Rin's Diary
July, 2003
(No.1)

 

内政不干渉

at 2003 07/10 14:04

ネットの人間関係の素晴らしさは、良くも悪くも生きるに必要な関係ではないということかもしれない。
子どもが熱を出したからといって預かってくれるわけでもないし、サイトに来訪者が増えたからといって儲かるわけでもないし、ネットを繋がなくても何も困らない。

----ネットを繋がなくても全然平気なのね

おおおいいぃぃぃーーーー!!

まあ、生活の中にネットが入ってしまっていると、定刻にはオンしているような友達も自然と増える。
中には1日中のように繋いでいる人たちもいるし、自分などはそれに近い。
酷いと寝る前から起きてからもオンしているからヘンだと思ったら、繋ぎっぱなしで眠ってしまったという・・・
おそらくは自分なんかもそれに近いような気がすることがあるけど。
めんどーだとパソの電源を切らずに用事をしていたり、電話していたり・・・
なるべくマメに切ろうとは思うんだけど、不意の来客とか電話とか、ちょっとのつもりが何となく長く離れるようになってしまったりと、案外、いい加減だったりする。
なんせ電源を入れると自動的にネットに接続されてしまうので、それこそ娘がゲームをしていてもテキストを書いていてもオンした状態になってしまっている。

----ずうずうしんだから!

一体何を怒っているのかと思えば、いきなり家族写真などを送ってきたから怒っているらしい。
だったらBBSなんか置かなければいいのに、って思うんだけど、ある意味営業サイトの場合は仕方がないらしい。
大して儲かっているとは思えないんだけど、本人に営業意識がある場合はそんなものなのかもしれない。

もーね・・・
しっちゃかめちゃかでございます・・ネットは。
どこがコミュニケーション・ツールなのかと思ってしまう・・・
それでいて知り合いには違いないから、すったもんだもすれば、会話も成立するし、何か困ったことがあれば相談にも乗ってくれるだろう。
が、しかし・・・
無くても困らないという点では、気が楽かもしれない。
相手の生活に入り込まないから。

それでは何のためにネットで人付き合いをしているのかといえば、「ちょっとやってみよっかなー」です・・・自分の場合。
家にいながらあれこれ勉強できるし、知らないことも覚えられるし、それこそちょっとやってみようかという・・・
サイトをつくることもそうかもしれないし、短歌を詠むことも駄文を書くこともそうかもしれない。
サイトを一つつくるにしても、それぞれに目的がある場合もあるし、無い場合すらあるのかもしれない。
いくつものサイトをつくって、使い分けている人たちも多いし、それこそ仕事と趣味とではサイトの構築も違うのだろうし、管理の仕方も違うのかもしれない。
ガイアみたいにインスタントでセットになっていてコミュニティであっても、個々の管理人の考え方でまったく違った趣旨のサイトになってしまう。

が、しかし・・・
期待というの?
相手の期待するものと自分の求めるものが合致していたらこんなに気楽な世界はないと思うんだけど、期待する方向性が違うとやたらと誤解とかね・・・・ややこしいことになってしまう。
相手の期待に応えるためにネットをしているわけではないから。
それこそ「あなたはあなた、わたしはわたし」なんだよね・・・

それぞれにネットに求めるものがある。
従って、サイトもパソコンもネットの人間関係もそれに応じて構築される。
出会い系のサイトを俳諧する人もいれば、それこそ飲み屋のノリなんだろか・・という人もいる。
やたらとクソマジメな人もいれば、何かを売りつけたい人もいる。
それぞれに求めるものが違えば自然と消えるだけ。

が、しかし・・・
消えない人もいる。
消えてほしい人もいる。
にっちもさっちもどうにもこうにも、こういう混沌とした世界がネットのような気がするし、だからこそ退屈しないような気もするわけで、それこそめんどーになったら電源オフすれば大抵の場合は解決するのだろう。

一番簡単なのは、必要な情報だけを収集するためにネットをする。
BBSも一切置かない。
何なら、サイトもつくらない。

にもかかわらず、年中すったもんだするわがサイト。
サイトというか、ネットね・・・
どこの誰かわからないような人からのいちゃもんアラシを含めると限りないわ。

----りんさん、書くなと言うとますます書くでしょ?

は?
ばっかみたい。
書くなと言われたら書かないのです・・・あたしは。
書いてと言われても書かないのに。
来ないでと言われたら行かないし、案外、淡白なんだよね・・・
だから、すったもんだしているようなところにも行かないし、めんどーだと友達のサイトにもめったに行かない。
相手にこうしてああしてと言われたらそれだけでもめんどーになってしまうから何もしないことが多い。

だって、なんであたしがそんなことしないといけないの?

