Rin's Diary
June, 2003
(No.2)

 

おバカですから

at 2003 06/20 00:25

ようやくサウンドをタトゥーからゲッツ&ジルベルトに戻し、平穏な日常のリズムが戻りつつある。
ちょっとしたお祭り気分かも・・・
短歌の新人賞や歌壇賞などを眺めながら、応募しまくろうという意気込みがあるから。
いわば平凡な日常の中の非凡であり、宝くじを買うより馬券を買うより元手も掛からず楽しく遊んでいられるようなものだ。
ギャンブルというのはそういうものであり、金が欲しくてギャンブルをするような人間はギャンブルの醍醐味を知らない。(と思う)

人間はどこまでも平凡な中に埋没し平穏な生活が続くことを望む。
年中生存の危機に晒されているようではたまらない。
それでいて、平穏な生活が続いていると、どこかで何かが鬱積してしまう。
アメリカの様子などを観察していても、気のせいかもしれないけれど、10年に1度くらいは戦争や地域紛争に介入しているような・・・
いわば攻撃性の発露なのかもしれないし、どうしても世の中が一気にきな臭くなる波というのがあるようだ。

その波が去れば、バカンスの季節があり、バカンスが終われば新学期?
いずれにせよ、平和な夏休みを過ごしたい。
テロリストにも休暇があることを願ってやまない。
9月のテロやら航空会社のストやらを考えると、なんかね・・・
日本だと春闘みたいなものなのかも。
無意識のうちにそういうダイナミクスに翻弄されてしまっているかのようで、世の中には南半球もあれば日本のように春が新学期の国もあるのだから、自分の万年時差ぼけはサウンドの聴きすぎが原因だったりして・・・
それでいて、春には魔の桜ブルーの季節があり、その時期のブルーな気分はどうやって表現してよいのか毎年悩むほどだわ。

雑誌への投稿を考えると、3ヶ月ずつずれ込むらしい。
6月に投稿すれば9月の掲載予定だし、9月に投稿すれば12月号なのだろう・・・
どうやっても時差ぼけた世界なので、今の季節に秋の短歌を詠めるのかな・・などと思いながら、雑誌を読む側としてはお月見の季節に紫陽花の短歌などを眺めていても意味はない気がするし、そこのところってどうなっているんだろう・・・
今もってして詳しいことはわからない。
だってまだ投稿してないから。
応募はしたけど。


なんかね・・・
ジャンキーにはうんざりなのですよ。
男か女かもわからない、ネットでは何かを実証するのは不可能だとかおバカなことを主張するような人たちには心の底からうんざりしてしまっている。
たしかにネットには匿名だと思っておバカをする人たちが後を絶たないし、ストーカーの心配もあるし、どこかプライバシーがありそうでなさそうな世界でもあるし、個人情報がバレないと思っておバカをしている人間も後を絶たない。
でも、もうそういう時代ではない気がする。

AOLが日本で人気がないのは文化が違うからかもしれない。
だってアメリカってたしか戸籍がないんじゃなかったっけ?
よく知らないけど。
移民の国だから、それこそ国籍すらわからない。
名前を変えている人もめずらしくないし、明日には本国へという人間もめずらしくないかもしれない。
正確な国勢調査など期待できそうにないという文化的社会的背景があるから、名前を変えてしまえばどこの誰だかわからないということに対して違和感がないんだろうな・・・
匿名というわけではなく、そういう感覚なんだろう・・・実生活でも。

狭い日本・・・
どうやって考えても無理な気が・・・
しかも横のつながり社会だし・・・

というわけで、めっきり静かになったわがサイト。
なんで次から次へと嫌がらせが発生するんだかまったくもってして懐疑的。
それすら過去のことのような気がする。
あちらからするとこちらもジャンキーなのかもしれないな・・・

なんかね・・・
いいんだけどね。
どうせりんはおバカですから。

さあ、おバカはせっせと古の歌集でも読んで勉強しよう。

 

