クリスマスは楽しいんだけどねぇ・・・
復活の話になると、どうしてこうもウツウツウツウツするのだろう。
条件反射のようにウツウツウツウツしてしまう。
洗礼とか信仰宣言の前に、このウツウツをどうにかしたい。
はーーーーーーーーーーーー、くらい。
いろいろなことがぐるぐるぐるぐるまわりはじめ、こころのなかに黒い雲がたちこめて、わたしの眼底の亀裂はこれが原因でできたのではないかと思うくらい、わたしにとってはストレスなのだ。人間ドックで2年連続して眼底検査にひっかかり、精密検査の結果、わたしのブルック膜には傷があることがわかった。わかったとて、治療ができるわけでもなく、今のところ血管からも遠いし、中心からも遠いし、要するにそういうものがある、というだけ。
これが大きくなると失明か?
が、しかし、おそらくはずっと昔からあるような気もするし、これが大きくなるまでわたしが生きているような気はしない。
なんかどうでもいいような気もするし、大変なことのような気もするし、いつからあるのかわからない傷が眼の中にあり、これが悪さするかどうかもわからないが、悪化すればにっちもさっちも・・・
イースターが過ぎれば忘れてしまうし、イースターの頃になれば原因不明のウツウツが始まるし、受洗すればくっきりすっきり胸のつかえはとれるだろうけど、楽しいことばかりではなかったことをウツウツウツウツ思い出す。
----仏教徒は牛も豚も食べないでしょ?
----えっ、そうなんですか? 精進料理というくらいだから、そうなのかもしれないですね。(そんなこと知らん)
神父さんに言われて初めて昔母が日本人は四足の動物は食べなかったという話をしていたことを思い出す。
そんなのすごく昔のことのような気もするし、そうやって言われると、いまだにムスリムは豚肉を食べないし、ヒンズー教徒は牛を食べない。
そういう意味で、神父さんがカトリックになって初めて自由になった、という言葉の意味がわかる。でも、そういうのは文明開化とか戦後とか、日本ではあまり宗教とは結びついていないような気がするので、なんと答えてよいのかわからない。
わたしが正直に、「カトリックは自由ではないですよ?」と言ったら怪訝そうな顔をされてしまった。
戦後の無宗教に近い状態の中で自由に育ったわたしとしては、どこか宗教そのものに対する怯えがあるのかもしれない。
おそるべし、イスラム教。
カトリックになって自由になったとは・・・
わたし的には、洗礼を受けるということは煮えたぎる鍋に飛び込むような恐怖があり、やっぱり十字架のイエズスは痛そうだし・・・
つくばのカトリック教会のイエズス像は、等身大のイエズスが十字架で微笑んでいる。
ある意味、生々しくもあり、不自然でもあり、その傍らに小さいマリア像が置かれている。
今日は、混沌としている。
インドネシアの神父さんにとって、「信じているけど信者ではないです」という意味がわからないらしい。
そりゃそうだ。
でも、カトリックになったから豚肉を食べるようになった、というのも変じゃないか?
(ヨハネ6−7)
そうなんだよね・・・受洗したほうが罪が重くなりそうで怖いのかも。