Rin's Diary
August, 2003
(No.2)

 

がんばれ、つらゆき!

at 2003 08/20 18:58

『やまとうたは
人のこころをたねとして
よろづのことのはとなれりける

世の中にある人
ことわざしげきものなれば
心におもふことを
見るものきくものにつけて
いひいだせるなり

花になくうぐひす
水にすむかはづのこゑをきけば
いきとしいけるもの
いづれかうたをよまざりける

ちからもいれずして
あめつちをうごかし
めに見えぬおに神をも
あはれとおもはせ
をとこをむなのなかをも
やはらげ
たけきもののふの心をも
なぐさむるは
うたなり』

(古今和歌集: 紀貫之)


__________(以下、古今を読んでいるうちにぼやきに変わってしまった・・・・)


なるほど・・

何も語れない。
がんばれ紀貫之!
というか・・・
単なるいろうたにしてしまうのもその人となりだよね。
ふむふむ。。。
要するに、自分がぐちぐちと言いたいことが素直に書いてあるために余計な注釈が要らない。
ほんとにそーなのよ・・とだけ言いたい。

まことの歌を知る人の少ないという嘆きとぼやき。
まあ流行歌というのもあるわけで、誰かが姉ちゃんをナンパしようと思ってせっせとあれにこれにと苦労するのは世の習いかもしれないので、ソレに対してはどうでもよいのでありますが、なんかひと言言いたくなってしまうという・・・

神の時代の歌は素直だったというぼやき・・・
そーなんだよね・・
最初の歌は、きちんと定型だったわけじゃなく素直だもの。

漢詩の影響をぼやいているのかもしれないし、だからこそやまとうたなのかもしれないし、アメリカに何も言えないように、大昔には中国に何も言えなかったということがよお〜っくわかります。

諦めるか・・・
大昔から固有名詞が変わっただけで、やってることは一緒だもの、この国は。
そのうち戦国時代があって、かったるいから鎖国してみたり・・・
かと思えば、いきなり戦争へ突入してみたり?
なんかね・・
考えてることが同じだから、やることが同じなわけで、何かを意思決定する際の基準というか、発想の物差しというか、世に問うてコンセの得られる着想やメンタリティが決まっているわけだから、何も変わらない。
それなりに変わっているのかもしれないけれど、なんか昔から同じことを考えて同じことをやってしまうというのは遺伝子の仕業なのかもしれないし、成長しないね・・・
親が親だから子が子なのかもしれないし、そういう意味では諦めたほうがいいかもしれない。

古今和歌集の仮名序というか、冒頭から少し読み始めただけだけど、素直にそーだそーだと共鳴共感してしまうというのは情けないというか、説得力があるというか、なんで彼がやまとことばを使いたがったのかも何となくわかるようなわからないような・・・
女言葉だからさ・・・やまとことばというのは。
言いまおしきを言えるんだろう・・・

言いたいことを言いたいなら、子どもか女になれってか?
ヤレヤレ・・・
そういうことではないんだろうけど、そういうことなのかもしれない。

というわけで、勉強中なので、忙しい。

 

 

互いに離れるための会話

at 2003 08/19 06:50

娘との会話が増えるということは、次第に親離れが始まっているということなんだろうな・・・
それこそ赤ちゃんの頃は、母子一体感というか、彼女が泣くのと同時かその直前くらいに目が覚める。
一度、姑さんに預けて一人で買い物に出たことがあるけれど、途中で母乳パッドを2枚重ねていたのにセーターがぐしょぐしょ。
つまりは、彼女の空腹の時間なんだろうし、親を求めて泣いているのだろうし、そういうことを考えるとさらにびしょびしょ。
いろいろ言われて、冷凍庫の中にも残った母乳を保存しておいたけど、結局、使ったことはない。
言葉がなくても彼女の要求はシンプルだし、抱っこかミルクしかないわけで、その2つが満ちていれば、特に子育てで苦労したという記憶はない。
大変は大変なんだよ?
だけど、何と言ったらいいのかわからないけれど、言葉が必要ないからわかりやすい。

何となく言葉の遅い子だと心配したけれど、どーなんだろう・・・
今は普通のような気がするし、舌足らずみたいなところは遺伝かもしれないし、ダンナのことを考えればおちびのほうがよくしゃべる気がするけど。
基準というのが難しいよね。

このところ、さかんにいろんなことを訊いてくる。
中にはとても難しい問いがあったりするけれど、なるべく真面目に答えるようにしている。
この前まで、「お母さんの宝物は何?」という質問だけで満足していたのに、今はその理由を問われる。

そこで親のほうがどうやって答えたらよいのか迷う。
とても難しい問いだし、答えは一つではない。
どうして娘が自分の宝なのか、自分でもあまり深く考えたこともないし、理由も書けばいくらでも書けるような気がするし・・・

理由は、「自分が生きた証だから宝物なのかもしれない」とだけ答えた。
つまり、自分が存在しなければ娘は存在しないわけで、娘がいるということが自分がこの世に生きた証だ。
その答えが小学生にとってどのような意味を持つのかわからないけれど、おそらくは本能のように理解しているような気がする。