そこなのよ・・・いつもあたしが誰かに言いたいのは。
アンタなんていなくても困らないし、いちゃもんつけるくらいなら来ないでほしいし、他人のためにネットをしているわけでもない。

でね・・・
よおっく考えたんだけど、結局、ダラダラとネット仲間が続いているというのは、どこか根底に共通項があるからなんだね・・・
来るなと言ったら来ない人・・・ってことなのかもしれない。
そんなんで、なんでダラダラのんべんだらりと何かが続いていくのか不思議だ・・・

あってもなくても困らない、いてもいなくても困らないようなガラクタのような人間関係の積み重ねが癒しなのかもしれない・・・
あー無意味。

 

 

受容

at 2003 07/09 05:19

敵がいるにはいるなりの理由があるという言葉が好き。
まさしくその通りのような気がすることが多い。
もちろんすべての人たちが仲良くしていたら、こんなに平和なことはないような気がするんだけど、それとは別に、自分という人間は敵が存在しないと、何もしないままぼっけーっとしているだけのような気がするから。
敵という存在は面白い。

敵というのは、利害関係が一致しない関係かもしれないし、互いに理解し合えないから敵なのかもしれないし、いずれにせよ不愉快な存在には違いない。
でも、敵が存在するおかげで、自分が迷路から脱出できる場合もあるし、より一層自分がクリアになる場合もあるし、自分の求めているものが見えるようになる場合もあるし、何かをやろうという意欲にもつながることもある。

酷いと殺してやりたいほど憎んだり、呪ったり、まるで何かの呪縛のように自分の行動や精神を侵食されることもある。
こーね・・・
よく誤解されるのだけれど、自分はクリスチャンではないわけ。
だから、実際のところ神さまがいてもいなくても自分は困らないし、聖地がどうなろうと自分には何の影響もないことだと思っている。
自分の性格からして、それはありがたいことであり、万が一自分がクリスチャンだったらそれこそ率先して聖地を包囲されたなどとなったら鬱々としながら敵を倒したくなってしまうと思う。
責任がないというのはありがたいことで、「ほしいなら差し上げたら」などととんちんかんで、明らかに目の前に新たなる敵をつくってしまいそうなことを平気で考えたりしてしまう。

どうして自分が理解されたくてもがくかと言えば、根底に自己嫌悪があるからだと思う。
どーっしてもゆるせないヤツって誰でも一人や二人いると思うよ。
自分の場合を振り返れば、それだけでは飽き足らず、それこそ一体自分が何をしたというのだろうとばかりに、世の中全体を呪いたいことすらある。
何もしなくても、「りんどさん、自慢しないでください」の世界だから。

不幸自慢ではないけれど、不幸の数だけは負けないような気がするし、どんなに鬱々した人たちと話していても他人の欝に負けないのは不幸自慢できるほどの欝があるからだと思う。
ところが残念ながら、不幸中の幸いというの?
自分がぼっけーっとしているうちに、不幸が通過してしまう。
本人にとっては大変なことだし、もしかするとそんなことになったら大変だと思っている人たちからすると、まさしく大変なことなのだと思う。
すると、少しだけ同情してくれていた人たちが不愉快になるんだろうな・・・
「だったらいいじゃない」というか・・・

やりきれなさはここから始まる。
つまりは、一生懸命グチをこぼしたくてもまさしく空回りでして、逆に相手のグチを聞かされるようになる。
そこまでならいいのだけれど、もっと酷いと自分を理解してくれないとばかりに怒り出す人たちが後を絶たない。
自分からすれば、やはり、「そんなのどーでもいいじゃない?」ということでも、本人にとっては必死なことってたくさんあるし、それをどーして自分が理解して差し上げなくてはならないのでしょう?
結局、何かのはけ口にされてしまうのがおち。

自分の精神状態がかき回された上に呪われて、酷いと、まったく無関係な人たちからも嫌がらせされたり・・・
妬みというのはそういうものだし、そーなると恨み言の一つや二つ言いたくなるのは自分のほうだし、ぐっちゃぐちゃに怒り心頭になることもある。
それで、一生懸命に敵に対して石をブツケようともがく。

が、しかし・・・
結局ね、自分のほうが正しくてもダメなのよ。
人間というのはそんなものだし、感情的になっている人に正論を語っても意味が無い。
癒しがほしいのは自分のほうだと思っても諦めるしかない。
今はババアだから達観しているけれど、それでもこういう現象は今に始まったわけではなくて昔からだから、多感な10代の頃でもあったのかもしれないし、それこそ泣きたいことなど山のよう。
誰かに何かをしてほしいわけではなく、単なる自己憐憫というか、癒しがほしいわけ。
つまりは自己嫌悪の坩堝からますます悪循環へと突っ走ってしまうというか・・・
世の中を呪っているとすれば、世の中全体が自分の敵だからね・・・意味も無く。
ひたすら憐れみがほしくてもがく。

で、結局、理解されないからいつも孤独なわけ。
友達もいるんだろうし、家族も彼氏もいるのに孤独・・・
今にして考えると、それが青春なのかもしれないと青臭く考えたりもするけれど、あの疾風怒濤の時代をどうやって自分が無事に掻い潜れたのか不思議になるくらいだわ。

結局、たどり着いた結論が、自分なんかを憐れんでくれるような人がいたら、神さまということかもしれない。
仏のような人かもしれないけど。
つまりは世の中にそんな人間がいることを期待してはいけないという諦めを学ぶ。

