February 22, 2004

退廃的気分

もう、同じものを見ても、人によって感じ方がまるで違う。何かというと権力闘争社会で、世のため人のためではないけれども、そうやって何かに利用されている親を持つとどうしても屈折してしまう。自分などはまだそれほどでもないけれども、義父が亡くなった時、義姉が、「お父さんなんて、偉い、偉いって何よ。抱っこ一つしてくれなかった」と言って、40歳すぎたおばさんが本気で泣いていたのが忘れられません。他人の葬式で名刺交換している人たちなどを見ると、うつうつうつうつうつうつうつしてしまう。そうなると、子どもすらほしくなくなるし、自分の好きなことをして生きていこうと思うのはナチュラルな気がするのです。もっと気ままになんと言うか・・・自由に。
それでいて、世の中で虐げられている子どもや弱い人たちからすると、それこそ旧約聖書の世界です。ジーザスの磔刑。とても厳しい。そうやって共に受難を乗り越える。そして、権力を倒すためにまた別の権力が必要になる。もう、うんざり。つまりは、権力の2重螺旋構造であり、これがまたさらなる闇路へ。だから、狂信的な人や集団を生んでしまうような気もするし、オウムなどは選挙に失敗したら、サリンです。どうにもならない。(と思う)
ここまで屈折しているから、ジーザスが十字架を背負っている姿がとても怖くなるのかも。つまりは、ここまで屈折していても、自分にはそれなりに大切な人たちがたくさんいて、自分はとても弱いです。働いたこともないし、甘やかされて育っている。でも、自分に何かあれば大変なことになる、ということは何となく知っていました。だから、世の中との関わりを避け、隔離というわけではないでしょうけど、なるべく知らない人たちとの関わりを最小限にしようと躾けられます。でも、そのかわり、自分の大切な人たちが十字架を背負っていたとしたら、すごく悲しくなります。「あなたが十字架を背負うような値打ちのある人たちが世の中にはどれほどいるの?」と尋ねたくなる。この退廃的な気分。
だから、アシジへ行かなければならないのかもしれません。

投稿者 Blue Wind : February 22, 2004 02:33 AM
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