May 31, 2005

主人公不在のドラマ

人間は誰でも自分のドラマを生きている。
遠藤周作の 『生き上手 死に上手』 を読んでいるうちに浮んだ言葉。実際には、「私はあなたの人生の傍役(わきやく)」という節を読んでいる時に感じたこと。

当たり前のことなんだけど、誰でも自分が主人公なんだなーって思って。わたしの母のようにエキセントリックなタイプに限らず、どんな人でもそう。例えば、娘から見ればダンナとわたしは彼女のお父さんとお母さん。当たり前のことなんだけど、不思議だ。

わたしの母から見れば、わたしは彼女の子であり、彼女を中心に家族関係も存在している。そうやって考えると、父も彼女の亭主なんだろうし、弟も彼女の息子なんだろうし、わたしの娘も彼女の孫なんだろうし、わたしの叔母も彼女の妹なんだし、どうやっても彼女中心に世の中が回っている。

このことは非常に重要で、たまに母に対して感じたことがある・・・「あなたがいなくてもあなたの夫はわたしの父だし、あなたの息子はわたしの弟なのよ」って。あの自己中には何を語っても無意味だったが。

冗談ではなく、例えば祖母のお葬式。

わたしは祖母の初孫だったのでとても可愛がられた。その祖母が亡くなったのだからわたしにとっても大事件なのである。ところがあまりの悲しみに何を血迷ったか、「私の親なのよっ」と彼女は言い放った。それが父に言うのならわかるのよね・・・父にとっては祖母は他人なのだから。でも、わたしはれっきしとした孫である。要するに「世界で一番悲しいのは娘である自分であり、あんたには関係ない」と、故人の初孫であるわたしに言い放ったのである。

そのおかげで、祖母のお葬式はあまり悲しくなかった。うまく説明できないけど、祖母のお葬式では、主役は母とその姉妹だけであり、それ以外はその付帯物として存在していたらしい。その傾向はわたしの母だけではなく、伯母たちにも顕著に見え隠れしており、しょせんわたしを含めて孫一同というのは親の付帯物として扱われていることを知る。

つまり・・・・・母、というのが絶対的権力者として存在しており、子、というのはその付帯物らしい。子が付帯物なら夫は他人に相当するという概念は、わたしの場合、母やその家族に教え込まれたものである。女系家族ってそんなふう。

もう、何と言うか・・・・伯父さんたちは慣れているから、「それ」が始まるとニヤニヤしながら傍役に徹することを知っている。従弟たちもそれなりに親を見ているせいか「それ」を理解している。

わたしも、もう少し自分が若い頃にはチクチクと腹が立ったことでも今はどうでもよくなっている。

例えば、この前姑さんが来て、「孫を育ててもらっているのですから」と言う。「はあ?」って思ったんだけどね・・・正直、彼女の孫はわたしの娘である。わたしがもう少し若い頃にはチクンと逆に針を刺していたかもしれない。

が、しかし・・・・どうでもいいのである。彼女にとっては、うちのダンナはいつまでも彼女の息子なんだし、わたしの娘は彼女の孫なんだし、しょせんわたしは傍役のそのまた傍役なのである。

おそらくは寝たきりの母にしても、いつまでも苦しみながら自分の人生と格闘しているのだろう。果たしてわたしという娘がいることに少しは感謝しているだろうか。案外、自分は運が強いと勝手に思っているかもしれない。しょせん息子も娘も彼女の人生の傍役。

自己中にいちいち腹を立てても仕方がない。そうやって何かに対して寛容になるということは、自分もまたそれを理解しながら生きているということで、ただその発露が実際の生活にではなく、このように駄文を書くことにあるような気がする。

しょせん、自分はワトソン。
名探偵はほかにいる。

投稿者 Blue Wind : May 31, 2005 02:36 AM | トラックバック
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