自分を憐れんでくれるというか、理解してくれるのは神さまだけという儚さを学んだ。
神さまに、「同情するなら金をくれ」とは言ったことはないけど、何でもいいから憐れんでほしいという・・・
キリエ・エレイソンの世界なのかもしれないし、とにかく憐れみ給えですから。
誰かが、「りんちゃんも大変だね」とばかりに、自分のために泣いてくれるだけで救われる。
まず、いないけど。
誰かが自分のために泣いてくれるのが癒しなんだよね・・・

というわけで、大抵の場合、すでに何かを諦めているから自分を理解してもらいたいとすら思わない。
ってことはつまり自己嫌悪がない。
敵を愛せたら、自分を救える。
ジーザスは何もしてくれない。
でも、たった一つ、自分で自分を救う方法を伝授してくれるとすればジーザスなんだと思う。
呪い殺したい相手でも、ポンと捨て去ると救われる。
敵をゆるすことにより、自分がゆるされる。
自分で自分がゆるせるようになると、嘘のように軽やかになってしまう。

受容か・・・
とにかく・・・・
癒しがほしいのなら、あたしのところではなく、教会やお寺へ行ってください。
それか、金を払ってカウンセリングを受けるとか。
誰かに勝手に石をブツケルのはやめませう。

 

 

沈みそう

at 2003 07/08 15:52

結局、誰かに理解してもらいたいなんておこがましいことは考えていないわけで、ほんの少し癒しがほしいだけ。
憐れみ・・・というか。

「同情するなら金をくれ」
という名セリフがあったけれど、そうやって言えたらすっきりするよね。
愛に飢えたる者の世界は、金じゃないから。
愛とか憐れみとか、実在の証明の難しいものばかりが要求される。
どーやって証明するのさ?
「愛は証か?」
などというセリフがあった気がするけど、こんなものを方程式にしてどうする気なんだろう。
薬を飲んだらマシになるらしいから、そーやって考えると人間なんてその程度の代物なのかもしれないし、誰かが一生懸命世話を焼いたり心配するより薬を処方してもらって薬物依存になっちまったほうが幾分早く救われるかもしれない。
しかも、金すら愛の尺度だ。

そのように考えるとすべてがどーでもいいような気分に陥ってしまう。
事実、どーでもいいようなことばかり。
それでいて、誰かが自分を理解してほしいとばかりにもがき続ける。
理解してもらいたいのは、自分が救われたいから。
誰かに理解してもらったと思った瞬間、癒されるんだろうな。
だから、一生懸命にもがく。
で、ダウンする。

理解されないからという理由で怒るのなら、話しかけないでほしいと思う。
酷く面倒な気分になってしまうから。
誰かに理解されたいと思うなら、誰も理解しないことかもしれない。
理解もできないのに理解しようとするのも迷惑行為だろう。
それなら黙っているほうが平和だ。

という具合に、欝は広がる。

もーね・・・
あたしが子どもの頃から敵が自滅するというのは、実は欝を呼ぶからとまで言われてしまった。
そーやって言われるとそーかもしれない。
自分がぶっ潰れている間に、何かが終わっている。

鬱々とぶっ潰れるわけさ・・・
そうやって欝が移り、自滅してしまうらしい。
それでいて自分は案外ケロッとしている。
理解してもらおうとは思わないから。
欝を救うには、誰かに理解されることしかないような気がすることがある。
それこそ美しいものを見て、美味しいものを食べて、脳をアクティブにする。
その瞬間、停止した心が動き出すんだろう・・・
少しずつ解放される。
萎縮した心が広がる。

だったらそれはそれでいいじゃない?
自分で自分を救えるから。

だから、癒しを求めないでほしいの。

そんなつまらないことをどうして言葉にしなければならないんだろう・・・
だから、ボロカスにやっつけられてしまう。
その程度で治るような欝なら放っておくに限る。
それを他人に移すから困る。

どーにもならないような欝?
突然、自殺したり自傷行為を繰り返したり、刹那的な生き方しかできなかったり、何かの症状が現れたり・・・
そこまでになったら、医者が何とかしてくれるだろう。
それでもダメなら、それこそノラクラとどこかを俳諧してしまうのかもしれないし、ドラッグに溺れたり・・・
それすら、どーでもいいような気がする。

ダメだ・・・
欝が移っている。

頃合を見計らったように欝が・・・
沈没寸前だな・・・

まあ、いいや。

欝が移ったほうが、歌を詠む気になれるから。
このところ枯渇していたから、逆にますます鬱々してしまう。
こうなると次から次へと欝が広がりそうな気がする。
そうなると、次から次へと欝がやってくる。

どうやったらこの悪循環から抜け出せるんだろう・・・
そろそろ夏休み・・・
バカンスへ沈もう。

 

 

ここにもあはれ

at 2003 07/07 02:52

他人事だけど、なんか見苦しいと言うか、聞き苦しいと言うか・・・
このところしばらく見かけないと思ったら、いきなり凹んでいるという・・・
理由は簡単。
外国人の彼女が本国へ帰ってしまったかららしい。
彼女というか、そこが欝の欝たる所以なんだろうけど、彼らは悪さはしないのよ。
単に、恋に恋してゆらゆらしているだけの人が多いし、それが必要になるほどセロトニンが不足しているんだろうから、それはそれでかまわない。

