Rin's Diary
August, 2003
(No.3)

 

テロと虹

at 2003 08/31 10:52

2001年9月11日、ニューヨークの貿易センタービルでの歴史的なテロからそろそろ2年が経過しようとしている。
あの日、自分は娘と一緒に大きな虹を見た。
今まで見たこともないほどの大きな虹。
地面から立ち上るような台風が通過したばかりの空に虹がかかっていたことを思い出す。
世の中が一斉に映画の1シーンを観ているように錯覚するほどの大事件で大騒ぎになっている頃、虹を見ていた。
実は、このことは自分にとってはとても重要だ。
テロの話をすると現実離れした巨大な虹を思い出すから。

サイトでも、嫌がらせが発生した。
理由は、ボランティア募金のバナーを貼っていたかららしい。
「クリックを懇願するようなバナーは嫌だ」という世論があったかららしいし、以前から無料サーバでは広告収入を阻害するようなバナーとして寄付サイトのバナーは煙たがられていたけれど、自分的にはサイトを閲覧制限するほどの出来事だとは思えない。
きっと目立つところに貼っていたからなのかもしれないし、違反を咎められないサイトもあるし、どうして制限されたのか理由をサーバに問い合わせたら、「1円以上募金が発生するサイトは禁止します」という回答。
これはね・・・極めて微妙というか、今は調整中になってしまったけれど、ユネスコは0.5円だったし、ハンガーサイトはお米だし、地雷撤去のサイトの場合は、地面の大きさを指定して、そこの撤去費用という寄付の仕方だし、どうやって解釈してよいものかわからない。
そのうち急にハンガーサイトが消えてしまい、今では主催者が変わったらしいけれども復活している。

とにかく、お婆さんがテレビの前に座って、「戦争だ」とおののいて動かなくなってしまったとか、テロに関連した情報があると大騒ぎになるとか、ニューヨークでは日本語の話せるカウンセラーが不足しているという情報や、今まで神経症だった人たちがまともになったとか、世の中がひっくり返るような出来事だったし、いささか、「まさか」という出来事だったからなのかもしれないし、どこか不穏な空気が流れる中で、今でも巨大な虹を思い出すということが幸せかもしれない。

「お父さんにも見せてあげたい」と何気なく言った娘の言葉にもちょっと感動した。
それくらいあんな大きな虹を再び見られるかどうか自信がない。
それくらい美しい虹だったわけで、センタービルが崩れ去ったシーンよりも目の当たりに見た虹のほうがインパクトがあるということが写実だな・・という気がする。

というわけで、せっかく有料サーバを借りているので、クリック募金のサイトをつくろうかと。
戦争になったらこういうのも制限されちゃうのかな・・・

 

 

皆さん、ありがとう

at 2003 08/30 01:30

インターネットという世界は、上位権力の存在しないに等しい世界だ。
つまりは、何か紛争が発生した場合、日本的な解決法としては誰か上の人に言ってまるく収めてもらうとか、それこそ裁判も警察もそのために存在しているようなものであり、これをサイバー上でのトラブルに活用しようとしても無意味。

アラシが発生したとして、その苦情を誰かにバトンタッチしようとする。
このため騒動が拡散し、まったく無関係な人たちを巻き込む。

中には実際に警察へ訴えたり、プロバイダへ訴えたり、それこそサーバへ訴えたり・・・
それでも無意味。
掲示板なら掲示板の管理者へ伝えたとしても、あちこち別の板へ派生するだけ。
仮に、そこで収まったかに見えても、また別人としてちゃっかり存在していたりする。

警察が何とかしてくれるか?
これは、実際にストーカーや犯罪に巻き込まれる可能性が無い限り、なかなか難しい。

というわけで、逃げるが勝ち。

このためにアクセス制限をしたり、サイトを移転させたり・・・

もっと素直に考えれば、完全な匿名として電源をオフにすればすべての痕跡が消えてしまうくらいがちょうどいいのかもしれない。

それより、そんなところへは近寄らないことであり、そういう来訪者があったらブロックしてしまう。
サイトにもBBSは設置せず、メールもレスを書かない。

それでも相手が狂っていた場合、にっちもさっちもどうにもこうにも・・・
という時にも、今度は「私はあなたのことなど覚えていません」という姿勢が効果的。
つまりは、どこの誰か知らないということが大切であり、最初から遡って説明させれば、そのかったるさを想像するだけで普通は終わる。

