にシャトルを出してくれるという宿の厚意に甘えて、車に乗り込み、セルチュクからエフェスの裏のブルブル山へ向かったが、セルチュクから7キロ、エフェスの遺跡から4キロといった近距離にもかかわらず、何もない山の中をぐるぐると山頂をめざして登っているのに気がついたとき、実際には2倍の距離に感じられた。

本当に、何もないのである。ただひたすら山を登っていく。

そろそろ山頂かと思った頃、車が止まり、運転手に、「トウェルブ・フィフティ」と訛りの酷い英語で言われ、意味がわからないので、言葉が通じないと思った運転手が何度も繰り返す。

気がつけば駐車場の入口におり、そこで駐車場の料金を払わなければならないのかと思ったら、そうではなく、そこでマリア様の家の”入場料”を支払うようになっているのである。

で、次は、「サーティ・ミニッツ。」

つまり、30分だけ時間をくれるという約束。確かに狭いので、30分もあれば十分に見学できてしまう。でも、牢屋に面会に行くかのように制限時間を決められ、入口にはトルコ兵が3人。

が、8月の13日の夕方である。シスターの後ろについて家というか教会の中に入ると、神父様が入ってきて、御ミサが始まってしまった。私は、ロウソクを持ったまま、燭台を探してマリア様の前にいたのだが、ほかの人たちと一緒に床に座り、あの狭い家の中で御ミサにあずかることになった。

マリア様の祈りの後、大聖人の復唱になった頃、わたしは手に持っていて柔らかくなってしまったロウソクを持ち、出口へ向かった。

マリア様の家は、日本で言ったら、玄関と6畳くらいの大きさの部屋しかない。入口から出口までは一方通行になっており、燭台は出口の外に置かれていた。しかも、実際の土台をもとに建てられているらしいが、天井は高くされたらしい。ってことは、窒息しそうな狭さ。

外には、泉の跡地らしきものがあるが、今は水が枯れてしまっていた。

私は、聖ヨハネ教会の近くに宿をとったので、聖ヨハネ教会の前からシャトルバスに乗り込み、マリア様の家に向かったことになる。宿の近くは、静かなところで、眺めはよい。でも、入口で入場料を払い、聖ヨハネ教会の中に入ると、そこはもはや遺跡と化している。そして、聖ヨハネのお墓があるのだが、本物だろうかと思うくらい、放置されている。

聖ヨハネの家からかなり離れて、エフェスの都の裏山の山頂に、マリア様の家があるのは、かなり不自然だ。それって、今で言うところの軟禁状態に置かれていたという意味ではないだろうか。どこかに、神様の母親ということで当時の人たちが困って、ブルブル山にマリア様の家を建てたと書かれていたが、あまり歓迎されているふうには感じられなかった。

でも、山を下って行くと、綺麗なエーゲ海が見え、当時は海だったという湾まで想像すると、とても美しい光景が広がっている。軟禁状態に腹を立てるよりも、そういう窮屈さがあるほうがマリア様の家という気もして、遠くから見るエーゲ海に見とれているうちに、車の窓からはエフェスの遺跡の土産物屋が見えてきた。

コリント一 10. 28-31

投稿者 Blue Wind : August 25, 2012 03:47 AM | トラックバック
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