ネットで一番気をつけなければならないのは、ネットジャンキーたちの罠だと思う。
宮部みゆきの『R.P.G』を読んだことはないけれど、読まなくても何となく理解できてしまうところが怖い。
「インティメイト・ストレンジャー(親密な見知らぬ他人)」の世界・・・
匿名性でありながら、匿名であるが故に親密な人間関係が形成されてしまうという・・・
擬似家族?
このところ、あたしは殺伐とした想いから抜け出せずにいる。
いわゆるネット人格というか、シェリー・タークルの語る「オンライン・ペルソナ」により、簡単に年齢・性別、地位・役割、物理的な空間や肉体、社会的なスティグマ(烙印)からも解放されたペルソナが徘徊しているのを垣間見たからにすぎない。
ネットで何かを実証するのは困難か?
あるハンドル名により、別の人格を造り出す。
ネカマになってみたり、違う地域の住人になってみたり、それこそ職業や年齢やらいろんな別人をクリエートしてしまう。
そして、もっと怖ろしいのは、その人格を通してこころの交流が生まれしまうからなのかもしれない。
架空の人物であるために、そのペルソナは永遠にバーチャルな世界から出ることができない。
それでいて親密な人間関係が形成されてしまっている。
どこにもバーチャルな世界など存在しない。
それでいて、仮面をつけた人たちは相変わらずネットの闇を徘徊している。
仲良くなったとしても、それが架空の人物だったとしたらどーする?
ずっと主婦友だと思って接していたら、実はどこかの兄ちゃんだったという・・・
せっかく仲良くなっても、その仮面を被らなければどこの誰かわからない。
リアルになるとわからないということではなく、ネットの世界でもハンドル名を変えて、別のパーソナリティになってしまえばわからないのよね・・・
ネットの闇に慣れてしまうと、実はそれが同一人物であるということが何となくわかってくる。
最初は気が付かないでヤリトリしていても、長くヤリトリしているうちに何となくわかってきてしまうというか・・・
あるハンドル名で親しくなって、それがまったくの本人から乖離した人格であった場合、それとは別の本人像に近いパーソナリティとして現れれば、すごく親密であるはずの関係がまったくの見知らぬ関係になってしまう。
ハンドル名が消えればその人格は消えてしまう?
ガイアックスの場合は、サイトがすでにネット人格をクリエートしている部分がある。
もちろん年齢・性別にしても、改ざんしようと思えばいくらでも実像から乖離した人格が形成できるし、その人格を通してコミュニケーションが成立してしまう。
が、しかし・・・・・
----サイトがなくても関係ねーだろ?
----そだね
よく考えてみたらサイトがあってもなくても実は関係ないという関係性の友達がいる。
実は会ったことはない。
が、しかし、リアル・モードというの?
リアル・モードにならざるをえない関係というのが存在しているために、あたしのネットライフも落ち着きを取り戻したという・・・
共通の知人が存在していたり、自分の帰属する世界(同窓生とかね・・)の住人だったりすると少なくとも架空のペルソナを通したヤリトリというのが酷く滑稽に見えてしまうというか・・・
そーいう人たちは、サイトがあろうとなかろうと、BBSにカキコがあろうとなかろうと、メールを書こうと書くまいと、すでにバーチャルな関係がリアルな関係と変わらないのよね・・・
そういう関係性の問題に気がついたとき、あたしのネット不信も自動的に消失していた気がする。
が、しかし・・・・
一番殺伐とした気分に襲われてしまうのは、相変わらずネットにはネット人格が徘徊しており、それぞれの人格(ハンドル名など)を通してしかコミュニケーションが成立していないような架空の人間関係の磁場に入り込んでしまったときなのかもしれない。
永遠にバーチャルという闇の世界から出られないペルソナが徘徊しており、擬似家族、擬似恋人、擬似友達が形成されている磁場へ引き込まれた場合、結局は妄想だけが形成されてしまう。
ネット妄想・・・
実は見知らぬ他人なのに、形成されてしまう親密さ?
AさんとBさんは同一人物なのだと説明しても、ハンドル名が違うから関係ないと言われてしまうとどーやって答えてよいものやら答えに窮する。
完璧にネットジャンキーの世界だ。
あたしは、架空の人物ではないです・・・
それを説明する必要性に疲れを感じる今日この頃・・・
たしかに架空の世界の住人ばかりを相手にしてたら、疲れるよね・・・
彼らは病気だ。
哀れんでやってくれ・・・
(『屁理屈にっき』
2002/05/09より)