普通じゃないから終わらない。

ヤレヤレ・・・

匿名で、ぴーちかぱーちか言っている場合はそんなものなので、それが気に入らないと実名になる。

階段を上れと言われる。

つまりは、実名で堂々とサイトをつくるということなのかもしれない。
そーすれば終わるのよね・・・

神父さんのサイトに書いていて、信者さんからメールが来る。
かったるいから書くのをやめる。
だって匿名ではないから。
匿名であって、匿名ではない。
そこの狭間で揺れている。

短歌もあっさり結社へ入る。
こちらも実名。
そーすると、誰も何も言ってこない。
意見があるなら、結社誌へ投稿すれば終わる。

心理学のネタ?
これもてきとーに書いているけど、真面目に投稿してくだされば真面目に回答するだけのことなんだけど、今のところあまりそういう投稿はないし、すったもんだしたら「学会へどうぞ」で終わる。
論文まとめて発表すればいいでしょ・・・・
そのためにみんなせっせと実験したりしているわけだから。
つまりは、実証するために苦労しているわけで、あたしのように・・というか、サイトのネタにするだけならそんな苦労は必要ない。

つまりは、何かを発言するために何も苦労することのない世界であり、苦労している人たちのサイトは言いたいことをこんな小さな電子文字の世界に並べることが困難だということを知っているために本格的なサイトというのは少ない。
あっても面白くないかもしれないし・・・一般の人たちには。

そういう中途半端なことを考えながら、サイトも2年半以上も続いている。
サイトをつくりたかったわけではなくて、自分の書きたいことを書きたかっただけだ。
紛争が発生した場合、匿名の普通の主婦では何の発言権もない。
その代わり書きたい放題。
責任がないから・・・
勝っても負けても困らないような議論や紛争ばかりだもの。
負けるが勝ちというよりも、逃げるが勝ち。

そこなんだな・・・

つまりは、自分も上位権力にはなれないから。
とりあえず、縦社会の構造により並んでしまえば、すんなり通ることでもこの世界では匿名だから通らない。
あまりにも身勝手に、自己陶酔的に誰かが何かを発言していたり、発信していたとしてもそれを容認するしかない。
仮にそれを批判したとしても無意味だ。
批判されたとしても、知らん顔していられる。

それが居心地のよいところでもあり、どつぼにウンザリするところでもあり、相手にするだけ損だと思って、そのように書けば怒り出す。

寄る辺なき身などと思いながら、気が付けばあれこれ何でもできるようになってしまっていた。
あちこちでアクセス解析を取り付けているサイトも多い。
ダウンロードもクリックも見張ろうと思えばいくらでもできることを知る。
単なるデータだと思えばそれだけのことだけど、結局は自己防衛しか無いのかもしれないし、自分でさえできるということは誰にでもできるということだから、これもそのうちあちことで当たり前になっていくのだろう。

それにしても、別窓の開き方も知らないのにサイトをつくっていたのだから、それを考えると無茶だよね。
無茶は無茶なりに、皆さん、ありがとう。

 

 

blogに移行中

at 2003 08/29 02:56

この前から日本語化バッチを当てて放置していたblogを改造して遊んでいる。
Milanoさんのサイトで落とされた数は2500くらいらしいし、あたしは2回ほど落としているので、どうなんだろう・・・
なぜ2回も落としたかというと、自分でdbというフォルダをつくらなけらばならないことを知らなかったがゆえに、最後の最後で失敗してしまったから。