 

気分次第

at 2003 06/18 03:34

歌を詠むのがイヤになるくらい歌のことを考えているな・・・今。
酷い矛盾を感じながら、それでもそんな感じ。
一つのことに没頭しようと思うと、またダンナがうるさい。
やれ庭がどうたらこうたらとか、犬を飼うだの、親の見舞いに出かけろとか言い出す。
なんでも好きにやってくれ・・としか言えない。
要するに家のことをしろと言いたいだけで、しつこく絡んでくるような気がするくらいだわ。
なんかね・・・
うんざり。
それでいて一人になると、世の中のせちがらさというか・・・いい加減な人間ばかりに囲まれているような気がするし、それもまた不安だ。
主婦ほど気楽な仕事はほかに無いだろう。

ノートに書き写した歌を見せて、
「見ろ、この涼やかな詩を」
と言いたいのはやまやまなんだけど、逆にやたらとせこせこと家のことなどを言い出しかねないので止めておく。

家庭に入って10年以上経過すると、社会との接点がダンナや子どもを通してという風にどうしても狭くなってしまう。
外に出ているから広いというわけでもないけれど、自分の世界がキープできない。
詩を詠むくらいは許されてもよいのではないだろうか?
サイトをつくるくらいなら、外出するわけでもないし・・・

たしかに生活に困るわけでもなく、おそらくは老後一人になってしまったとしても、誰も心配してくれないような気がする。
何が不満かわからない病が始まる。
まるで寡婦のように、必死に社会との接点を見出さんばかりに歌を勉強している。
文字通り必死。
結局は子どもにしがみついたり?
なまじかしがみつくものがあるからダメなのかもしれない。
かといって何も無ければ鬱々しながら生きて行くのだろうか?
何かあっても鬱々するのだから、何も無かったらもっと鬱々しそうな気がする。

静かに歌を詠んでいるだけでもいいんだけどね・・・
なんでこんな風になってしまったのかわからないけど、あと3年くらいかけて鬱々としながらコツコツ短歌を勉強したいと思ってしまっている。
その後のことまではわからないけれど、今月は歌葉の応募の締め切り、9月にはまた何かがあってという具合にその手の募集は未来永劫ありそうなので、それに向かって鬱々と作業を繰り返すことが日課になりそう・・・

明日になればまた気が変わるかもしれない。
流れだからな・・・

 

 

断片的に忙しい

at 2003 06/16 01:44

このところやる気になっている。
自分がやる気になったからといって、何がどうなるものでもないけれど、やっぱり何もやりたくないよりは何かやりたいことがあるほうが元気になったような気がするわけで、そのように考えると、ひねもすをうすらんぼんやり短歌のネタを考えているのも活気に満ちている気がする。

意味不明でしょ?
まさしく意味不明なのであります。
何かが飽和しているのかもしれないし、このところ短歌のサイトを俳諧しては、「短歌って一体何なのだろう?」と今頃になって考えているわけです。
詠むのはいたって簡単。
5・7・5・7・7のリズムで詠めばいいわけで、脳裏にリズムが刻まれているせいか自動的にその中に言葉が入るように思考回路が設定されたのではないかと思うくらい勝手気ままに手が動く。

そこで思い立ったのは、原稿用紙。
このところペンを持つことがめっきり減った。
せいぜい娘の連絡帳にサインする時くらいじゃないかしら・・・などと思いながら、それくらいパチパチ打っているほうが生活になってしまっている。

写実の意味を知る。
写実というのは、写真のような風景描写をイメージしていたのだけれど、まったく違う。
つまりは実を写す・・・
それは想念や空想の世界ではなく、実存するものを描くことにすぎない。
一瞬の間に歌を詠む。
一首一秒じゃないけれど、考えてひねり出すより発作のように詠んだほうがさらさらと歌になるような気がする。
発作のことなんだね・・・
実のある発作。
それが写実。
自分のある発作。
自分の世界。
それこそ自分が思ったこと感じたことが写実であり、問題はそれをどうやって表現するか?ということであって、そこが酷くわかりにくいところかもしれない。

