そんなことは、わからない。
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この前、同窓会があり、中には20年ぶりらしい友人たちと再会し、まるで月日を感じられないままに短い時間をすごし、あまりにも誰も何も年をとったこと以外はまるで変わっていないことが不思議なくらい、誰も何も変わっていないのであった。
それでも一番驚いたのは、友人のご主人が神父さんになってしまったことかも。以前から正教会に改宗したという話は聞いていたけれども、まさか会社を退職し、神学校へ3年間通い、司祭になると函館へ転勤になるからという理由で、4人の父親である彼は現在御茶ノ水のニコライ堂で働いているという・・・
彼女の場合は、親がカトリックで、結婚してからもずっとカトリックで、それが3年前にご主人だけが改宗し、戸惑っているという話は聞いていたけれども、まさか神父さんになるとは誰も想像していなかったかもしれない。そうなると、子供たちをふくめて、みんなで改宗するしかない。
「同じ神様だから、いいか、・・・と思って」
と、明るい声でそうやって言われると、仕方ないよね・・・、という共感が湧いてくる。
よいもわるいも、わたしにはわからない。
ただ、その時に思ったのは、一体わたしは何をしているのかな、ということで、それにくらべたら、受洗するとかしないとか、そういうささいなことで逡巡してきたことが、急にバカらしくなってしまったというか・・・
そんなことを、信仰の味がするいちじくのシャーベットを頬ばりながら考え、しみじみ友達っていいものだなぁ・・・と思いめぐらし、仕事をさぼって教会へ行き、それから一ヵ月後、今日から勉強会に参加することになった。勢いとなりゆきだけ。
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そして、インドネシア人の神父さんとお話していて、お祈りのあとに訊かれたのは、「どうしてここに来たの?」ということ。
最初、どうやって答えていいのかわからず、神父さんの顔を見ていたら急に可笑しくなり、「そんなことはわからない」と最初に言ったのは神父さんで、しばらくふたりで笑い転げていたような気がする。
わたしは何も訊いていない。
ただ、ムスリムのような顔をした神父さんが、これまでに何度も似たような質問をされていたことを想像すれば、おそらくはわたしの顔にも書いてあったのだろう。どうやって答えてよいのか考えているうちに、「どうしてインドネシア人のあなたがここにいるのですか?」という不意に浮かんだ疑問が、おそらくはわたしが一番答えたいことだったのかもしれない。
「そんなことはわからない」
そこで、マタイとルカの最初のほうを読み、「そんなことはわからない。神様が考えていることはわからない」ということを学んだ。
イエス・キリストの系図、聖母マリアの受胎告知・・・
神様の考えていることはわからない。
で、「信じますか?」と問われても、自分でも自分にあきれつつ、信じているからこそここにいるわけで、何を今さらつまらない質問を・・・と、さらに顔に書いてあったのかもしれない。
で、例のごとく、信仰とは・・という種の喩の話になり、わたし的には、「この喩はよくないです」。都会にいた頃にはいかに鉢を枯らさないように苦労させられたかもしれないけど、つくばの土壌は、庭にちょっと種をまいたり苗を植えただけで大変なことになってしまうし、木が育ちすぎてそれこそ苦労させられたので、逆に農家のトラブルの話を連想してしまう。木が大きくなりトラブルとなり、その木を枯らすために自分の敷地に伸びてきた隣家の木の根を切ってしまう話。喩として考えたとき、とても恐ろしい話だ。
井戸の喩はとてもよかった。自分では実際に掘ったことはないけれども、井戸の水がどうして飲めるのかを学んだ。井戸は深く掘れば綺麗な水が出る。浅いと汚い。そして、最初は汚い水しか出ない。
う〜ん・・・・
それにしても、信仰とは井戸のようなもので、宗教とは服のようなもの?
わたし的には、服を着替えるように簡単に宗教を変えてよいものかどうか迷ったけど、そうやって言われたら気が楽になる。だけど、その辺がムスリムなのかもしれない、インドネシアは・・・服が違うだけで、同じ神様だから。
深く考えるのはやめよう。
彼女の場合もそうだ。彼女自身はまるで変わっていない。
でも、改宗したのね・・・
わからん。
投稿者 Blue Wind : September 4, 2008 03:03 AM | トラックバック