Rin's Diary
September, 2003
(No.1)

 

CGIか手書きか?

at 2003 09/07 03:32

今日も今日とて・・・というか、すでに昨日の出来事になってしまっている。
おそろしいほど短歌関係の本を買い込み、読み漁っている。
読んでは詠み、ついでにメモ帳を買ってしまった。
今までは本に書き込んだり、住所録のメモ欄に書いたりしていたんだけど、それも・・というか・・・・
家にいる時には箱があるので、CGIを使ってちょいとアップすればよい。
外出しているとそういうわけにもいかないし、歌というのは気分次第のところがあるからすぐに忘れてしまう。
浮かんだらそれをメモするくらいじゃないと、逃げてしまったら記憶の彼方だ。
逃げてしまっても何も困らないけど。

メモを眺めると面白い。
自分の歌を読んで、ドキドキしてしまう。
あまりにも下手だからだ。

CGIとメモの違いは、メモだとやたらと修正してしまうなど、言葉選びに余念がなくなる。
CGIだと軽く直すことはあっても、詠んだこと自体を忘れてしまいやすいので、何となく自分の歌であって自分の歌ではないような気がする。

自分のメモの歌をアップしようと思うんだけど、これがなかなか面倒な作業。
ワープロ入力と化してしまうからだ。
歌だと思うと勝手に手が動く。
ワープロだと思うと面倒になる。
なんて正直なんだろう・・・

CGIでアップした歌を原稿用紙に写す作業はもっと面倒。
でも、こちらのほうが幾分マシかもしれない。

ペンを持っても勝手に手が動くし、箱に向かっても勝手に手が動く。
でも、箱の文字は自分の文字ではなく、その分、テキスト感というか、どこか機械なんだろう・・・無意識のうちに。
手書きだと何となく文字の形とか、雰囲気のほうが気になってしまう。
習字じゃないんだから・・とは思うんだけど、文字というのは大抵は自分のためではなく他人に見せるために存在しているものだから、気が付かないうちに綺麗に書こうとか、読みやすく書こうというか、文字そのものに注意が向くように訓練されてしまっているのかもしれないと思うほどだわ。

だから、メモをCGIに写す作業は捗らない。
なんか雰囲気違っていたこともあるしなぁ・・・以前。
どちらが自分っぽいのか考えてみたんだけど、よくわからなくなってしまった。
自意識過剰に陥るな・・・・・・手書きだと。
いかにも書いたものだからなのかもしれないし、シャイな人の気持ちが理解できるような・・・
機械よ、機械・・・・なんて冷たいんだろう・・・・というか、クリックしたら勝手にアップされてしまうわけだから、詠んだことすら忘れてしまう。
下手でも上手でも関係ないもんね。
なんか、自分であって自分でないような・・・
だからこそ、恐ろしいほど詠めるのかもしれない。

が、しかし・・・・
読んで目を肥やさないと。
それがシビアに自分に向けられた瞬間、何かがフィードバックされるんだろうし、どんなにシビアであっても電子文字だと全然気にならない。
ただし、それがよいのかわるいのかはまったくわからない。

あっさり認めたほうがいいのかも。
自分の短歌は単なる電子文字の産物であると。
でも、写真を勉強するには年を取りすぎていたから、イラストにしてしまったという英人さんの合理性を考えると、忘れてしまった漢字を広辞苑で調べながら歌を詠むよりパソコンを使ったほうがいいな。
たまに発生する変換ミスはともかく、歌にリズムがある気がする。

 

 

溺れるほどに生活してみたい

at 2003 09/06 03:26

鈴木英人さんのイラスト。
憧れる人が多い。
見慣れた絵だ。

ポルシェのスピードスターがさらりと停まったアメリカ。
おそらくは、日本人がアメリカに求めたのはこの雰囲気なような気がする。
開放感と俗っぽさとそれをアートにしてしまう感性。
旧き良き時代なのかもしれないけど・・すでに。

