September 18, 2005

寺子屋と鉛筆削り

中秋の名月。
耳をつんざくほどの虫の音。
日本の秋・・・

寺子屋、か。

塾と言うとおおげさだけど、寺子屋と言うと日本の文化という気がする。もしかすると、日本の教育の基盤は寺子屋にあるのかもしれないと。

小学校へまだ入学したばかりの頃、かなり偏屈だったわたしはどうも学校という世界に馴染めず、その理由がとてもつまらないことだったような気がする。自分ではよく覚えていないけど、ヘンなところが神経質で、鉛筆は長いものから順番に並んでいないといやだったし、教科書も自分で決めた順番でランドセルに入れないといやだったし、書写の時間でも自分が気に入るように字が書けないと次へ進まない。

このため、当然、学校の成績は悪い。

そこで、最初の頃は母が教えていたのだと思うけど、親子では喧嘩になると言うので、近所の塾へ行かされた。塾と言っても、おじいさんが1人でコツコツ教えているだけ。もともと学校の先生をしていたそう。生徒もわたしが行く時間には2人しかいない。

ガラガラ〜っとドアを開けて、「こんにちは」とお邪魔する。和室に座って待っていると、ナイフで削った鉛筆が置かれており、その鉛筆で書かれたらしいわら半紙の問題用紙が配られる。さらさらと鉛筆で書かれた問題を解くだけ。できると丸を付けてくれる。そして、終わると先生がわたしたちが使った鉛筆を手際よく削る。

わたしは問題を解くことより、その鉛筆の書き味にすっかりはまってしまった。

わたしの頃は電動鉛筆削りの出始めで、面白がって削っているとすぐに鉛筆が無くなってしまう。そのくせ、削っているうちにすぐに芯の先が折れて削れなくなり、それを取るために手が真っ黒になる。手動式のほうがまだマシ。

気のせいかもしれないけど、鉛筆削りで削った鉛筆はすぐに芯が折れる。というわけで、勉強をしているのか鉛筆を削っているのかわからない。

ところが、その塾の鉛筆は折れない。手で削っているせいか、先は決してとんがっていないのだけど、芯の部分が細くならず折れにくい。

つまらないことなんだけど、わたしはそれだけですっかり問題を解くのが面白くなってしまったようだ。それで、当時流行っていたボンドナイフでわたしも鉛筆を自分で削るようになった。勉強が終わると鉛筆を削る。鉛筆を削りたいという単純な理由だけで、わたしは勉強が好きになってしまったらしい。

投稿者 Blue Wind : September 18, 2005 11:33 PM | トラックバック
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?