別のところで、そこが重要と書かれていたのを発見してやってみたら、何てこともなく無事に日本語化に成功したらしい。

そこまではいいんだけどね・・・
それをどこにアップしようか、どこのフォルダに入れようか、はたまたどんな風に使っていったらよいのかわからない。

それでいくつか、blogのサイトを回って、改造の仕方などを眺めながら、何となく短歌のサイトをこれでつくろうかなぁ・・というか。
こんなことを最初にマメにやりたい人たちは、機械屋さんが多いために、詩やその他諸々のサイトというのは少ない。
大抵が、ニュースやMTの紹介とかそんな風・・・

blog専門のリンク集もあったけれど、カテゴリーがね・・・偏っている。
これがネットなんだな・・というか・・・

一つblogをアップしてしまえば、後は編集でいくつかのblogを増やしていける。
カテゴリーも自由だし、そうなるとうちのサイトの場合、どうしたらよいのかますます迷う。

サーチ系のサイトへリンクしてもらうためには、ある程度テーマやジャンルが大切になるし、それで「テーマ、テーマ」と喚いていたんだな・・ということがわかる。
つまりは、既存の形態があって、その中から自分で分類を選ぶだけなのね・・・世の中の人たちは。

とりあえず、テスト中だけど仮オープンしてみようかな・・・

 

 

東と西

at 2003 08/28 01:13

もう、思い出したくもないな・・・レスがないとかあるとか、「うちのサイトに来ないで」とか、BBSアラシとか、くだらない話は。
根底が見捨てられ不安なんだろうな・・・
電源オフにしたり、ネットを切ると忘れてしまうんだけど、オンして自分のサイトや誰か他の人のサイトを眺めると、鬱々とした気分にさせられてしまう。
しがみついていたかと思うと、今度は見捨てられたくないからと先に逃げる。
被害妄想、欝、その他諸々の関係妄想・・・

結局、RPGのようなものらしい。
ロールプレイング・ゲームと言うの?
ドラクエくらいしか思いつかないけれども、結局はゲームみたいなものなんだろうな。

もっと普通にしていられないものかと思うんだけど、彼らは病気だ・・・哀れんでやってくれ。
気分やムードは移る。
今は、ただ、そういう気分すら思い出すのもイヤだと思っている。
それが日常的に続いているのかもしれないし、そうなるとごく自然と周囲の人たちは離れていってしまう。
だから、あえて、自分を隠しながら生きている人たちも多いのかもしれないし、それが人生かもしれない。

需要と供給の関係だから、互いに見捨てないような関係性が成立すれば落ち着く。
それだけのことなんだけど、それが落ち着くまでの疾風怒濤に振り回されると、いささか自分のほうが疲れ果ててしまう。
なんか、思い出すのもイヤだ。

何かが変わり、平穏なやさしさに包まれた瞬間、あれは夢だったのかもしれないと思うほど、悪夢のような世界なのかもしれないし、いつの頃からか、あちらとこちらを出入りするように、自分は風だと思うようになった。
嵐のような怒涛の中にすっと入り込むことも平気だし、スコールのように黒雲が抜けてしまえば青空の広がるビーチ・・・
何事もないかのように、島は存在する。
まさしく、ボートを飛ばして少し走ればそこは楽園だ。
隣の島は、嵐のような海の色だというのに・・・

プーケットの西海岸の高波は、まさしく雨季であり、空は白雲に覆われている。
東海岸へ行くと、そこにはおだやかな波が広がる。
まるで違う島のようだ。

海の上で、突然、黒雲に包まれ、雨の中をボートは疾走する。
雨から逃げるように・・・
すると、いつの間にか青空が広がり、たどり着いたビーチには青空が広がるばかりで、雨の痕跡もない。

タイの海を知り尽くした人たちには、日常的な光景なのかもしれないし、それでいて、ほんのわずかの移動で別世界が広がるというのは、新幹線の空が微妙に変化するよりも距離が短い分、不可思議な気分になる。

とろとろと手漕ぎボートなどで進めば、ずっと黒雲の下なのかもしれないし、エンジンのよいスピードボートならあっという間に別世界なのかもしれないし、精神にもスピードが存在するような気がするほどだわ。

 

 

古典は濃いなぁ・・・

at 2003 08/27 00:28

日本という国のリーダーシップは、一体誰によって発令されているのだろう?
そこなんだよね・・・
象徴天皇制になって以来、政治の表舞台からは遠い皇室だけど、時代を動かすダイナミクスは相変わらずすごいパワーがあるような気がすることがある。
日本なんていうのは、もともとが巫女やアニミズムの国だもの・・・その流れに大和朝廷があるわけで、このところ古今集などを読んでいるからなおさらそこのところを意識してしまう。
古今の世界では、スサノオノミコトも人の世の人であり、神とは書かれていない。
そこなのよね・・・そこだ。
いつから神さまになったんだろう?