どこが違うかというと、金じゃないんだよね・・・
カラッとしているところなんだと思う。

実際のアメリカ人ときたら、それこそ健康のためにダイエットが必要だと思うような人が多いし、やたらと警戒心が強かったり、カラッと陰湿さと怠惰さとを同時に感じてしまう気がすることが多いけど、実際のところわからない。
それくらいいろんな人たちが存在しているのかもしれないし、それでいて英人さんのイラストの世界はアメリカという雰囲気なんだよね・・・

なんで突然そんなことを思ったかというと、和歌のせいかもしれない。
自分は少なくても短歌向きの性格ではないもの。
大体、短歌なんてものは、私のようにズケズケと言いたいことを言える人間には必要ない。
それこそ器用だし、どんな風にも詠めるし、数だけは多い。
やまとことばは嫌いではないけれど、どうも古典のウェットな雰囲気は自分には馴染めないような気がするし・・・

『サラダ記念日』が売れたのは、現代的な短歌だったからだ。
少なくても精神が違う。
カラッとしているもの。
短歌からウェットな部分を消し去っている。
そこが違うような気がする。
それがよかったのよね・・・

つまりは、こころが違う。
それでいて、とても現代の日本人的だ。

もう、「こーあるべき」という時代ではないな。
そんなことはわかっていて、どーしても「こーあるべき」だと思ってしまうのは精神だからだ。
理解するより理解されたい人たちが多いからかも。

そこに起爆剤のように何かを落とすのが現代アートの世界なのかもしれないし、それでいて、タフなんだな・・・
「自分はこーである」というところがはっきりしているもの。
生活すべてが自己主張というか・・・自分の世界に満ち溢れてしまっている。

 

 

世界中落ち日の色の変われるをゆらり太陽追いかけてみたい

at 2003 09/05 01:54

うれしいな・・・
何がうれしいかというと、まったく知らない人が自分の歌から何かをインスパイアしてくれていると思ったら、それがとてもうれしい。
フィードバックの問題なんだろうな。
自分でさえ詠んだことも忘れてしまっている歌が多い。
それを忘れた頃にフィードバックされると、歌を詠んでいてよかったという気になってしまう。

そうなのよね・・・
自分のことを考えたらわかるじゃない?
好きな絵や写真、詩や短歌、その他諸々小説など文学やアートの世界は作者じゃないのよね・・
もちろん、作者に興味を持つ人たちはたくさん存在するかもしれないけれど、自分にとって大切なのは作品だ。

どうしてかわからないけれど、吸引されてしまう世界がある。
それが何なのかわからない。
それでいて、子どもの頃などはその意味さえもわかっていない。
それでも記憶の彼方に残っている。

要するに、自分はまだまだ未熟だ。
自分という存在を求めているからかもしれない。
うまく説明できないけれど、そういう気がする。
自分という存在は名前により決定されるわけではない。
気配なのかもしれないし、存在なのかもしれないし、魂とか精神とかそういう言葉は使わないけれど、自分という存在は今ここに存在している。
つまりは、自分という枠を取り除いたとしても、おそらくは存在している自分というものが枠に収まりきらない自分なのかもしれないと思うほどだ。

 

 

脳がまだ拒否しているな・・・

at 2003 09/04 05:04

サイバー上のロール・プレイングは終わり。
己を知るためには少しは役に立ったような気がするし、ネットが自分に与えてくれたものは大きい(と思う)。

エクラにサイトをつくったとき、というか、もっと遡ればネットを始めたときから、ロール・プレイングが自動的に始まった。
普通の主婦という役割だ。
もちろん自分は実生活でも普通の主婦なんだけど、普通の基準というの?これがよくわかっていなかったのかもしれないと思う。

次には、臨床かな・・・
これは、ひたすらえぐい。
いざとなれば自分の飯の種とは思っているけれども、何もないのにあえてその世界に入ってしまう気にはなれない。

ロール・プレイング中に、自分が何を思い、何を感じたかは、この日記を遡れば克明に記してあるだろう。
それこそ、「おまえは何様だ」とか、「りんどさん、自慢しないでください」とか、それこそ嫌がらせや誹謗・中傷やら、ろくでもない話ばかりだ。