逆に語れば、そういうことを問うということ自体が、わずかながらも自分から乖離した人間として娘が存在しつつあるということの証であり、言葉が必要なのは一体感の喪失というか、世界と自分とが乖離するようになるにつれて当たり前なのかもしれないと思う。
知らない人とはよく話すけど、互いに親しくなってくるとあまり話さなくなる。
話すんだけど、どう言ったらいいんだろう・・・
あまり自分を説明する必要がなくなるということなのかもしれない。

議論が活発になるのは、意見が違うからであって、同じ意見だったら議論にはならないような・・・
自分のように屁理屈ばかりで、他人に迎合することの嫌いな人間でさえそうなんだから、世の中の人たちはどうしているんだろう・・・
何か言いたいことはあるはずなんだけど、何も言わない人が多い。

どうして何も言わないかというと、利害関係なのかもしれないし、摩擦を避けるためかもしれないし、ネットでさえ、会社のことを書いたら上司に見られて削除しろと言われたらしい。
それが世の中だよね・・・
だから匿名でしか書けないのかもしれないし、いちいち自分の書いたものにいちゃもんをつけられたらめんどーだもの。
それなら知らん顔しているほうがマシに決まっている。

まあ、それが世の中なのでしょう・・・
これを言ったらやばいとかね・・・
なぜかというと怒るから。
本当のことを言うと怒る人が多いという・・・
少なくても、それが正しいかどうかは別として、自分の意見として発信するだけで怒る人がいる。
何を考えて生きているんだろう?
他人が自分と意見が違うと気分が悪いわけ?

よくわからないけれど、そういう人が世の中で一番退屈な人間のような気がすることがある。
きっと、その人たちは言いたいことを我慢し、なるべく常識を重んじ、誰かの権威に頼ることにより、自分をガードしているのだろう。
だから、ちょっと言うと怒り出す。
頭が悪いのかもしれない。

おっと、話が逸れた。
結局、寡黙というのにも2通りあるような・・・
一つには黙っていても通じるから寡黙な関係もあれば、何か言ったら大変なことになるから互いに寡黙になるという関係もある。
状況は似ているけれど、関係性がまったく違うから、行動や現象だけを並べても無意味なのだわ。

学校だと、「子どもたちと会話してください」とオフレが回る。

ストレスがたまりそう・・・

どうして会話が必要なのか、どうして会話が欠如するのか、という理由を理解しているのだろうか?と逆に訊きたいけど、教師のかごと渦にもうんざりなので知らん顔しているに限る。

親離れが進めば、自然と会話が多くなる。
子離れが進まないと会話にならん。
互いに離れるために会話が必要なんだろうし、会話がないから互いに関係性の変容を理解できなくなるのかもしれない。
そういうことを理屈で考えるから、自分としてはストレスになる。

こーさ・・・
自分的には平穏なのよ。
流れというか、ちょっとした違いから娘を観察している。
会話が多くなるということは、互いに離れるということでもあり、理解し合うということかもしれない。

が、しかし・・・
会話が少ないということでも2種類あるんですよね。
まったく異質な関係ですから、精神の変容というものを理解していない人たちには区別が困難かもしれません。
で、それを誰かに説明しなくてはならないというのはかなりストレスがたまるはず。

会話がないのがストレスなのではなく、認めたくない何かを認めざるを得なくなるからストレスなのかもしれないわ。

 

 

結局、首に鈴・・・

at 2003 08/18 02:01

----じいさんが詩人だったんだよ

----へーーーー

ライバル、ライバル・・・というわけではないんだけど、人間にはそれぞれに生活というものがありまして、それなりにおちびが夏休みに突入すると短歌どころではない?

というわけで、すっかり忘れていたんだけど、歌葉の新人賞の中間発表があった。
落選してたみたいだけど、なんかね・・・何も感じないのはなんでなんだろう?
あまり行きたくもない学校に合格してしまったらどうしようかという熱意のない合格発表を眺めている自分を思い出した。
そういうところは、きちんと落ちているのが悲しい想い出かもしれない。

クラシックかロックか?
というと大袈裟かもしれないけれど、歌葉の中間選考の作品のタイトルを眺めただけで自分とは世界が違う。
それでも何でも経験というか・・・
コーラグミを食べる程度の刺激にはなったような気がする。

それでね・・・
なんか吹っ切ったように、今日は短歌や詩集を仕入れに本屋へ出かけた。
何気なく手に取った本。
宗左近さんの詩集・・・

初めてなのに、何となく懐かしいという雰囲気。
ネットで検索したら、三好晃さんとペアだった詩人ということがわかった。
三好さんのほうはよく覚えているんだけど、宗さん・・・
そりゃ懐かしいはずだ。
気が付かないうちに、自分の中に何かが残っていたとしか思えないくらい、自分の世界を感じた。
自分が無意識のうちに与えられていた何かを発見したような・・・
すべてが繋がったような・・・

宗さん、三好さん、・・・神さまか。

記憶にはないのよ?
なのにいつの間にかインプリントされてしまっていたのだろうか?
どうやっても自分という人間は首に鈴を付けられた猫のような気がする・・・

というわけで、猛勉強かもしれない。
何を勉強したらいいのかわからない。
でも、うまく説明できないけれど、それは懐かしさや偶然という中で積み重ねられていってしまっている。