一番イヤなのはね・・・
「しがらみがあってね」という情けないお言葉。
本気で自分を救おうと思ったら、皆、海外へ行っちゃうぜ?
それこそ家族も仕事も放り出して・・・
それくらい逃げ場のない世界が癒しという人たちはたくさんいるし、それくらいじゃないと自分を救えないんだと思う。
なんせ孤独と絶望の世界の住人だから、常に自分が必要とされている感覚が必要なんだろうし、それこそ相手が癌末期とか、そういう刹那的なくらいがちょうどいいかもしれないと思うほどだ。
他人から見れば、いささか大人気なく、突拍子もなく、見境なく、それでもすべてを放り出してしまう。

家庭もあって、子どもも可愛い。
奥さんがいてもへいちゃら。
仕事も辞められない。

あのさ・・・
そんなつまらないしがらみをしがらみと呼ぶこと自体がすでにウザイという・・・
単なる親父のグチだ。
自分のグチを単に発散したいために、離婚となっても慰謝料が取られない程度の悪さしかしない。
彼女に振られたから、今度はバーチャルかよ!

あのさ・・・
あのですね・・・
あーあ。

あたしはあなたのためにネットをしているんじゃないんです。
世の中で一番つまらないのが理解もできない他人のグチを延々と聞かされることだと思うから日記を書いています。

中年のサラリーマンかぁ・・・

このリストラの時代、何かあればあっさり首の切られる時代だもの。
だからこそしがみつかなければならないものがたくさんあるのでしょう。
そんなことは働いたこともないあたしには皆目検討もつきません。

話を聞く前から話し出すことが見えてるのよね・・・
だって昔から同じことしか言わないし、説明しないし、寅さんが男の哲学らしいし・・・
でもさ、寅さんの良いところは家庭がないところかもしれないな。
常に哀愁が漂ってしまうのはそこでして、いい年こいて、仕事も家庭もあるような人が寅さんぶっていても、単なる自らの欝を告白するようなものであり、欝とは単に『愛に飢えたる者』の世界だから、要するに愛されているという実感がないと自分が救えないわけさ。
だから、家族により満たされない場合は、常に誰かにしがみつかれているというか、必要とされているような感覚が必要となってしまうだけのことであり、ある意味、悪さはしないけどたちが悪い。

奥さんがやきもち焼きでせっせとやきもちでも焼いてくれたらまた違うのかもしれないけれど、すでに自分がすがりつかれて振り回されたらイヤだから放置しているのかもしれないし、他人の家庭のことはよーわからん。

近頃、癒しを求められると腹が立ってきてしまう。
「りんさんは追いかけられたいのよ」と言われていた頃が懐かしい。
自分が鬱々してたら、そりゃ誰かに追いかけられるのも癒しだからね・・・
が、しかし・・・
近頃、それも無いな・・・
それほど精神的に枯渇してしまっている。

しかも、バーチャル特有の「さよなら」ってあるでしょ?
つまりはどこの誰だかわからないとか、それこそメルアドを変えたり、知らん顔したり、「あなたのことは覚えていません」とか・・・
それもね・・・
これだけネットを長くやっているとあほらしくて付き合いきれないことに気が付く。
だって、あたしはアンタなんていなくてもへいちゃらだから。
ネットに浅いとすぐにそれをやるわけさ。
要するに、誰かに追いかけられたいのね。
ところが、追いかけられることも癒しだということが理解できるようになると、勝手にやってくれとしか思えなくなる。
それよりも惰性で長く付き合っているネット仲間のほうが気楽でいいし・・・
「さよならも何度か言えばなれちまう・・・」という短歌を詠んだことがあるような・・・
あたくしはそういうのは大学時代に卒業したような・・・
アンタいくつ?
って訊こうと思ったけど、不意に同い年なのを思い出したのでやめる。
こればかりは一生治らない人は治らないこともわかったし・・・

それにしてもいつまで経っても成長しないな・・・
相手にしてやってるうちに、ちょっとは学べよ。
それか倦んだグチはどこかで同じように倦んでいる人を見つけて発散するとかさ。
そちらにしてみたら、非日常的な美しい想い出に浸りたいだけなのかもしれないけれど、こちらにしてみたらそれだけでも中年の倦みというか・・・

なんかさ・・・
そうやっていろんなものにしがみつき、老後というものを無事に迎え、鬱々したまま老いぼれていくんだろう。
それでいて、自分を本気で救わなければならないほど鬱々しているというわけでもなさそうだし、そういう状態を単に『癒しを求めている』と呼ぶ。

なーにが男みたいよ!
へっへっへ・・・
あたしはそのようなことは言われたことはありまっせ〜ん!!
ボケを相手にしているとこっちまで倦んできてしまう。

もーね・・
癒しが欲しいのはこっちなんだから、癒しが欲しいなら金を払って姉ちゃんと遊べ!
それもできない中年サラリーマンなりぃ〜!
バカにしているわけじゃないんだけど、かなりバカにしているかもしれない。

あたしが本気で鬱々してしまったら、一人で海外へでも行き、刹那的な恋でも楽しんで来ます・・・ほほほ。

でも・・
行く前から、結論は見えているから・・・
世の中でわが子以上に可愛い存在があったら、誰か教えてほしい・・・
男の代わりはいくらでもいそうな気がするけど、わが子だけはこの世の中で唯一無二だもんね・・・

娘に捨てられたら?

