いろいろ考えているわけ・・・
先々週は神父さんのご都合で、いつものインドネシア人の神父さんではなく、アメリカ人の神父さん。勉強会と言っても神父さんによっていろいろやり方が違うそうで、アメリカ人の神父さんの勉強会のときには、わたしは講義を受けるようにふむふむ聞いていた。
どうして(アメリカ人なのに)プロテスタントではなくカトリックなのかという話から始まって、神父と牧師の違いや、同じ病室にいた創価学会の信者とカトリックの信者の違いの話、希望の話、などなど、わたしはさらさらと聞いていた。
牧師は私立の学校の先生のようなもので、神父は公立学校の先生みたいなものだということはわかった。プロテスタントの教会では、牧師に人気がないと信者は集まらないし、集まらないどころか、人気のある牧師を自分たちの教会に招くそう。御ミサも牧師さんによってまるで違うし、話の内容もまるで違う。私立の学校の先生というより、予備校の講師みたいなものだ。
その点、カトリックはどこでも御ミサは同じだし、神父さんによってあれこれ言うことが違う、ということもない。少なくても信徒による神父のリストラの話は聞いたことがない。
癌末期で同じ病室に入院していたおばあさんと若い女の子の場合、おばあさんは寄付をすれば病気が良くなると言われ、それを信じていたが、結局、最後にはお地蔵さんをポキッと折って怒って死んでしまった。女の子がどうなったかは知らないが、彼女は希望を持っていたから・・・と言う。つまり、復活を信じて亡くなった、という意味か・・・
希望を失って亡くなったおばあさんと、希望を持って亡くなった女の子と、希望、というのはそういう意味なのか、と、そこはわたしのテリトリーではないような気がして、生きる、ということが、死後も生きる、という矛盾のある言葉の組み合わせに、躓きもせず、さらさらと聞き流していたような気がする。
先週は、職員のお子さんが急病で、代わりに急に出勤しなければならなくなり、すっかり勉強会のことを忘れてしまっていた。(すみません・・・今週はどうなるのでしょうか)
死後も生きるということが希望なんだなぁ・・・と、なんとなく無気力なあたし。
疲れてるのかな。
だからなんなのさ、というのは、いかんなぁ。