にしてもね・・・
じいさんが詩人・・・
詩人は金にはならないよね。
宗さんみたいに東大出て詩人になったとしても同じような気がするけれど、要するにタダで出版してもらえるからという甘い根性がダメなような・・・
そーいうのってまるわかりだろうし・・・(特に隠そうとも思ってないけど)

いのちの灯火として詩を書いている人とは違う。
文学というのはご奉仕の世界なのかもしれないと不意に思う。

聖と俗か。

 

 

あっちふらふら、こっちふらふら

at 2003 08/17 03:55

そういえば、ライバルっていないな・・・
短歌でもライバルというか、よい刺激が与えられるようなかかわりがあるといいんだけど、今のところそういうレベルにまで達しているとは思えない。
自分にそこまでのこだわりがあるかどうかもわからないけど。

勝ちたいという意識はないのよね・・・あらゆることに。
人生、上を見ればキリがないし、下を見てもクラクラと眩暈がする程度で、マイペースというのは気楽だ。

ネットにしてもね・・・
仮にパソコンがあったとしても、使わんのよ・・みんな。
それが普通だと思う。
どこかのサイトで、2年前に夫婦でおそろいでマックを買って、そのまま奥さんの分は埃を被ってしまい、今度はネットもやりたいからウィンのノートをねだられたという記述があった。
・・・・・・・結局、ウィンも同じ運命をたどっているらしいけど。
機械の好きな人たちにとっては新しいパソがほしいと思っても旧いやつでもまだまだ使えるからそんなにポンポンとは買わないだろうし・・・
それに比べると世の中のヒマジンは、次々と新しいものに期待しながらも裏切られ、それが自分のせいだとはま〜ったく思っていないという・・・
ふん、それが普通よ。

メモリが足りないなら増やせばいいとは思ったけれど、結局、おちびのおもちゃになってしまっている以前の機種。
まだまだ新しいということは隠しておきたい。
自分的には、画面が綺麗なほうを使いたいもの。

要するに、ワガママなんじゃない?
が、しかし・・・
あたしのマックはすでにダンナに職場に持っていかれてしまった。
無料で寄付したようなものだけど、まだ生きているらしい。
マックなんて使わないし・・・
せいぜいおちびが幼稚園の頃にゲームをして遊んでいた程度だわ。
当時は、自分がネットをするとか、パソコンで遊ぶなんて想像もしていなかったけど。
理由は簡単。
不経済だし、あたしは気が短いのよ。
起動して使えるまでのイライラするような時間にも耐えられなかったし、書斎に置いてあったからというのが大きな理由かもしれない。
主婦が書斎に閉じこもっていたら、仕事にならんでしょうに。

ファミコンでもするようにパソコンで遊んでいるようなものなのかも。
少なくてもうちのダンナから見たら、あたしのパソコンなんてゲームボーイみたいなものらしい。
ちびとダンナがゲームボーイをしていて、あたしがネットをしているというだけの違いなんだろうな・・感覚的に。
いい年こいたおっさんが子どもと一緒にゲームボーイしてるって?
あら!
うちだけじゃないのよね。
どこの家も案外取り合いになるから、ゲームボーイは2台あるという噂がある。
一体誰と取り合っているんだか・・・

渋谷や新宿でドラクエを買うために苦労した記憶がある自分としては、違和感はないよね・・・
今は、仕事が忙しいからゲームなんてのんびりやっていられないけど、食事の仕度が終わるまでちょこっとゲームボーイして遊んでいるくらいがちょうどいいのかも。
大体、なんでおちびよりポケモンの名前を知っているのか不思議だ・・・
ポケモンしりとりはダンナが勝つ。
つまらんことに勝ってどーするんだろう・・・

ほんじゃ、おちびが父さんにライバル意識を燃やしてゲームボーイに熱中するかって?
ぜんぜん・・・
彼女は、お下がりのパソコンでお絵かきをして遊んでいる。
あたしなんて未だにお絵かきソフトの使い方を理解していないというのに、使いこなしているだけすごいと思ってしまう。
あっという間に描き上げて、自分でファイル名をつけて保存している。
最初の一枚はあたしがおちびの名前をつけて保存したんだけど、今はどーしているんだろう・・
すでに、自分の手を離れてしまったのでよくわからないけど、ひまわりならひまわりってローマ字でファイル名を書いているんだろうな・・・
思考に柔軟性があるってすごい。
一発で般化して覚えこんでしまっている。
ある意味、自分よりパソコンを使いこなしているような気がするわ。

そのうちきっちり分けたほうがいいかもしれないな・・・
何を分けようとしているかというと、ガイアは日記サイトなんだろうな・・・(今さら・・)
日常ネタを書くなら、こっちの無責任さが面白い。
単に気分の問題なのかもしれないし、習慣の違いなのかもしれない。

それとは別に、今度はきっちり整理して別サイトをつくろうと思っている。
サイトをつくる面白さと、単に書きたいことを書きなぐるという気楽さはベクトルが違う。
来訪者を意識しているか、していないかの違いなのかもしれないな・・・

きっちり整理して何かをつくるということと、単にテーマもなく書きなぐるということはまったく別物だもの。
というか、管理人の姿の見えないサイトが多い中に管理人の姿というか、日記を読むとその人の日常生活がわかるでしょ?
そーなると、そっちのほうに興味が惹かれる人が多いのは当然のような気がするし・・・
それが日記サイトの原点なのかもしれない。
最初から他人の好奇心の餌食から始まる日記サイトか。
次には、何となく会話したくなったり?
世間話の世界だから、そんなものなのかもしれない。