クラクラ〜〜〜・・・・・

 

 

娘の絶交事件とバーチャルな世界

at 2003 07/06 10:20

結局、バーチャル・コミュニケーションとしてのネットの活用は、レセプターのほうのバイアスが大きすぎて、伝達する側の意図が正確には伝わりにくいという点で、にっちもさっちもどうにもこうにも箸にも棒にも引っかからない代物だということに気が付いた。
セルフ・トレーニングというか、暗闇に目が慣れてくると、フィードバックされる反応などからある程度相手のニーズや思考のクセなどから、その人となりというものが見えてくる気がするけれど、これすらレセプターの側にバイアスがあるのが当たり前で、そうなると、しょせん一人の世界で勝手に情報が処理されているだけなんだろう。

なんで次から次へと欝やボーダーが集中豪雨のようにやってくるのか不思議でしょ?
なんででしょうね・・・
レセプターとしての自分のほうのキャパの問題なのかもしれないし、欝が移って自分が沈んだとしても、誰かが救ってくれるからなのかもしれないし、そういうちょっとしたことで救われることって多いから、相手の期待度が高まるのかもしれない。

そんなことを繰り返しているうちに、自分のほうがやたらと疲れてしまっているのかもしれない。
それでいて、どうしてネットをしているのかと問われれば、家の居心地がよいせいなのかもしれないし、何もしないでぼっけーっとしているほうが気楽だからなのかもしれない。

なにか、こう、自分をわかってほしいとばかりにあーでもないこーでもないとサイトを荒らされる。
さらっと流せる程度ならいいのだけれど、それこそ激流の中で藁を掴もうとしてもがいている人にしがみつかれたら、どうにもこうにも・・・
精神状態の悪い人は、ネットを切るべきだと思うんだけど、何となく逆なのよね・・・
ネットをつないでいないほうが元気だったりする。

娘も4年生だから、そろそろややこしい年頃かもしれない。
今まで仲良く遊んでいたと思ったら、数ヶ月前から「おや?」と思うことがあり、ある日突然娘が強烈な怒りを露に家に駆け込んできた。
何をそんなに怒っているのか不思議になるくらいだ。
大抵は泣いても怒ってもすぐに乾く性格なので、ああいう勢いのある怒り方はめったにない。
しかも学校から戻ってくるなりというのはなぁ・・・
日頃からそういうタイプであれば驚かないのかもしれないけれど、めったに荒れない性格だから尚更・・・
目を鉛筆の先で突かれた事件ですら、先生から電話が掛かってくるまで親のほうは知らなかったくらいだったし・・・
あれも、当の本人は傷にもならなかったわけだから、公園で遊んでいるうちにすっかり忘れてしまったような出来事だったのだろう。
でも、大事に至ったら大変だったということで、問題行動のある子どもの親のほうが先生と一緒にあたふたしているというのが実情だったかもしれない。

今度は、いつも一緒に遊んでいた子が、とうとうクラスで嫌われてしまい、学年が一つ上だから、その発散にうちのちびや友達を振り回す。
いつぞやなど、その子が友達にしがみつくんだろうな・・・
普通なら3人以上で下校してくるのに、その子は同じクラスの子が一緒に帰ってくれないために娘たちと一緒に下校することが多い。
ある日、どういうわけか娘だけが置いてきぼりというの?
そういうことをわざとされて、娘が怒ってそそくさと学校から走って戻って来た事がある。
その時は、一人下校は学校で禁止されているはずなので、さすがにあたしもその子にちらっと文句を言った。
だって、学年も上だし・・・

家でパーティを計画すれば、娘とだけコソコソと話したがる。
皆で仲良くすればいいのに・・・
友達への陰口がすごい。
というわけで、徐々に周囲の子どもたちから一人だけ迷惑分子として煙たがられていった過程が手に取るように見える。

おりしもネットではアラシが・・・
ネットを切っても、娘の友達が・・・
結局、誰かにしがみつきたいから、あちこちにしがみついては嫌われる。
というわけで、彼女のワガママというか、しがみつきにネをあげて、娘が切れた。
絶交したらしい。
理由は嘘つきだかららしい。
まあ、あっちに陰口、こっちに陰口、だから、個別に言われてもバレるんだよね・・・
というわけで、それがよいのかどうか知らないけれど、一斉に絶交状態に入ったのだろう。
親としては、娘を救わなければならない。

絶交してもいいよ・・
としか語れない。
可哀想とか、皆で仲良くしなくちゃダメだとか、いろんな社交上の大義名分より、まずは娘を救わなくては・・・
うちの娘って愛想がいいし、友達が多いし、めったに荒れないから、やはり最後には貧乏くじを引いてしまうのだろう。
なのに、その娘が切れるというのはよほどのことだから娘を救わなくてならない。

