December 23, 2005

表現と子ども

それが素晴らしいかどうかは別として、そこには現実的な選択肢があり、それを追求することはあっけないほどマニュアルに書かれているとおりにやるようなもの。

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去年の今頃は子犬のマリアが瀕死の状態。そして、死んだ。
今年は再び子犬のマリアがやってきて、あっという間に成長。そして、オトとマリ、2匹の犬を同時に抱っこ。
重い日常。

オトはマリの死を覚えているようで、彼にとっては最初のマリと2匹めのマリとは別の犬として明確に存在している。マリの死はオトにも悲しい出来事として存在し、子どもの頃の脚の怪我と同様に彼の記憶の中では生き続けている。

どうしてそういうことがわかるのかといえば、オトには表情という表現能力があり、語りかければ時に笑い、時に悲しそうな顔になり、お腹がすけば舌を出し、マリが庭から脱走すればうれしそうな笑みを浮かべてわたしのほうを見る。

2匹目のマリアはおとなしそうな顔をしているけれども、これが大変なやんちゃな子犬で、すぐに庭から脱走するし、家の中のものを齧ってしまう。脚の悪かったオトとは違い、3ヶ月にもなればさっさと階段を駆け上がり、カンガルーのように2本足で立ってジャンプをするのも得意。このため、昼寝の時間にはさっさと2階で寝ている。

犬の成長を眺めていると、1年があまりにも長く感じられる。

ちなみに、マリはサティが好きらしい。これをかけると、すやすやと気持ち良さそうな表情を浮かべて寝てしまう。

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今年の冬休みは・・・・冬期講習。クリスマスから始まる。毎日お弁当。

学校はなにやら仕事のようなもので、お休みになりほっとしている。その反面、塾は楽しいとばかりにお弁当を持って通う。通常のコースだけではなく、皆と一緒にお弁当を食べたいからと単科まで申し込まされた。一体、受験って何なのかと思ってしまう。彼らにとっては一つのイベントらしい。

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美術教室のほうは、このところ工作教室になっている。この前はケーキ、その前はリース。来年は隔週で凧を作るそう。自分でデザインし、設計。

一つには現実があり、おとなの目から見れば、過酷な現実。それでいて子どもたちは案外それを楽しんでいる。

そうだなぁ・・・まだ娘には早すぎるとは思うけれども、「職業に生きる」と言い出した娘に対し、「絵の先生なら子どもを育てながらできるわね」と話す。あえて早すぎる今、何かを言っても先のことなどわからない。それでいて、もし職業を持ちたいのであれば、自由な時間を持てるものでなければ続けられないと娘に話す。

わたしは孫の世話をするつもりはない。
子どもの世話を他人に押し付けるような娘に育てた覚えはない。

それだけだな・・・
あとは娘の自由。

子どもの頃から絵が好きで、絵の勉強をするのならそれはそれでかまわない。むしろ親の楽しみでもある。芸大に行きたいのなら勉強はこんな感じ、実技はデッサン科で。でも、その先のことはまるでわからない。途中で進路が変わる可能性も高い。

それでも自分のアトリエを持ち、子どもに絵を教えてもいい。
が、しかし、不意に気がついたのだけど、子どもの相手が苦手な人たちのほうが多い。理由はわがままだから。それと、子ども特有のプライドの高さにとまどうからだろう。描いた絵を批判されると、おとなが想像する以上に傷つく。これは不思議。ほかのことではよくあることなのに、表現するものに対し、朱が入るということが子どもにとっては何よりも苦痛の種となる。

大変。

投稿者 Blue Wind : December 23, 2005 04:39 AM | トラックバック
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