世間話をするように書いているんだな・・・おそらくは・・・
が、しかし・・・
作品を陳列しておいても、好きな人は眺めてくれるようだし、だったら分けたほうが親切な気がする。
が、しかし・・・
ライバルがいない・・・
あえて必要だとは思えないけど、そーいう意味ではあちこち覗いて歩くのも面白いかもしれない。

 

 

需要と供給の微妙な食い違い

at 2003 08/16 01:53

ガイアックスが復活しても、気分までは変わらないなぁ・・・
なんか・・・こう・・・・何かが飽和してしまっている。
精神が飽和しているのかもしれないし、インスパイアされるものが近頃まったく無いからかもしれない。

コーラ・グミのほうがよっぽど刺激的だわ・・・
それにしても、なんでこんなに酸っぱいのかしら・・・うぅ・・・・
なんか食べ終わった後までもしつこく酸っぱい。
近頃の子どものスナックって過激な代物が多いわ。
さすが病的な時代だと思ってしまう。

目からウロコというのかしら・・・
せっせと実名入りサイトをつくっている。
なんかね・・・
だから何なのさ・・という感覚しかない。

結局、最初が悪かったのよね。
AOLだもの。
同じAOLなら、AOL CDのほうがいいわ。
Art of Living の略。
カフェ・ミュージックというのかしら・・・

たしかに人生ドラマみたいな世界だったもの。
ワイド・ショーを観ているようなものだったのかもしれないし、今はもうノーマル・モードに戻っているから、不幸の海を泳ぐ気分でもない。

自分が幸せなら今度は不幸な人たちのお手伝いをする?
が、しかし・・・
あまりにも精神がボロボロになってしまいそうで、今の自分を壊したくない。

ほんのちょっとしたことで、幸せになったり不幸になったり・・・
それでいて、何かひと言でも言おうものなら大変。
感情の嵐に巻き込まれてしまう。
そんな人たちからは遠ざかりたいというのは、いわば本能なのかもしれないと素直に思ったほどだ。

これは、偏見なのかもしれない。
が、しかし・・・
SARSが発生したおかげで、国内の景気が少し回復しているらしい。
今までだったら海外のほうが安いから海外へと思っていても、SARSに感染したらイヤだから国内旅行が増えた。
が、しかし・・・
怖いのはSARSだけじゃないだろう・・と素直に思っている自分としては、国内が決して安全地帯ではないことも知っている。
気のせいかもしれないけれど、いつ地雷を踏んでもおかしくないような生活をしていると、カンボジアに地雷が埋まっているから行きたくないというのが酷く滑稽に見えたりもする。

が、しかし・・・
男ってバカなんだね。
無料のTV電話のサイトがあるというので見てみた。
試しに音楽欄をクリックしてみる。
オフラインというが何を意味しているのかよくわからなかったけど、要するに、知らない人とも話せるからというので加入しているのね・・・
中にはあっさり、「女の子と話したい」と書いてあったり・・・
ヤレヤレ・・・

どーなんだろう・・・
自分などの感性からすれば、男の人がダ〜ッと並んでいるところには近寄りたくない。
むさくるしそうだし・・・
普通の人は逃げ出すと思う。
せいぜいそんなところへ行きたがるのは・・という世界だから・・・ガラが悪くなるんだろうな。

それにしてもね・・・
やっぱりそーいうことなんだ。

女子校、女子大・・・
女しかいない。
でも、大抵は彼氏くらいはいる。

結婚すると、大抵はママ友と群れている。
結婚しているから亭主がいる。

で・・・
あぶれると、売れ残りなんだろうか?
売れ残ったら、TV電話やネット?
それを言うとめちゃくちゃ怒り出す。
プライドがあるから、そんなところへは行かないだろう。
半ば人生を捨てるとか、自分を捨てるくらいじゃないとね・・・

お見合いの成功率が意外と高い理由がTV電話にあったりして・・・うふふ。
たしかに色気もないような人より風俗の人のほうが魅力があるんだろう。
かといって、風俗はあくまでも風俗だから、生きるに必要な人たちでもなかったりする。

イラク戦争は、スポーツ中継とポルノ雑誌とが差し入れされて、兵士たちが携帯しているのは恋愛小説・・・
なんかね・・・
吹き出したいのを我慢してまでネットはやれない。

 

 

ストレスのないタイプかも・・

at 2003 08/15

こー言っちゃなんだけど、中学生や高校生じゃあるまいし、大の大人が匿名のサイトなどをつくっているとしたら笑ってしまうんじゃないかしら?
いい年こいて一体何をしているんだろう?とか・・・
それが世間の反応なんだと思うの。
それこそお仕事サイトとか、何か目的があってサイトをつくっているのであればわかりやすいんだけど、無目的に何かをするという習慣は彼らには存在していない気がする自分としては、なんでそんなサイトをつくっているのか説明を求めてしまう悪い習慣があるかもしれない。
つまり・・・
「なんでアンタがこんなところにいるのさ?」というか。
大抵は、あるから使ってみたという人が多い。
集客数が多いとか、コミュニケーションがないとつまらないとか、もっともらしい理由もある。
自分の場合は、タグの一つも知らなかったからというもっともポピュラーな理由で、インスタントサイトを使っていた。
それとは別に、ネット全般に、対面形式(リアルと言うの?)では異性と話せない、異性として扱われない、とか、そういう人たちでもネットなら気軽に会話が出来るとかね・・・その手のノリの人たちも多いような気がする。
だから、これだけ槍玉に挙げられ、犯罪の温床とまで言われながら、出会い系のサイトの人気のあることったら驚いてしまう。

----いろんな人の本音がわかったよ

----はあ?