などと思っているうちに、娘のほうは絶交事件以外には何事も無かったかのような日常が続いていく。
学校も習い事も楽しいらしいし、週末には幼稚園の頃からの友達がやってくる。
その子の場合は、頭が良すぎて、先生と折り合いが悪くて登校拒否の経歴を持つという変わった子だけどユニークなのよね・・・
どことなく一人だけ浮いているような気がするけど、うちの主人のお気に入りのおちびの友達でもある。
絶交した子に限っては、うちのダンナですら嫌っていたからな・・・
なんかね・・・
親が口出すと面倒なことになりやすいから、あたしは何も言わないけど。

娘を救うのは簡単なのよね・・・
あちこちに窓口をつくって、外へ出す。
そうすると交際範囲が広いから、あちこちに友達がいる。
学年が違うから、絶交しても関係ないといえば関係ないし・・・
学校で不愉快な出来事があったせいで、このところ習い事もさぼらなくなったし、そのせいで急に成績も上がった。

そだそだ・・・
母も短歌をピックアップせねば・・・
思い出した。

 

 

無人島願望

at 2003 07/05 03:08

気が付けば時間が足りない。
今年も間際の駆け込み予約になるのか?
とばかりに、ダンナの休みが決まったところで旅行社へ行く。
去年と一昨年はその場で予約してしまったのだけれど、それもツアー独特の味気なさというのはうまく説明できない。
どこが違うのかよくわからないけれど、同じような滞在型の旅でも、自分で予約するのとツアーに申し込むのとは何かどこかが違うような気がする。

というわけではないんだけど、今年はSARSが怖いからと海外はやめておこうと思ったんだけど、よく考えてみたら、こんなものはどこで感染するかわからないし、SARSの発生している国の人たちでも大多数の人たちが感染していないところを見ると、特に化学兵器がばら撒かれたというのとは違うのだから、今年もまたアジアン・ビーチへ・・・

テロが発生しても、大多数の人たちは元気に過ごしているし、戦争が発生しても国民すべてが死に絶えるわけでもなく、平和な国に暮らしていてもいつ何が起こるかわからないのが実情・・・

というわけで、娘の反対をあっさり交わし旅行社へ。
なんで娘かと言うとね・・・
子どもなりにあれこれ話すんだろうな。
テロや北朝鮮が怖いとか、SARSが怖いとか、「何とかちゃんは怖いのにタイへ行ってきたんだよ」とばかりにわけのわからんことを話すようになったので説得が必要になる。
北朝鮮へのパッケージ・ツアーまで売り出されているわけで、世の中モノゴトを深く考えない人たちが多いということを思い出す。

夏休みへのカウントダウン目前のこの季節、シンガポール、台湾、北京、ハノイ、トロントなどのSARSの発生している地域のパンフは無いもののそれ以外だけでもこんなにあるのか・・とばかりに眺めていたら、予約するにも時間が足りなくなり、そそくさとパンフを眺めながらお茶するだけで戻ってきてしまった。
家で空席があるかどうかをちょこっと検索しているうちに、めんどーだからそのまま航空券を予約してしまう。
この時期になると早い者勝ちだし・・・
行きたい路線は一杯だったりするし・・・
要するに、ホテルなんかはいくらでもある。
ところが航空券の予約なのよね・・・リゾートは。
アジアのビーチだったら、とりあえずどこの国で乗り継ぐか?というだけのことで、目的地に飛び込めばよいのだから気楽。
ついでに今年はビーチをはしごしようと思ったけど、飛行機で移動するとなると、いちいちかったるい気もするし、タイの国内線となるとオーバーブッキングは当たり前だし、そうなるとせっかく予約してもムダになる可能性も高いから、滞在型にするか、それとも以前バリ島へ行った時のように島内を移動するか?などとあれこれ迷っている。
とりあえず、航空券さえあれば、どーにかこーにか現地へ着いてからでもホテルの予約などはできるし・・・

などと考えながら、昨日予約したホテルを解約する。
先にホテルを2泊くらい予約しておいてから、その先のことを考えてもよいし・・・
ほんとにいい加減になってきたと思ってしまう今日この頃・・・
そういうアバウトさも旅の醍醐味のような気がするし、アクシデントの発生する旅のほうが旅という気がするような・・・
前なんて、予約しておいてもオーバーブックで隣のホテルなどという情けなさ・・・

近頃、旅先ですらネットをしている人が多いから、「今どこどこにいるのよ」と言われてもピンと来ない。
だって、あたしには関係ないから・・・
たしかに一度接続してしまうと、どこで眺めても自分のサイトはサイトだし、ホットメールならどこで眺めても自分のメルアドだし・・・
空港でもネットをやっている人がいる時代だもの。
もっともそういうのは大半が大柄な白人のおっさんが多いけど。
仕事で使っているのかな。

というわけで、旅行の準備をしたり、カフェでお茶したりしながら、近頃、サイトの更新もマイペース・・・
それが普通だよね・・・
それでもいつどこで陸の孤島になってしまうかわからないではありませんか・・・
いきなりの海外生活で、知らない人ばかりとか?