その中で、自分が何をキャッチしたか?
ネット歌人としての自分だ。
ところがいざ階段を上ろうとしても、なかなか歌人しての自覚が乏しい。
脳が階段を上れない。

そろそろ下手な短歌でも2400首を越えてしまっている。
結社にも入る。
雑誌にも入選した。
もともとが同人の世界。
歌を詠んでいるかぎり、歌人であることには違いない。
優れた歌人もいれば、無名の歌人もいるし、それでも和歌の好きな人たちはたくさんいる。

自分はもともと歌人になりたかったわけでもなく、むしろ自分とは無縁の世界だ。
興味もないし・・・
テニスを趣味にするか、和歌を趣味にするかの違いだろう。
そんなことより、ピアノや声楽を趣味にしたほうがマシ?
いずれにせよ、趣味だからさ、生きるに必要とは思えない。

こーさ・・・
今に始まったことではないんだけど、知らない人に研究していたとか、あるいは現役の頃でもしているとかという話をするのが苦手なのよね。
例えば、研究室とか、仲間とか、親しい友人だったら、ス〜ッと脳が階段を上ってしまうから、何となく違和感なくそこに存在してしまう。
ごく自然に研究の話やつまらない世間話をしながらのんびりしている。

でも、知らない人たちにそういう話をするとかったるい。
そういう感覚は自分だけではないんだろうけど・・・
主婦という肩書きはマルチに通用するから、ものすごく便利なんだけど、ものすごく自分を限定されてしまうから、時にウザイと感じることもある。
のんべんだらりと主婦を続けているか、それとも自己解放の道を歩むかは人生命題なのかもしれないし、もちろんそんなことは自分だけではないんだろうけど、そこのギャップを埋めるのが下手な人たちが多いということなのかもしれない。
かく言う、自分も下手だし、下手すぎかも。
黙っていたら通過するから、どうということもないんだろうけど。

専門の世界には、「知っていて当たり前」ということが多すぎる。
普通に考えれば、知らなくて当たり前なんだけどね・・・
というわけで、脳をごく自然に階段を上らせるために勉強をしているのかもしれないな。

知らなくて当然なのよね・・
だって、もともと専門じゃなかったんだから・・・
まあ、いいや。
いずれにせよ、なんでも歌にしてしまうというのも才能かもしれない。

 

 

短歌ナルシズム

at 2003 09/03 00:38

結社誌と商業出版系のライター本を読み比べながら考えている。
当たり前なんだけどね・・・結社誌というのは商売じゃない。
文字通り結社のための雑誌。
小売しているわけでもない。
単なる同人誌。
発行部数も少ない。
それに対して商業系というのは金だから、金の匂いがしないことにはどうにもならない。
発行部数が少なければ廃刊になってしまうし、出版しても損。
だから、常に受け手のことを考えながら書くほうも書いている。
タレントの書いたテキストなどは誰かがリライトしていたり・・・
つまりは、読みやすくないと売れないから。
何を書いたらよいのかも、案外、自由がない。
企画する側とOKを出す側が一緒でもダメらしい。
常に、誰かの客観的意見が大切となるのは失敗しないためだ。

短歌は失敗してもいいのよね・・・
自費出版や結社誌などは売れなくても困らない。
会費という名目で集めているから、損にならない程度に発行していけばよいのだろう。

というわけで、酷くのんびりした気分になってしまっている。

サイトも同じだなぁ・・・と思って。

クールの身勝手さ?にうんざりして、今度はロリポップ。
いたれりつくせりだもの。
いちいちサーバにメールを書いて、.htaccessのことやらblogのことを考える必要もなく、先に与えられる。
サイトのつくれない人でも、今度は雛形。
インスタントでサイトがつくれる。

のらくらとしたユーザは、簡単に乗り換える。

短歌でも、売れないと困る世界もあれば、売れなくても困らない世界がある。
売れるものをつくっていくか、売れないものをつくっていくかも自由なんだろう。
商売というのは売れたらいいのよね・・・
感覚的な世界でもある。