自分としては、本音というか、情けなさというか、哀れだと思ってしまうだけなんだけど、つまりは情けない姿を晒せないからネットでおばかをしているのかもしれないし、世の中にそんなに立派な人間があまた存在するとは思ってはいない自分だけれど、そうやって他人の姿を観察することにより、自分もまた情けないと思われてしまっても仕方がないような・・・
弁解するわけではないけれど、あたしは普通の主婦だからいいのよ。
実名で堂々と何かをパブリッシュするほど勢いのあるテーマなんて何も無いから。
おこがましいとすら思ってしまう。
まあ、ショートショートにしても実際に更新しているのは院生さんか誰かなんだろうな。
一人で更新するのは大変だもの。
自分はヒマだけど、文献を探して同じことをやるほどの気力は残っていない。
ついで・・というのであれば別かもしれないけれど、ヒマそうでいて忙しいから、サイトのことばかりやっていられないよね・・世の中の人たちは。

となると、素直に考えて短歌のサイトをつくるしかないかもしれない。
つまりは、どうしてもサイトをつくりたいのであれば・・・
ついでにサーバも移転して、サバサバとサイトをつくる。
自分のつくりたいようにつくる。

肩の荷を一つ降ろしてやすらけき人のこころの重さを感ず

今、まさにそういう気分。
自分が死んでしまわないように、サバサバと悲しみや怒りを素直に表現できる人間でありたいと思う。
女性は感情的だと言われるけれど、これは実際には公の自分というものに対する責任が少ないからのような気がする。
そういう気ままさが自分のよさのような気がするんだけど、大人気ないだろうか・・・
ネットだからじゃないのでございます・・・
ダンナにあたしみたいな人間は病気にはならんとまで宣言されてしまっている・・・
つまりは発癌しても、おそらくは癌細胞すら成長しないタイプの人間だと。
ストレスが無いらしいし・・・あたしは。

逃げ上手と呼んで。

 

 

中途半端な独り言

at 2003 08/14

早くガイアックスが復活しないかな。
どうしてBBSも無いのにガイアックスなのか?
それは、”基準”なんですよ。

今日は、『wwwベスト・ホームページ』(日経BP社)などに目を通しながら、よいホームページってどんなものなのかしら?と考えていたのであります。実際問題、あまり検索などをしたこともないし、何が面白いのかわからなかったりするし、おのれを知っているために飽きっぽいし、マニュアルは苦手だし、他人のことは考えないし、そのくせあれこれ言われたりするとすぐに反応してしまうという軽さがあるためにサイトが巨大化しても実は役に立ちそうな内容もないようなつまらんサイトを構築してしまっている。
自分でもわかっているのよね。
サイトなんてものは自己満足の世界だし、要するに自分が楽しかったらよいという・・・

それとは別に、「視覚、視知覚、認知、心理学」などで検索をしてみたり・・・
ジャンキーネタが飽和したから、今度は少しマシなラインでサイトをつくろうかと思ったんだけど、研究サイトって学会情報とかごく簡単なマニュアルとか論文のタイトルが並んでいるだけとか、酷く退屈なサイトが多い。
『心理学ショートショート』がどうして人気があるのかわかるよね。
何となく役に立ちそうな気がするもの。

インターネット心理学というのもあるの?
おおお・・・・という感じだけど、特に目新しい内容があるわけでもなく、単にネットだと公的な自己より私的な自己が出やすいとかその程度でしょ?
つまりひらったく語れば、ネットだと相手の背景文脈などわからないじゃないですか・・・それこそ男か女か、年齢とか社会的ステータスとか、そんなことは一切わからないし、日常生活での差別や偏見が見えにくい分だけコミュニケーションがスムーズとかね。パソコンに一人で向かっていると、個人の内面感情や性格などが出やすいから、対面形式よりカウンセリングには有効であるとか・・・
そのくせ、アラシが発生したり、年中すったもんだしたり・・・
メールやBBSなどは速攻で相手に届いてしまうから、冷却期間が無いために手紙などよりきつい文面になりやすいとか・・・
ネットの良い面や悪い面がそれっぽく書いてあるにすぎない。

ガイアックスだと、とりあえず小学生からお年寄りまでターゲットが広い。
誰が読んでもわかるように書くとか、自分に求められているものがわかりやすい。
例えば、母親としての自分が何をどのように考えているのか?とか、今の小学生がどんな感じなのか?とか、それこそ何が流行っていた何をしているのか?とか、どんな意見を持っているのか?など、そういう具体的なことが情報であるということが見えやすい。