というか・・・
カフェでも近所のカフェより、クルマを走らせて離れたところへ行くほうが気楽。
学生街だから店は多いけど、近所の店へ行っても癒されない。
そんなところで600円を支払うなら、家で好きな珈琲を飲んでいるほうが癒される。

 

 

娘の生業

at 2003 07/03 00:20

小学校も4年生になると、そろそろ自分の将来のことが気になりだす。
受かるかどうかは別として、娘を中学で受験させるかどうか親子で話し始める。
田舎の小学校で1クラスしかない。
田舎の小学校で心配していたら、学力は県内でもトップクラスと先生が言う。
それにしても算数オール1には悲鳴を上げてしまったら、このところ娘の成績が急に上昇してしまい逆に驚いた。
ってことは親の期待が自然と高まってしまう。
親バカって恐ろしい。

将来は美大へ進学させるだの、留学させるだの話がそちらへ行く。
当の本人は、素直だから、「お母さんみたいになりたい」と言う。

----お母さんみたいってどんなの?

主人が娘に問う。
なんか失礼な質問のような・・・
要するに普通の主婦ね。

----だったら、女子大でもどこでもいいじゃない?

と、あたし・・・
普通の主婦になるために、留学したり、専門教育を受けさせたり、というのは愚かなり。

----本気で絵の勉強をしたいんじゃないの?

は〜〜、親バカ・・・
娘が黙り込む。
要するに、本気で勉強したいのなら父さんがいくらでも・・という順番になる。

(アンタのために勉強するわけじゃないでしょうに!)

と、内心思うけど、怒るから言わない。
本末転倒なのよ。
娘を自由にさせてやりたい一心だから・・・ダンナにしてみれば。
生まれる前から職業選択自由の権利を剥奪され、勉強ばかりさせられてきた怨念で、娘にはあまり勉強させず、それよりもアートとかね・・・そちらのほうへ進ませたいらしい。

それよりも親のことを考えたら、無理にアートを押し付けるより、普通に受験勉強して、本業は本業として食べていく手段を身に着けさせたほうがよろしいような気がするんだけど。
女の子だし・・・
それこそ無理をさせても意味が無い。

なまじか一人で食べていけるとなったら、今度は結婚が大変になる。
仕事ってそこまで何かを犠牲にしてまでやる必要があるのか懐疑的になってしまったのは自分がババアだからだろう。
それと、美大などは職業訓練のために行くところではないと思うんだけど、どうなんだろう・・・
自分が文系だったせいか、まったくつぶしのきかない学科を選択し、いざ仕事と言っても大学を出ただけでは専門職としては話にならない。

いざ子どもの頃から音大や美大などの特殊な世界へ進学させようと思ったら、それこそそれだけ。
まさしく親バカの世界。
せっせと進学させたのはよいけれど、結局は大抵の人はごく普通に就職をすることが多いらしい。
会社に勤めたり、教師になったり・・・

女の子だから、いいんだけどね・・・何でも。
女子大時代の友達でも、いくらでも音大に合格するだろうとか、中にはコンクールで入賞したような演奏をかましてしまう人も結構いたけど、大学は普通。
趣味というのはそういうものらしい。
つまりはごく普通の日常があり、それとは別にアートの世界を持つ。

芸に才能のない自分は学問の世界を選択しただけで、それも結局、普通の主婦をしていてはあまり役にも立たない。
それでも、娘がお母さんみたいになりたいとのたまっているわけだから、それだけでもすごいことのような気がするけど。

ちびも本気だもんね・・・
つまりは、父親の言うベクトルと母親の言うベクトルの違いを本能で嗅ぎ分けている。
母のベクトルは狭いわけよ。
つまりは、将来は女子大でも行って、他人の育てた優秀な息子さんと結婚して、孫の顔が見たい。
それか、せいぜい歯医者とかね・・・手先が器用だし・・・それなら子育てしながらも続けていけるのではないかという甘い考えの下、娘の将来を考えている。
だって、娘はあたしのようになりたいのだから・・・
きちんと結婚でも子育てでもやるべきをやってから、自分のことをしたらよいのではないかというか・・・

アートは、自己表現の世界だから、これで食べて行くことを教えられないから。
大抵は、本業を別に持ちながら、何かをしている人が多い。
それこそ旅館や民宿をしながら短歌や絵を描いたり、陶芸とか・・・
生計は別の仕事で立て、プロとして活動している人たちはごく僅かしかいない。

それにしても親バカというか、差別というか・・・
奥さんには家にいてほしいのに、娘には何でもやりたいことをさせたいのか?
そりゃないだろう・・・

まあ、若いうちはやりたいことを精一杯やったら、それとは別にきちんと自分の家庭を持って子どもを育ててほしいと思うのは自分がババアになったからだろうか・・・
それとも自分の人生観なのかもしれないし、それこそ学問やアートなんて終わりのない世界だし、一生ものだから・・・
少しくらい若い頃にかじったからといって、実りの季節がいつになるかもわからない。
結局、自分が確立されてもいない疾風怒濤の時代に何かを求めても堂々巡りのような・・・
それがよいのかもしれないし、プロとして生業を立てている人もいるのも事実だけど、親バカが娘の将来を考えれば、それこそロマンなんだろうな・・・娘のために何かをしてやりたいというのも。
仕事というのは他人のために何かをして報酬を得るわけで、アートは自己表現の世界だからそれで報酬が得られるというと手段が狭いし・・・
ベクトルが違う。