というわけで、そこのところを深く考えたいわけでもなく、ただ何となく美智子さまの時代には経済大国への道をひた走り、雅子さまの時代には外交の時代なのかもしれないな・・と感じただけであり、皇太子さまが自ら子守をする時代であり、プリンセスはキャリア組という・・・
なんかね・・・なんかなのよ。
どちらが先なのかわからないし、偶然なのかもしれないし、熟慮の結果なのかもしれないし、それでいて時代のダイナミズムがそこに存在している気さえする。
一人娘だったら、今度はプリンセスの時代だよね・・・
うちも一人娘だから、未だに男の子がどうたらこうたらとちくりと言われたりするけれど、皇室でさえ一人娘の可能性が高いわけだから、いいのいいの、などと知らん顔しているに限る。
年寄りに何か言っても始まらないし、「今の時代」というものを認識してもらうためには皇室のありようというのはそれなりに説得力があるらしい。
要するに、単純な国民性なのかもしれないし、案外アバウトなところが良さなのかもしれない。

短歌の好き嫌いがはっきりしやすいのは、いわゆる伝統文化の世界だからなのかもしれないし、自分的にもそこが自分を混乱させてしまっていることは重々意識している。
もっと気楽にね・・・単なる歌なんだし、詩の世界だから、素直でよろしいと思うんだけど、どうしても伝統やら格式というものにがんじがらめにされるとなると嫌がる人たちが多いというのも本能なのかもしれないとすら思う。
だって、めんどーだもの。

そこで権威主義的に西洋の思想や文学により理論武装されなければならないとか?
この、国粋文化のかたまりのような世界に?
音節という形で、英語の短歌なども存在しているけれど、それってなんかずるいような気がする。
だって、音節となるとあちらの31音節は内容が濃いために短歌のような舌足らずなニュアンスは薄れてしまうような気がするし・・・
日本語は、8分の5拍子とか、7拍子のリズムなのかもしれない。

そんなこと / 言ったって / わかんない

まさしく、8分の5拍子・・・

金子由香里さんのご主人は仏文の人だったそうな。
まるで日本語をフランス語のように話す彼女の言葉を聴いていると、言葉って何なんだろうと思ってしまう。
語調なのかもしれないし、口調なのかもしれないし、フレーズや発音やちょっとした唇の動きなのかもしれないし、子音を強調しているのかもしれないし、そこのところはよくわからない。
シャンソンなんて、今時のフランスで誰が聴いているのか知らないけれど、それを日本語にアレンジしているから、面白さを感じてしまう。

それにしても、なんで古今集が好きなのか自分でもよくわからないけれど、百人一首のストレートさを考えると、なんで一生懸命恋の詩などを子孫に残そうとしたのか不可思議なような・・・
いつから日本人がシャイになったんだ?
歌の世界を徘徊すると、日本人というのは年中好きだの嫌いだの、姉ちゃんを見たら口説いていたような気がするくらいだわ。
よーわからんわ。
ある意味、関西人が一番古典の原型を留めているのかもしれない。

さてさて、あずまおんなは何を詠もう・・・

 

 

ネット歌人を表現するにはどうしたらよいのだろう・・?

at 2003 08/26 03:10

----短歌バカにしてただろ?