知が働けば自然と概念として消化されてしまうし、こころや情だと常に”人”だし、個人。
自分であるか、概念であるかは、ずいぶん違う。

こーね、常に公に束縛されていると、個に立ち返る瞬間というのが大切になる。
個に立ち返るために歌なのかもしれないし、だから自分史の世界とまで言われているんだろうし、それでいて詩というのが国の記憶であるというパスの言葉も考えさせられてしまう。
常に個に立ち返る時間が必要というのもこの国の特徴なのかもしれないないな。
集団の高揚としての詩の世界と、個に立ち返るための歌の世界は、ルーツが一つでありながら咲いている花が違って見えるようなものなのかもしれない。
実際、接木してあると違う花が咲いているし・・・
植物ミステリーの世界だわ。

まあ、結社のサイトを眺めるといささか排他的なような気がするし、それでいて案外のほほんとしているというところが個に立ち戻り空間ということなのかもしれないな。

が、しかし・・・
個が確立された社会で短歌というのはヘンだよね・・・
こころをつなぐから短歌というのもヘンだ。
集団の高揚というのは詩だ。
だから、抽象概念も言葉の冒険も可能となる。

知へ上るか、情へ落ちるか・・・
歌はムズカシイ・・

 

 

戦争なんて知らないのよ

at 2003 09/01 23:53

地獄を定義しろと言われたら、「生きるに必死な人たちの住んでいる世界」としか語れない。
自分の想像力がお粗末なのかもしれないけれど、なんとなくそういうイメージ。
自分が生き残るためなら何をやっても許されると勘違いしている人たちの住む世界だ。
平和な世界なら狂気や犯罪としか語れないことでも戦争の記録というのはおそろしい。
子どもたちにその人たちは何を語りたいのだろう?
泣き止まない赤ちゃんが味方の兵士に殺された話や、トカゲを食べ飽きた人が人間を食料にしたという話だろうか?
日章旗を振りかざす日本兵の姿はすでに狂っているとしか映らない。
つまりは自分が実際の戦争を知らない世代なのかもしれない。

時に知らないということは救いのような気がすることがある。
あらゆる苦しみや不幸を体験した人たちは、その”かごと渦”を誰かに伝えようとする。
ウザイ。
どこかへ消えてくれ。
悲惨な戦争の記録をどうして公開するのだろう?
そこから戦争の姿を学んで今さらどうしろというのだろう?
そんなものは要らない。

どうして他人にそういうことを語るかと言えば、単に自分が救われたいからだ。
地獄を徘徊するということはそういうことで、自分が救われたいという欲求だけが強くなる。
自分は冷たい人間だろうか?
ある意味、そうかもしれない。

ちょうど10世紀くらいに日本に仏教思想が入ってきて、そこには天国と地獄が描かれている。
夢を通して、自分の死後にたどり着く世界を誰かに伝えるという念仏結社まで存在していたらしい。
死んだ後の天国と地獄をこの世の伝えるという誓い。

死んだ後のことなど考える必要もなく、この世の中には天国と地獄が存在している。
地獄のおそろしさを伝えるということは、地獄をいつまでもこの世の中に存在させるということのような気がする。

たまに、誰かの狂気の世界へ引き込まれそうになると、そこの荒涼とした心象風景から必死で逃げ出したくなってしまう。
殺伐とした世界。
癒しや静けさもなく、ひたすら疑心暗鬼と人間不信。
そして、自分が助かりたいというエゴだけが存在し、他人を攻撃する。
他人を攻撃するならまだしも、他人から攻撃されているという被害妄想だけはにっちもさっちもどうにもならない。

そこから解放されたときのホッとする気分はなんとも言えない。
ホラー映画を観終えて、映画館を出たときの感覚に近い。
それが夢や映画だったら幸せな気分になってしまう。
が、しかし・・・