専門的な知識などは、それこそ専門書がいくらでも売られているし、ニュースが知りたければ新聞を読めばいい。
にもかかわらず、blogとかね・・・個人で情報を発信することが出来るのがネットの良さなんだろう。
そうなると玉石混合だけど、メディアの形が変わりつつあることくらいは何となく自分でもわかる。

テロや戦争について、小学生が意見を述べてもいいわけですよ。
普通の主婦が意見を述べてもよろしいわけです。
いわばそういう潜在的な世論というほうがとりわけ見えないダイナミズムとしてパワーがあるような気がすることもあるし、それこそ時代の雰囲気というのかなぁ・・・新聞やテレビなどで操作された情報などとは違って生の声というのは説得力があるよね。(たぶん)

サイバー上の出来事一つ取っても、それぞれに受け取り方が違う。

発症しちゃっているおじいさんがいるとして、一日中パソコンの前に座って、嫌がらせや誹謗・中傷を書き、しかも感情のコントロールがつかないし、ちょっとでも否定するとそれこそ一日中でもウダウダと癇癪が始まってしまうとか、にっちもさっちもいかない場合、家族はすでに相手にしないで幽閉しているとしよう。これ以上ご近所で何かやらかしたら村八分だからね・・精神科でも預かってくれないし、世間体が悪い。
そういう人から逃げ出すのは悪いことなんでしょうか?
攻撃したり、バカにしたり、というのは悪いことかもしれないけれど、自己防衛というのは必要だと思うけど。自分が医療関係者とかそれが仕事というのであれば別かもしれないけれど、たまたま通りかかっただけで、大変な被害に遭遇してしまう。
たったそれだけのことなのに、個々のリアクションがまったく違うから話にならんのよ。
あちらとこちらとでは同じ出来事でも解釈というか、印象が違うためにどーにもならんような・・・
こういう時に必要なのはマニュアル?
具体的な発想が違うために、それに伴う行動が違うのが当たり前なんだけど、それを個々に説明するのが大変という・・・
一人のことなら気楽なんだけど、関係者が増えれば増えるほど、しょせん一方通行社会だからそれをリフレーミングして歩くのが大変という・・・
相手の目線を考えてヤリトリするから大変なわけで、誰が読んでもわかるようなマニュアルだったら、個々の話などを聞かなくてもいいわけだから気楽よね。

自分の行動をいちいち説明しなくてもいい関係というのは気楽だ。
画面を見せて、ちょろっと解説すると簡単に理解してくれる。
オンライン・フレンドというのをまったく理解していないうちのダンナなどは余計な解釈が入らないから簡単だもの・・・それは感じた。
画面を見て、BBSなどはBBSに過ぎないし、相手にどの程度バイアスがあるのかも自分という人間を差し引けばいいからわかりやすいのだろう。

「このね・・”Rinさん”というのがあたしのことなのよ」
と説明してみたり・・・
あまりにもとんちんかんな内容だったりすると、いきなり吹き出してしまったり・・・(オイ!)
ネットをやめろと言うどころか、近頃では、ネットをしていても疲れないメガネがあるらしいから、新しいメガネをつくれば?と勧めてくれる・・・(ヤレヤレ・・・)

それよりも、タイ人のように日焼けしてしまい、目パンダになってしまったあたしの顔を何とかしてほしい・・・
メガネをかけてなくても、なんかね・・・・

 

 

次は何をしたらよいのだろう・・

at 2003 08/13

インターネット第2ステージというのかなぁ・・・
自分的にはすでに何かが飽和してしまっている。
それに合わせるように、10日に旅行から戻って来て以来、連日してサーバがダウンしている。

ジャンキー・ネタにしても飽和している。
昔ながらの部落というか、田舎に住んでいて発狂というか発症したりすると、幽閉されている人が多い。
子どもだと存在も隠して、離れなどに幽閉されて食事だけ与えられて、学校へも病院へも行かせてもらえないこともある。
自分的には「まさか・・」という世界なんだけど、案外、多いらしい。
どうしてそういう非人間的なことをしているのか不思議なんだけど、要するに、家族に精神障害者が出たりすると、家族ごと村八分になるから、ひた隠しているらしい。

「例えば、○○公園に桜が咲きましたって書いてあっても嘘なのよ? 近所に住んでいる人がいて、なんでそんな嘘を書くんだろうって騒ぐの」
「当たり前だよ。外へ出してもらえないんだから」

家族にパソコンを与えられて、嘘を書き続ける。
時間になると食事だけ差し入れられるのだろう・・・
素直に考えて、今は薬も良くなっているし、病院へ連れて行けばいいと思うんだけど、田舎というのは昔ながらの習慣で精神科を嫌う。
どこも悪くないのに内科へ通い続ける人とかね・・・
他人や自分に危害を加えるような人以外は入院させてもらえないという現状を考えると、離れなどで一日中ネットをやっているわけ?
パソコンでゲームをしているくらいならいいけど、ネットというのは一応社会でありまして、それなりに迷惑だし、ご近所に人には隠せても、ネットを通してちまたにその実情が公開されてしまう。

ジャンキーという表現がどこか軽い。
ネット中毒というと、それこそアルコール依存症とかね・・・それに匹敵するような気がするくらい今の時代の精神病理の一つのような気がするんだけど、研究自体が浅いのかもしれない。
登校拒否もひきこもりもめずらしくない。
それくらい社会が病んでいるということなのかもしれない。