自分は絵が描けない。
下手。
さらさらと考えているようで、下手。
それはいわば自分の中の約束事であり、数年に1回くらい描いてみようかなという発作がある程度で大抵は酷く時間が掛かるためにかったるくなってやめてしまう。
あまり好きではないからかもしれないし、絵を描く行動にリズムがつかめないからかもしれない。
考えてしまうのよね・・・
つまりは考えてしまう絵はつまらない。
ここをこうやって描こうとか、あれこれ考えながら色を選んだり・・・
最初に絵があって、それを描くというのであれば違うかもしれないけれど、自分の場合は絵だと考えすぎてしまってイライラすることのほうが多い。
というわけで、すっきりしないから描かない。

今の一番大きな問題はテーマが無いということかも。
要するに何でもありいの世界だから困る。
テーマを決めてもらうと拾いやすいんだけど、どうしても恋・日常・時事・海・空・風・旅・その他まで含めると何でもありいだもの・・・ますます迷ってしまう。
自分の言いたいことがわからない。
一行の中にはもちろん自分が含まれているんだろうけど、もともとメタファーが好きだし、自分が本当は何を詠みたいのかがわからない。
写実にこだわるならば、自分の体験なんだろうけど、実は体験したことのないような短歌というのは少ない。
流れの中で、勝手に自分の世界に浸りながら詠んでいることが多いわけで、何もリアルタイムで歌が存在しているわけでもなく、それこそ父の歌などは過去の記憶の中の出来事にすぎない。

というわけで、時間を遡ったり、今に戻ったり、娘のことだったりかつての恋人のことだったり大変なことになっているかもしれない。
とにかくてきとーだもの。
連歌のほうが面白いと思っていたけど、連歌というのはテーマが限定されやすいから詠みやすいということであって、実はそこに登場する人物は別の人間だったりして?
過去の自分かもしれないし、単なる記憶の砂かもしれない。

悩んでばかりで少しも仕事が捗らない。
いつものことだから諦めよう。
久しぶりに締め切りのある生活なので、時間に追われているような気がするけど、ぼっけーっとしたまま過ぎてしまう可能性も高い。
それでも未来永劫この手の投稿の募集はあるわけで、結局、自分の中の気持ちや流れの問題なんだろうな。

 

 

水中遊泳から陸へ

at 2003 06/14 03:08

----ウェブログと言えばガイアックスというのが常識らしいわ

----はあ?

寝耳に水ならぬ寝目々にメッセという感じだわ。
blogとウェブログは若干ニュアンスが違うのかな・・などと思いながら、まあ日記つながりとか登録商標とかその辺のところはよくわからないけれど、blogの形としては楽天広場のほうがそれっぽいけど。
が、しかし・・・
楽天広場のアクセス数を考えると、ダンナの浮気の実況中継日記にはどうやってもかなわない気がするのよ。
あたしでさえ眺めてしまったという・・・
それに、ガイアックスというのは日記つながりではなく素直に考えてBBSつながりだもの。
公開メールつながりだわ。
カキコミュニケーションと言えば何やらそんなもんかいなと思うけど、これに泣かされ続けたことを考えると手放しに喜ぶわけにもいかない。

まずですね・・・
「塔」から見本のために結社誌が届きました。
ちらっとネット歌人事情なるものがレポートされていましたけど、その世界すらあたしには遠いような気がしました。
ウェブ歌会などには参加した記憶もないし・・・
それよりも個々のつながりというか、BBSなどで詠んでいるほうが面白いし勉強になる気がするし・・・
それと、「ネットでも同様に短歌を楽しんでいるらしい」という表現にすべてがある気がしたな・・・
文系という世界を考えると、ネットなど遠い世界だもの。
それこそ未だにメルアドのつくり方も知らないし、「サイトをつくったのよ」と言っても、見方も知らないし、これから箱を買おうかと思っている人たちも当たり前。
メルアドと言えば、ご主人のものがあるだけとかね・・・
それが当たり前のような気がしなくもないし、それでいてお仕事していれば自然とネットをせざるを得ないような気がするし、それでいて家にいたらネットなんて縁がないと言われても仕方が無い。
子どもが学校で使うからパソコンを購入したという家庭すらある。
本末転倒のような気がするけど、どうなんだろう・・・