こらこら、なんてことを言うんだ、と周囲に誰かいたら気にするところなんだけど、ネットの良いところは互いに機械に向かって会話しているのであって、あまり他人のことは気にしない。
だから黙っていたら誰にもわからない。
にもかかわらず、あたしは何でもサイトのネタにしてしまう。

----今でもバカにしてるよ? 絵が誰でも描けるという意味で

バカにしていたというか、要するに、絵は誰でも描けるし、歌は誰でも歌える。
世の中には自分のように絵の下手な人間もいれば、音痴も存在するわけで、それでも描けと言われれば描けるし、音痴でも歌は歌える。
そのようにまた屁理屈を言い出してしまうと、単にその流れの中で短歌なんてものは誰でも詠めるとしか語れないだけの話であり、誰でも詠めると言うと、バカにされたと思うほうがどうかしているのではないかとすら思ってしまう。
つまりは、要求水準が違うだけで、他人から何かを期待されない世界というのは気楽だと言いたいだけなのかもしれない。

インターネットで話題になっていても、実際の歌壇ではあまり話題に上らない歌人を紹介している雑誌として「歌葉」のことが結社誌に書かれてあった。
自分のようなネット歌人の場合、どうしても”インターネット歌人”という言葉に反応してしまいやすくなる。
つまりは、もともと短歌が好きだったわけではなく、何となく詠み始めただけであり、詠むだけなら誰でも詠めると言いたいだけであれこれランダムに詠んできたとしか語れない。

ネット歌人の場合は、自己陶酔がきつすぎるとか、いろいろなことが書いてある。
自分のことではないにしろ、何となく気になるお言葉・・・
ネット自体が、公的自己を排除した世界なので、自己陶酔とか自己満足を追及する世界であるとしみじみ実感することが多いために、メディアとしては未熟であり、一部のユーザにより占められた世界であり、未だにパソコンの電源すら自分で入れられない人たちの多さを考えると、この世界と歌壇とが相容れない世界かもしれないと思うこと然り。

実際に、短歌を結社に送ったほうがサイトをつくるより手っ取り早い。
にもかかわらず、結社に送る前にやっておきたいことがある。
つまりは、これがネット歌人の世界なんだよと言いたいというか・・・

歌人同士の交流ということで、以前なら短歌BBSも盛り上がっていたんだけど、今はCGIそのものがサーバの身勝手によって使えない状態が余儀なくされてしまっている。
自分の志す歌の交流というのは、ジャンキーの世界ではなく、うまく説明できないけれど、静かなものであってほしいと願ってやまない。

 

 

瞬発力のまま持続できるだろうか・・・

at 2003 08/25 00:53

最初にガイアックスのようなCGIを使ったアップの方法に慣れてしまった自分には、すでにFTP用にHTMLでページをつくって更新するということがきつくてたまらない。
というわけで、サーバをレンタルする際、CGIが使えるかどうかでは雲泥の差だと誰かが言っていた意味がようやくわかるようになってしまった。
当時は自分がCGIを使っているという自覚が無かったために、FTPの大変さというものを知らなかったからのんきにしていたというのが実感かもしれない。

実際問題、いくらノート型のパソコンを使っていたからといって、これを携帯して歩くのは大変だし、サブノートまであるのだけれど、これはこれでバッテリーなどの問題もあり、パソコンは携帯には不便だ。
それでモバイルを利用している人が多いのだろう。

という以前に、仕事でもあるまいし、なんで普通の主婦がいちいちサイトの更新のことなどを考えていなければならないのか、いささか不可思議な気分にも陥るのだけれど、ネットが日常になってしまっていると、サイトの更新というのもいわば日常の一部であり、これをしないと落ち着かないし、それでいて旅行へ行ってしまうとサイトなど見ないというところがいかにも仕事っぽくもあり、なんでこんなことになってしまったのだろうとは思うのだけれど、ヒマというのは罪悪のような気がするから、何かやることがあるのを喜ばなければならない。

ヒマが罪悪なのではなく、退屈が罪悪のような気がするし、それでいて、ヒマがあると余計なことを考えてしまうから、何も考えないということが大切なのかもしれないとすら思う。
あれこれ考え出すとキリが無いでしょ?
もともと何も考えないならかまわないんだけど、世の中には不幸な人たちがたくさん存在するわけで、不幸の種のない人のほうが少ないくらいだわ。

何もないとしても、世の中が不景気になればなったで将来のことを憂いてしまったり、老後には年金が出なくなる可能性もあるとか、それなりにいろいろな社会不安が増大する。
今が老後の人でさえ、今度は寝たきりになったら誰が介護してくれるんだろうとか、案外、切迫しながらあれこれ考えていたりする。
よくそんな先のことまで考える余裕があるものかと思うけど、実際にはその時になればなったように何とかしなければならないのだろうし、明日のことなど考えないほうが平和な気がするほどだ。

