September 12, 2008

箱みがき

ただこうしている間にも死は少しずつ近づいていることだけは確かで、自分が老いてしまってからではもはや遅すぎるという気持ちが、わたしの中にはある。

死ぬときにはクリスチャンとして死にたい。

それはそんなに大げさなことではなく、車を運転しているときに不意に思いついたこと。そうやって考えたら気持ちが明るくなり、ウキウキしている、ということをどうやって表現してよいのかわからない。

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受洗のことを姑さんに言ったら、案の定、好きにしなさい、とか、勝手にしなさい、などと言うものの、墓はともかく、仏壇をどうするのか、とか、自分が老人ホームに入るためには荷物を処分しなければならないから、それをこちらで引き取ってほしい、ということはずっと言っている。

が、しかし、あんなに元気だったら老人ホームなんてとても入れないし、仏壇は仏教徒のものだから、と言ってやった。少なくてもわたしの母なら、仏壇は処分してでも中身?だけは老人ホームへ行くときでも持っていくだろう。少なくても、わたしの母は、そういう人だった。

それがよいかどうかは別として、母がそういう人だったから、とりあえず、実家のことは弟がしているし、わたしはそういう意味では安心して?受洗できる。矛盾しているようだが、ほっとしている。そして、おそらくは母がそういう人だったから、弟も叔母もわたしがすることに何も言わない。

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そういうことがあったため、ほかの人たちがこういう場合どうしているのか神父さんに尋ねた。すると、宗教は個人のものだけど、習慣は土地のものだから、と言われた。

インドネシアでは家に立派なお墓のような塔がいくつかあるのを見たことがあるが、神父さんの話によると、インドネシアのクリスチャンの家庭では、よく見ると、それに十字架が付いているらしい。そのほか、中国では、古い由緒ある建物にマリアさまが祭ってあるらしい。

う〜ん・・・・

わたし的にはどうでもよいことのような気もしたけど、仏壇の中に十字架とマリアさまでは、どうも罰があたりそうで・・・

そういえば、母の実家には仏壇が二つあり、一つは家のもので、一つは祖母のものだったのを不意に思い出した。禅宗と日蓮宗の二つの仏壇があった。

それが素晴らしいとは思えなかったけど、子供の頃は、まずは家にあがると、最初に二つの仏壇にお参りするのが日課だったし、みんながそうしていたので、あまり深く考えたことはなかった。そして、そういえば、今でも無意識のうちに実家に戻ると最初にお仏壇にお参りする。それが当たり前になると、それをしないと何かをし忘れているようで落ち着かない。

そういうのは、習慣だから、洗礼を受けても変わらないだろう。

が、しかし、姑さんときた日には、何かあってもなくても仏壇だけは何とかしろと言うし、ダンナは犬がいるから嫌だと言って断っている。

犬がいるから、というのは少しも理由になっていないような気がするのだけど、要するに、犬がいたらめちゃくちゃにするから大切なものは預かれない、という意味。

そういうやりとりを聞いているのもバカらしくなるし、ずっしりと心が重くなる。

それってわたしの問題なのだろうか?

おそらくはお仏壇は高価なものだから、毎日姑さんが手入れしているような気がするが、箱だけ贈ってくれても意味ないじゃない?

言ってもわからないだろうから、何も言わないけど、姑さんにはもう少しがんばっていてもらおう。だって、そういう人生なのだから。

(エゼキエル 11)

投稿者 Blue Wind : September 12, 2008 02:38 AM | トラックバック
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