睡眠時無呼吸症候群・・・
突然、眠り込んでしまったり・・・
運転中や会議中などだとやばい。
昔は居眠りしていると怠慢だとか、いろいろ言われたけれど、実際には器質的な疾患だから治療すれば治る。
ところがクビになったら大変だとばかりに隠したり・・・
トラックや電車の運転手さんがこの病気だったら、かなり危険だ。
近頃では、数が増えてめずらしくもなくなってしまった。
今は呼吸器内科で治療するらしい。
大昔、その手の文献を臨床関係で読んだ記憶があるんだけど、今は内科なのかと不意に思う。
まあ、アレルギーなども多いし、自分は医者でも臨床心理士でもないので興味がなかったと言えばそれまでだけど、それにしてもネットを始めて以来、ネットにはその手の人たちが恐ろしいほど徘徊していることに気がつく。

ネット人格というか、ハンドル名を変えてしまえば別人格になってしまえるとか、ヘンな人たちがやたらと徘徊している。
単なる道具だと思えば、メールをチャットのように使うのはやめてほしいとかね・・・融通の利かない人もいる。
分けているからなんだろうな。
リアルとかバーチャルとか、この人には個人情報を知られたくないとか、オンラインだけの友達とか、BBSならいいけどチャットはしないとか、ジャンキーの世界特有のルールが存在しているような気がすることがある。

しばらくネットを切っていると、なんでそんなことをしているのか不思議になってしまう。

タイを徘徊している間、誰に対してもなるべく日本語を使うようにしていた。
ホテルのフロントでも、最後には「お世話さま」とかね・・・日本語を加える。
挨拶も日本語。
如何にも相手がアメリカ人だとしても、何事もなかったかのように日本語で話しかける。
相手が戸惑うのが面白い。
悪趣味だと思ったけど、いきなり英語で話しかけられた日本人のように、いきなり日本語で話しかけられたアメリカ人というのも実際のところリアクションは一緒なんだなぁ・・などとつまらないことを考えたりして・・・

リアクションがあるのが面白いというか・・・
日頃、オンラインで無理しているから、意味は通じなくてもリアクションというコミュニケーションがあるということが面白い。
ネットだと文字の世界だから、意味がすべてなような気がすることもある。
それでいて、それはそれでいろいろなリアクションとして相手を観察してしまう。

ちょっとしたことなのよね・・・
思考に柔軟性があるとか、融通が利かないとか、それはすべてその人となりの反応として自分の中で情報処理されているらしい。

どことなくグワ〜ッとのめり込みそうで、どこか観察してしまっている。
ジャンキー化している自分というのも存在しているのだろうけど、ジャンキー化している自分すら観察してしまっている。
1年目の状態、2年目の状態、3年目の状態・・とかね。
チャット、メール、BBS、サイトなどなどそれらすべてを観察の道具にしている。
自分すら観察の道具だ。

なんでそんなことをしていたか?
なんでなんでしょうね・・・
面白かったからとしか語れないし、娘が成長したら近所でも出来る仕事として臨床心理士を念頭に置いていたということもあるかもしれないし、実際のところ、ネットですら一日中BBSだけを観察されていたり、明らかに発症している人たちを相手にしていたからかもしれないし、それでいてそれが生活となるとリスクが大きすぎて自分的には無理な気がする。
無目的なようでいて、実は合目的的な行動なのよね・・・

BBS一つにしても、サイトのつくり方にしても、カラーというか、いろいろコントロールできるのかもしれないし、それでいてそういうことにも飽きてしまった。
そういうのはいわば末梢的な部分に過ぎないような・・・
何のジャンキー対策にもならないし・・・
どーやってつくってもジャンキーはジャンキーにしか見えない。
それが見えるようになると、まったくもってしてアホらしくなってしまって、興味もなくなる。
これでは、無理なのだわ・・・
何が無理かというと、すでにジャンキー・ネタは飽和状態に突入してしまって、いきなり他所様のサイトに自分の大学時代の友達の写真が貼り付けられていて以来、どーやっても無理なのよね・・・名乗らなくてもバレてしまっている。
当時はジャンキーに囲まれまくっていたから、そんなことをうっかりサイトに書くとリアルとバーチャルが混在してややこしくなるからイヤだなぁ・・とか・・・・つまらんことを考えていたことはすでに認めている。
そういうアホなところがますます自分的なので、これではどーやっても無理なのだわ。
かといって、機械音痴なのに、とりあえずパソコンの使い方と簡単なサイトのつくり方くらいは覚えてしまったわけだから、いきなり放り投げるというのももったいないし・・・
ネットのおかげで旅行も安く済んだんだから、差額で新しいパソコンが買えたりして・・・それを考えると放り出すのはもったいないよね。

が、しかし・・・
飽和してしまったので、次のことを考えなければならない。

 

 

