February 19, 2004

恐怖

まずは、ジーザスは生きていた。生きている。
誰でも生きている。そして死ぬ。
でも、ジーザスは生きていた。そして、生きている。
つまりは、死を前提とした生き方として考えると、あまりにも合理的なんです。
でも、生きることを前提とした生き方だとすると、あまりにも過酷なんです。

神さまが遠くにいると、神さまは神さまだと思ってしまう。でも、「愛あるところに神おわします」。つまりは、自分が愛する人すべて、自分を愛してくれる人すべて、の中に神さまはいる。大切な人が、もしも自分のために受難の道を選んだとしたら、死にそうになる。それはごくありふれたことかもしれない。たとえば、父。たとえば、夫。そして、今まで出会った愛する人たち。つまりは、こころのつながりがある。

だから、ジーザスがとても近くに感じてしまうと、とても怖い。死に対する恐怖ではなく、壮絶な愛に対する恐怖です。言葉がかけられるなら、もっと自分を大切にして、と言いたくなる。もしも、それが自分のためだとしたら、巨大な愛の恐怖に怯えなければならない。

それでいて、ほっぷすてっぷじゃんぷ。

あるキャパを超えると強烈な怒りが発生してしまう。怖いからなのかも。パッションの予告を見たときに、ものすごく怖かったんです。「われらの罪」に対しての怒りではなく、壮絶な愛に対する過酷な恐怖。

いつも2つのベクトルがあって、その2つがあまりにも違いすぎるためにどうやっても言葉が使えない。「受容」するには、神の愛はあまりにも巨大すぎて、怖い。フランチェスコに会いたい。

投稿者 Blue Wind : February 19, 2004 07:05 PM
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