January 21, 2005

femme

女が母になるというのは、弱く生まれた者がさらに弱くなるということ。弱さゆえに強くなる。

妊娠すると、妊娠中はどういうわけか風邪も引かずに丈夫になった。体温が高かったせいかもしれない。吐き気と食欲。いわゆるつわり。やたらと増進する食欲と吐き気。やたらと高い感受性。いつも子どもといる。

外の世界からは、わたしはまだ一人。
中の世界からは、いのちが倍になって、わたしにささやきかける。
いつも誰かがわたしと共にいる。

悦びと不安。交互に訪れる。

次第にお腹が重くなり、足のむくみ。歩くのもつらい。靴も履けなくなる。

6ヶ月くらいまでは、東京と土浦を往復し、買い物するくらいどうということはなかった。急な転勤で、わたしが引越しの準備と後始末。土浦の不動産屋へ行き、その日に契約してきた。

逆に、動いていないとお産が重くなるのではないかと思って、不安だった。だから、ひたすら動いていた。歩いていた。お腹の中を子どもが蹴飛ばす。

毎日毎日床の掃除・・・
ベビー用品を買いに行く。

ある日、電車に乗ってデパートへ行った。とても大きなピーターラビットのぬいぐるみが売っていた。衝動買い。大きなお腹を抱え、電車に乗り、大きなぬいぐるみを抱えて帰ってきた。
出血。

子どもは順調に育ち、わたしは髪が抜け、歯が弱くなった。派手な妊娠線。西瓜のようなお腹。

子どもを愛すれば愛するほど、不安は増した。無事に生まれてくるだろうか・・・わたしに子どもを育てられるのだろうか・・・あまりにも悲しくて、歩きながら泣いていた。

娘が生まれて、数時間後からわたしは再び歩いていた。母乳というのはすぐに出るものではなく、死にそうに苦しんだ後に、お腹の中にまだ子どもがいるような不思議な気分が押し寄せ、あちらはわたしの声を知っており、わたしはまだ娘の声を知らないという不思議な関係の母子を、つまり、わたしのお腹にまだわが子がいるような気がしているのに、いないのだと気づき、その喪失感を埋めるように悦びが押し寄せ、気がつけばわたしがこの世にはいないかのような不思議な気持ちの中で子どもがわたしの腕の中にいる。そして、乳首を思いっきり抓られたような痛み・・・お産の痛みより、痛い。

つまらないことを書くようだけど・・・
わたし、母になってから、ビキニが着られるようになった。妊娠線、格好悪いなって思いながらも、へいちゃらになった。合理的だから・・・トイレに行く時など。赤ちゃん連れて海遊び。

どこまでも弱くて醜い自分を終結してしまうと、あっけらかん。そういう意味で、母は強いと言われてしまうのだろうか?

子どもは、見事にわたしを破壊してくれた。わたしという人間のエゴも醜さも。どこまでも醜悪さの中で、わたしはうれしかった。

夥しいほどの出血。1ヶ月くらい出血が止まらない。それでもわたしは生きていた。そうやって肉体的には弱いのに、さらに弱い者を育てる。わたしがいなければ死んでしまう子と二人。

娘が8ヶ月くらいになり、この世の食べ物に適応し出すと、わたしもいつものわたしに戻っていった。彼女はわたしであり、わたしの中におり、それでいてわたしとは違ういのちを持ち、それでいてわたしの肉体が彼女の中に取り込まれていった。そして、それが終了すると、わたしたちは、わたしと娘になった。

投稿者 Blue Wind : January 21, 2005 10:52 PM | トラックバック
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