November 24, 2003

ひとつ

ケニー・Gのサックスを聴きながら、昨日、一昨日詠んだ歌をアップしようかと思いながらもかったるくなっていってしまっている。
詠むことは簡単なのだけれど、毎日毎日陽炎のように歌を詠み続けるだけで、それは儚く消えていってしまう波の泡を眺めているような気分に陥る。

もうすでに自分のサイトというものは、自分ひとりだけのものであり、そこに誰が来ようがどうしようが何も気にすることもなくなってしまった。
むしろ、誰も来ないほうがさっぱりしているのではないかと思うほどだ。
たまに、そういう趣旨のサイトなどを見かけたりするけれども、そういうサイトは寸暇を惜しんで絵を描いていたり、駄文を書いていたり、自分のための勉強をしていたりするためにサイトが存在する。
BBSなどもあるけれども、もしかするとそれすらかったるいと思っているのではないかという気さえする。
それはそれで、こちらもまったく同じ気分であり、どうしてローカルへ置いておかないのかと尋ねられれば、それはやはりCGIが便利なのと、ある程度の来訪者がいないと自分でも何かが続かないと思うからかもしれない。

このところ本屋へ行き、おそろしいほどの本やCDを買い込んでいる。
このため、夕飯の買い物が遅くなると、「また短歌の本を買ってきたの?」と先に訊かれる始末。
実際その通りなんだけど、今日は推理小説を1冊とCDを3枚。
そのうちの1枚がケニー・G。
本当は違うCDを探していたのだけれど、旧いものになると置いていないことが多いために、わざわざ注文しようか、それともネットで買おうか迷う。
迷うということは、実はそれほどほしいと思っているわけではないのだろうし、そのうち不意に見つかることもあるかもしれない。
気分屋というのは概してそういうもので、その時々の気分を大切にするから、一生懸命に買ったとしてもすでに封すら開けていないCDも多い。
自分でも一体何をしているのだろうと思うのだけれど、それこそ不意に忘れた頃に聴いてみると、そこから何か違った世界も拓けることもあるから、頭の隅にちょこんとおぼろげな記憶として存在していればよい。

サックスの音色は実に甘い。
こういう甘さが快適になるほど、もしかすると自分は何かに堰かされているのかもしれない。

何に堰かされているのかよくわからないけれども、山積みにしてある未読本かもしれないし、短歌のことかもしれないし、少し余裕をもって何かをしたらいいのにとは思うのだけれど、元来がこういう性質だから仕方がない。
やるなら自分が納得するところまでやりたいと思ってしまう。

遊びで始めた短歌だけれど、きっかけがあまりにも真実のない遊びであり、その真実のなさにいささかうんざりしてしまった。
真実がないからこそ詠めるという人たちの多さにも驚くけれども、文字は情報として残る。
それならばそれで情報伝達というのは、そういうものだからかまわないような気がしてしまうけれども、なにやら墓場の中に立ち並ぶ同じような文字を眺めているようで、それはそれで生きた証が存在していない。
もしかするといくばくかの真実も存在していたのかもしれないけれど、その真実というのが酷く歪んだものであり、屈折したものであり、そういうものにもいささか疲れてしまった。

詩というのは、遊びのない世界。
ひとひらの言葉の中にその人が詰まっているせいかもしれない。
こういうものに翻弄されると、あまりにも精神が疲れ果ててしまう。

投稿者 Blue Wind : November 24, 2003 02:00 AM
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