ある日突然、震災やテロ・・・
自然災害や人災・・・
病気やその他諸々。

それは昨日まで平和にしていたのに、ある日突然やってくるようなものだ。

構えがあると少しは違うような気がする。

結局、今が幸せだったらそれが一番なのよね。

何となく流れの中で生きていくだけ・・・

スカーレット・オハラではないけれど、マーガレット・ミッチェルはあれしか書かなかったし、どうしてその続編が森瑤子なのか不可思議でもあるし、それでいて、どうして売れるのかわかるよね・・・
次から次だもの。
それでも、明日は明日の風が吹くという最後のメッセだけが印象的な小説だわ。

そこに誰かの人生を重ね合わせて生きるヒントがあるから読者にとっては魅力があるのだろう・・・

モームの『人間の絆』とか・・・
逆に考えれば、それだけ人生とか自分のことについてあれこれ迷ったり興味のある人たちが多いということなのかもしれない。
が、しかし・・・
ババアになると、もういいや・・というか・・・

老後の介護が不安なら、「○○病院の施設がいいそうですよ」とかね・・・
あれこれと不安そのものにメスを入れて考えるよりも、そっちのほうが簡単だし、具体的だし、便利。
そんなことで不安の解消にはならないことはよくわかっているけれど、具体的なことをあれこれ話しているほうが気楽なのよね。
少なくてもそれ以上の不安を増大させることはないだろう。
気分というのは移るし、広がるから。

小説をたくさん読んでおくとよろしいというのは、いわば不幸に対する予防接種のようなものなのかもしれないし、たくさんの不幸に接することにより、それを仮にフィクションとはいえ受容することにより精神に免疫が出来る。
いろいろ苦い思いをしたほうが、耐性が増大するような気が・・・

結局、知性とは何かを問われたら、精神の免疫力のことのような気がするわ。
頭の中に不幸インデックスというのあって、それについてのマニュアルと情報量が多いということなのかもしれない。

CGIと不幸インデックスがどういう因果関係があるのかよくわからないけれど、要するに気分屋にはCGIがふさわしいということなのかもしれないし、目に見えないことを文字なり何なり形にしてしまうと終わるからかもしれない。
それを速やかに実行するためには、瞬発力というか、うだうだ考える前に実行してしまったほうがすっきりするというだけのことなのかも。

というわけで、CGIでサイトをつくると空っぽのままコンテンツが並んでしまう。

更新するほうが遥かに大変ということが、案外、ハッピーなのかもしれない?
アップするのは簡単なんだけど、毎日続けるのはね・・・

 

 

最初の一歩から

at 2003 08/23 01:03

なんか、こう・・・だんだん人間がふてぶてしくなっていくというか・・・
ネットを始めて以来、あんびりばぼーな経験をたくさん積み重ねてきたために、すでに怖いものなしになっているかもしれない。

誹謗・中傷、嫌がらせ、ウィルスメールに、いたずらでアンケートに応募されたり、その手の匿名の犯罪まがいの嫌がらせにもすっかり慣れてしまった。
ネット不倫がどうたらこうたらとか、あとは何があったかな・・・
すでに思い出せないくらいだ。

書くということも慣れないとなかなか書けるものでもなく、書くのが好きということと書けるということは何かどこかが違う。
いわば、精神の問題なのかもしれないし、単なる記述であれば、何を書いても気にすることはない。
ところが、いざ自分のことを書こうとすると、なかなか書けないのが本当のところじゃないかしら・・・

それでも書く。
どんなことでも書いているうちに慣れてきてしまう。
他人がどう思うおうと関係ない。
結局は、一度発してしまった言葉はすでに自分とは乖離した存在であり、それをどのように受け止めるかは個々人により違うために書き手にフィードバックされても仕方がない。

リアクションがあるだけマシと言われたこともある。
誰も来ないサイトで独り言を発信していてもつまらないとすら思っていたこともある。
が、しかし・・・
誰も来なくても自分の言いたいことを書けるということが値打ちであり、今、まさに少しずつそれを広げていこうと思っている。