活字の無い世界の平和さよ

at 2003 08/12

昔は一人旅も好きだったけど、今は一人になったとき、果たして自分が旅へ出るかどうかわからなくなってしまっている。
一つには不経済ということもあるかもしれないし、好奇心のかたまりだった時代の自分とは違うような気がする。
未知な世界には何かあるような錯覚があった時代とは違う。
どこへ行っても、人間なんて変わらないなどと思いながら、少しずつ違う文化や習慣などを観察する程度で、それこそ自分の子どもの頃などは”外人さん”がめずらしく、外人を見ているだけで海外へ来たという実感があった時代もある。
ところがだ・・・
今は街を歩けば外人だらけのような環境だもの。
おちびですら海外へ行っても自分が外国人であるという自覚がない。
「アンタがこの国では外国人なのよ」などと語っても、娘にとっては飛行機へ長時間乗るか乗らないかの違いくらいしかないのだろう。
9歳にして渡航歴9回。
こんな時代だから、多いのか少ないのか普通なのか親にもわからなくなっている。
海外に住んだとしても、彼女には家族と友達とそれ以外という関係性しか存在していないのだろうと不意に思ったけど、よく考えたら自分でもそんなものなのかもしれない。

旅じゃなくても、常に家族と一緒にいる。
家にいれば、家族が仕事だの学校だのと出かけてしまえば一人のようでいて、それはトイレの中まで子どもと一緒という過酷な子育ての経験をした人間にとってはホッとする時間なのよね・・・
うちはたまたま一人娘だから、父さんが子守をしていれば一人になる余裕もあるけれど、そうでなければ母親というのはいつも子どもと一緒。
アジアだとそれが当たり前なのよね・・・
ベビーシッターを頼んでまで遊びに行こうという気力のない自分がひっきーなのかと思っていたけど、子どもを誰かに預けて母親が遊びに行くなどということは日本ではつい最近の習慣であり、結局、いろいろな国の家族連れなどを観察しても、基本的には小さい子どもは常に母親と一緒だもの。
お祖母さんが子守しているところもあったけど、基本は母親・・・全世界共通・・・

政府のメルマガを読んで、少子化のことが書いてあったけれど、それには女性の生き方の選択肢が増えたからとあった。
それだって最近の出来事であり、それが普通ではなかった時代、たまたま母が仕事をしていたために母親が子守をしないということにもそれなりに違和感のない自分としては、子どもというのが常に母親と一緒にいるのが当たり前という当たり前の事実がものめずらしい。
ヤレヤレ・・・・
世の中どーなっているんだろう?
自分がヘンなんだろうか?

空の巣症候群?
子育てだけしていると、子どもにしがみついて、寂しい老後が待っているとか?
大体、年寄りの一人暮らしですら、自分の子どもの頃にはめずらしかった。
スーパーで卵を一つだけ買いたいというお年寄りの話などが話題になったとき、気の毒な気がしたほどだ。
ちなみにうちの近所のスーパーでは、学生が多いために卵のばら売りもしている。
それを買っても、何となく不経済な気がするから買わないだけであり、気の毒とうい感性は乏しい。

世の中には転勤族も多いし、単身赴任ですらめずらしくない。
海外へ転勤するとなると、子どもの学校のことがあるからと寄宿舎などに入っている子どももいる。
そういうことに違和感のない自分がヘンなのだろうか?

親と同居すると苦労するからという理由で、姑さんも自分も同居は望んでいない。
あちらはあちらでよほど過酷な嫁さん時代を過ごしてきたらしく、それとは別に年を取っても同居の苦労とか寂しさというのを恐れているのかもしれないとすら思う。

プールでおちびと一緒に写っているビデオを観たら、どうやっても母親当てクイズにはならないとすら思ってしまうもの。
誰が見ても、彼女の母親は自分だとわかるだろう・・・
あまりにもそっくりなので気持ち悪いような気がしたくらい似ている。
どこの家族を見ても似たようなものだけど・・・

再生というのかなぁ・・・
娘を見れば子ども時代の自分が見えるし、彼女にしてみたら、あたしが将来の自分なのだろう・・・
親と子はそれぞれに違う人生が待っているから、そういう点では別の人格なんだろうけど、生まれてから死んでいくまでの生物としての自分というか、おっそろしいほどよく似ている。

自分の世代だけなのかもしれないけれど、「親のようになりたくない」という人がやたらと多い気がする。
女性に多い気がする。
親のようになりたくないからと同居を望まず、仕事をしていたり・・・
ファッションを楽しんだり、子育てばかりしているのはつまらないとか・・・
自分の場合は、母のように仕事をして、やたらと贅沢するくらいしか考えてないような親にはなりたくないとかね・・・
どこか無いものを求めて人生を模索しているのかもしれないし、今の時代は、父親が育児をしたり家事をしたり、そんなこともめずらしくない。

それにしても、アメリカやカナダだと小学校の子どもの送迎は母親の仕事だもの。
仕事をしている人はそれすら誰かに頼まないと逮捕されてしまうのだろうか?
母というのも仕事なんだろうな・・・社会的に認知されている立派な仕事さ。

こーさ・・・
生物としての生き様というの?
ごく自然に成長して年頃になり結婚する。
そして親となり、ごく自然と老いて死ぬ。

そんな当たり前のことを、どうして人間はややこしいものにしてしまいたがるんだろう・・・

夏休みはいいなぁ・・・
世界中から家族連れが集まって、母親当てクイズの世界だもの。
それぞれの子どもに母親がいる。
プールで子どもに泳ぎを教えているのは父親。
古今東西、それがインターナショナルな自然な家族の姿なんだろうな。
活字の無い世界は平和だ。

 

 

 

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