今でも、この瞬間にも、誰かがどこかでそういう地獄のテンションの中を徘徊しているのかもしれない。
そういう現実もある。
同じ瞬間に、同じ地球に生きているのに、どうしてこんなにも人間は違うのだろう?
もしかすると、通り行く人たちでですら違う。
それでいて、人間なんていつの時代も変わらず、それでいて、同じような状況・かごと渦であったとしても違う。

行き着くところ、宗教へ走ってしまうというのはそういうことなのかもしれないな・・・
自分的にはあまり宗教的な人間だとは思えないけれども、それでいて、常に自分の救い方を考えたりしている。
どうせ1度しかない人生なら、パラダイスの中で生きて行きたいから。
何度生まれ変わっても、パラダイスさ。
ほんとか?

 

 

内観報告の先・・・

at 2003 09/01 01:30

今日から娘の学校が始まる。
いい加減に早寝しなければと思いながら、あれこれ迷っている。
それがさほど大切なこととは思えないけれど、何かをキャッチするような感覚は大切だという気がする。

次にはサイト更新ジャンキーとなってしまうのだろうか・・・
こうなったらどーとでもなれというお粗末な気分でもあるし、サイトのテーマを決めてきっちりしたサイトだけになってしまうと、一体、誰が・・というか、どこをゴミ箱にしてよいのか困る。
要するに来訪者のことなんてまるきし考えていないし、サイトをつくるというよりも自分の書きたいことを書きたいというだけでつくったサイトだもの・・・それなりに自分的には使い勝手がよいだけのことであり、それをあえてまともなサイトをつくろうと思っているところに一緒に並べても仕方がないような・・・

つまり、次なるステップへ進むためには、捨てていく作業が待っているわけで、何を書くか?ということより、何を書かないか?ということを決めなければならない。

たとえば、こんなダラダラとした徒然日記の中にはいろいろな要素が含まれている。
日常生活から、サイバー上で発生したトラブル、おもしろおかしく軽く書いているものもあるし、真面目に書いているところもある。

誰をターゲットに書いているのかといえば、”ジャンキー”だ。
つまりは、誰の言うことが本当なのかわからないとか、今、自分がコミュニケートしている人物が実際には女性なのか男性なのかわからないとか、それはいわば、RPGのようなもので、実在の存在とは乖離しているのかもしれない。
しかも、時代の風潮で、そういう傾向はますます強くなっていく。

----早く寝ろ

・・・・・・・そーなんだよね・・・・すべてこの言葉の中に含まれてしまう。
つまりは、RPGを仕掛けてくるようなジャンキーを相手にしていると、すべてのサイバー上の人間に対して同じような感覚が発生してしまいやすくなる。
一人に対する疑問や疑念や疑い、あるいはもっと言ってしまえば被害妄想、人間不信などが自分の中で拡散してしまう。

つまりは、虚構の世界だから。
誰の言うことが本当なのかわからないという感覚は、誰かの妄想や虚構の世界に巻き込まれているわけで、ネットというのがしょせん一方通行社会であることを考えるとそれもまた仕方がないような気がする。

・・・・・・というネタを新しいサイトには書きたくないわけさ。
ゲームの中の出来事をせっせと書いても無意味だから。
それでも、ジャンキーネタというのは、今日は勝ってうれしいとか、明日こそボスキャラを倒そうとか、”ゲーム”の話をしているのかもしれないし、どうしてそういうことを書くのかといえば、内観報告なのかもしれないし、モニターみたいなものなのかもしれないし、とりあえず、自分のメンタリスティックな部分の観察日記だけは残しておこうというか・・・
どこで役に立つかわからないし、今の気分を明日思い出そうとしても無理だから。
今のことは今しか書けないし、あの時自分はどういう風に思っていたか、とか感じていたか、などということを後になって思い出そうとしてもどうしても思い出せないことのほうが多いし、それを述べよと言われても説明に困るんだよね・・
だから、記録を残しておくと、自分で自分が分析しやすくなる。

そこから次なるステップを考える作業というのがね・・・
なかなか大変なのであります。

 

 

 

 

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