今、新しいサイトをつくっている。
まだまだ試行錯誤の段階でリリースするほどでもなく、ある程度形になるまでにはまだ時間がかかる。
一生懸命つくっても誰も来てくれないかもしれない。
インスタントサイトなのに、それなりにアクセス数があるのに慣れてしまい、一生懸命つくっても誰も来訪してくれないという苦しみを知らない。

さてさて・・・

でも、それが楽しいのよね。
今のサイトもタグの一つも知らないところから始めて、何となくあれこれつくれるようになったわけだし、何となく違うことをしてみたくなっただけ。

何でもやってみないとわからない。
わからないことがあるから楽しい。
とりあえず、今はページをつくる。
それだけだな・・・

 

 

まだまだ見習い期間だな

at 2003 08/21 15:49

勉強は楽だ。
他人の書いたものを読む。
写本とは言うけれど、いつしかそれが自分の中にインプットされていく。
古典の場合は著作権をほとんど気にしなくてもいいから楽よね。
それよりも古典の世界を電子にしようという人たちの多いこと多いこと・・・
でも、正確に再現することは不可能であり、漢字を当用漢字に直したり、仮名遣いを改めたり、適宜、句読点などを加えられているために、微妙に違うというところがミソかな。
たしかにこれでは、読むことと詠むことが違うということが何となくわかるような・・・
古文が読めても歌が詠めるわけでもないのかもしれない。
逆にあれこれ考えすぎてしまうのかもしれないし、既成の枠組みから抜け出ることが困難となってしまうのかもしれない。

それにしても、和歌って暗い・・・
そりゃそーかもしれん。
政情が不安定で、明日のことなどわからない。
厳しい身分制度、権力闘争の日々・・・

そんなことに疲れた人たちが、花や月などを眺めながら詠む。
これでは明るい歌など望みようがない。

どういう歌がよい歌か?

という原点がそこにあるんだな・・・

著作権のことにしても、一般論としては、個人でやっているようなささやかなサイトの場合はまずは訴えられるということはないな・・・
ちょっと誰かの歌を引用したり、紹介したりすることはパクリとは違うし・・・

これに金が絡んでくるとややこしくなるのかもしれないし、ジョン・レノンの詩をBBSに貼り付けてもそんなことでジョンの家族が訴えるだろうか?
まずありえない。

誰かが何かを言ってきたら取り下げる。
プロでもそうなんだから、ましてや個人サイトの場合は蚊帳の外だろう。
まあ、小さいことの積み重なりが大きくなるから困るのだろうし、それに関してはどうなんだろう。
ライコスみたいにラジオの放送局自体がサービス打ち切りになるなど、サーバと企業の問題なのかもしれないし、サーバにしたところで勝手だもの。

クールが楽天に買収されて、とうとうメルアドすら消えるらしい。
今、CGIが使えない状態になってしまっている。
検索してもアクセスできないページも多い。
契約内容と違うわけだから、払い戻しがあってもいいとすら思うけどどーなんだろう。
というわけで、自分の場合は、次回の更新日までメルアドは使えるような気がするけれど、いずれにせよそれまでに何とかしなければならない。
そこまで大袈裟なことでもないけれど、それなりにアクティブにやっていたところは大変だろうな。

ネットで著作権がややこしくなるのは、パクリが多いからかもしれん。
素材屋さんの場合、素材屋さんが素材屋さんからパクるというケースが多いみたいだし・・・
どっちもタダだから金が絡んでいるわけではない。
が、しかし・・・
気分や思い入れの違いというか、タダだからこそ手間ヒマなどを考えると悔しくなってしまったり?
タダならではのトラブルのほうが大変だな。
金が取れないなら知らん顔していたほうが得だというプロの世界のほうがすっきりしている。

写本が大変だな・・って思っていたら、古今和歌集のテキストファイルを配布しているサイトまである。
よく見たら、機械屋さんのサイトだ。
すでに感性が違うね。
CGIの配布の次にうれしい。

とりあえず、blogもテンプレートのままなら使えるようにまでしたんだけど、まだ何もしていない。
とにかく・・・

 

 

 

 

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