一つわかっているのは、娘が男の子じゃないから夢があるような気がすることかもしれない。

 

 

一休み

at 2003 07/01 02:25

近頃、ポエム系や短歌のコンテンツなどは封印気味であります。
今までとは変わらないのだけれど、コミュニケーション・ツールを封鎖しているから封印されているのかもしれないし、その自由度の無さというのが今の自分の心境に近いのかもしれない。

つまり・・・
精神に自由がないから。

朝からめずらしくワイドショーなどを眺め、タトゥーの話題をぼっけーっと見る。
歌番組をすっぽかし、カラオケボックスで歌う。
何やらつくられた作戦のような気がしなくもないけれど、やりたい放題ってところが彼女たちの魅力なんだからどーでもいいって人と、ワイドショーのスタッフの一斉批判と、自分とは無関係な世界を横目に朝を過ごす。

インターネットでも彼女たちと一緒に歩きたい人たちを募集していたみたいだけど、結局撮影は出来ず、唯一銀座を散歩したのがプロモートだったような気もするし、旧くは郷ひろみの渋谷のゲリラライブも犯罪ということで決着したみたいだし、どこまでも抑圧された社会は続く。

もっと旧くは井上陽水とか?
彼もせめてはSARSが発生する前のアジアを散歩したおじさんというだけのことなのかもしれないし、自由を求めてお気楽な人生を選択した人たちも気が付けば今は御大と呼ばれるお年になってしまっているし、それを考えると、人生なんてその程度の代物のような気がします。

つまりは、皆が一斉に年寄りになってしまったということに、今日の朝、突然気が付いてしまったという・・・
正確には昨日の朝か・・・
かつては若かった人たちが一斉に年を取ってしまったのを確認した朝、自分には最早自由などは存在しないような人生の諦めにも似た第一歩を踏み出したとしか語れない。

1962年生まれの自分は、すでに去年の暮れに40歳を無事に迎え、その日の朝、もう自分は充分に長生きしたということを堪能していたのであります。
だからね・・・
60歳まで生きた人なら、そこまで長生きしている人に今さら何を同情したらいいのかわからないのであります。
それをそのままストレートに語ると、年寄りってめちゃくちゃ怒り出すのね・・・
というか、今までそれを語って叱られたことがないということが奇跡なのかもしれないと不意に気が付いてしまった。

若いということは足かせがたくさんあって、実に不自由なのよ・・・
やれ受験だの就職だの、年頃になれば結婚とかね・・・
そういう生物としての義務を果たすべく、実に不自由な生き方を選択せざるを得ないような立場にある。
つまりは、どうにか一人で生きていけるようになるという課題に立ち向かわなければならないわけで、それだけでも窒息しそうになりながら人生に自由が無いことを思い知る。

人生も後半になれば、すごく自由になるような気がしていた。
とりあえず、子どもを一人産んで、人間として人類に貢献したような気がするし、親にも迷惑かけず、逆に行く末を案じながらどうにか無事に生活をしている。
すでに子どもとしての義務を半分以上は終えているのではないかと思っている。
トイレの中まで一緒じゃなければならないという過酷な子育ての時代も無事にクリアし、今はどうにか娘も順調に育っている。
生活もそれなりに安定している。

自分が本当の意味で自由になるのはこれからではないかと思っていたんだけど、どーなんだろう・・・
近頃すっかり気が滅入ってしまっている。
年寄り特有の子どもに迷惑をかけない生き方とかさ・・・
たしかに迷惑かけられたらイヤだけど、それとは別に呪縛霊のような存在のような気がして、それが息苦しいことに気が付いてしまった。
迷惑をかけるのが当たり前という前提条件がそこには存在し、いつまでも親としての自分しか存在しない親という存在にいささか窒息してしまったのであります。

いいんだけどね・・・
他人がどのように生きていようが勝手だ。
自分には微塵も関係のない出来事であり、それが正しい余生と呼ぶのが世間だとすれば、自分は何のために子どもを育てて生きているのかわからなくなってしまったのです。

子どもを産んだ時の自由な気分というのをどうやって表現したらいいのかわからないのと同じように、こんな憂鬱な気分すらうまく表現できない。

自分が消えてなくなるようなメルトな感覚をどうやって表現したらいいのかわからない。
それこそまさしく精神の自由というものであり、物体として存在している自分を凌駕するものであり、それが今まさに窒息しそうになってしまっている。

まあ、社会に押しつぶされて、けちょんとなり、それでいて、いけしゃーしゃーとのんびり生きている自分という人間のことを考えると、そのうちどこかで復活しそうな予感もするんだけど、気が付けば、皆、おじさんですな。
ほほほ・・・
社会に対する責任を目一杯背負いながら、それでもいつかはボロ雑巾。

そんな人たちを横目に観察しながら、40代女ざかり・・・
なんかね・・・肩の荷を一つ降ろした。
そういう意味では、自由なのかもしれないけれど、最早それは過激なものではないな・・・タトゥーのような。
彼女たちの背負っている不自由さを考えると、やはり自分は自由なんだろう。

ちょっと一休みして考えよう。


人生を自由に生きてかまわないそれが怖いと叫ぶ声聴き

 

 

 

 

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