という具合に、箱の中のつながりと現実の生活上のつながりとは何かどこかが違うといつもオセロを眺めるように眺めてしまう。
あちらとこちらというか・・・
箱の中の常識がどうしても現実生活では乖離している気がすることが多い。

雑誌からサイトへアクセスするのと、サイトから雑誌を検索するのとではまるでオセロのような気がするくらい裏と表、水面を水中から見上げるか上から見下ろすかのように違いがある気がすることがある。

まずは歌人でサイトをつくっている人たちがどれほどいらっしゃるのか懐疑的だ。
タグを眺めただけでもうんざりする気がするし、自分で自分の短歌をアップするまでの遠き道のりよ・・・
自分のようにネットが先で短歌が後なら、短歌は単なるサイトのコンテンツの一部に過ぎない。
すでに目的が違うとしか語れない。

気に入らない来訪者?
そりゃイヤですよ。
何が悲しくて、勘ちがい系の来訪者にレスを書かなければならないんですか?
管理人だから?
「若い頃にはタレントの○○に似ていましたよ」とか、勝手にメッセに登録されたりメル友と言いふらされたり、そんな人でもバーチャルだからと割り切って管理人としてBBSにレスを書きますか?

これが箱の中の現実かもしれない。
セクハラでしょ?
そんな気持ち悪い人には近寄りたくないからと言えば、嫌いだからというだけの理由で来訪を拒むのは常識がない?
変だ。
この歪んだシュールな感覚は何なのだろう?

まずは結社誌などを眺めると、皆さま、当然実名ですが、個人情報がバレるなどとアホなことを気にする人はいません。
優雅に並んだ短歌を拝見しながら、だれそれさんの作品を鑑賞しているわけです。
歌会などがあればお目にかかることもあるかもしれません。
もちろん名前がわかったからといって、どんな人かもわからない。
それでも会員になれば、それなりに交流があるのは結社誌があるからであり、文字によるコミュニケーションがそこには存在している。

ネットで知り合った友達の作品が並んでいることもあるかもしれません。
親しさに応じて親しみも違うかもしれない。
それでもネットでヤリトリする時には実名ではなくハンドル名を使うと思います。
来訪者が実名で投稿しているサイトもあるけれど、ネットで知り合って仲良くなったら、サイバー上では互いにハンドル名でヤリトリするのが普通だと思うけど、どうなんだろう・・・
自分がネットをしていなければ、もちろん実名で投稿するしかないよね。
ハンドル名が有効なケースというのはどこかの会員になってIDを取得したり・・・しかも、その中で通用するものに過ぎないから、会員外のアクセスで、しかもハンドル名やIDにも縁がなく、サイトの管理人に宛てにカキコするとなると実名じゃないと通じないでしょうに。
いわば、BBSの公開メールというニュアンスがこの辺に発生する。
もちろん管理人宛てのカキコではなく、匿名のその場限りの投稿であればそれこそ名無しでもかまわなかったりする板もある。
ところがコミュニケーションとしてそこの管理人宛てに板にカキコする場合は違う。

ネットというのは基本的に匿名の世界だから、ハンドル名を変えてしまえばどこの誰だかわからない?
昨日まで楽しそうにヤリトリしていたのに忽然とサイト毎消えてしまった?

いいじゃん、別に。

うちのサイトのように老舗のまま存在し続けるかもしれないけど、それすらある日突然消えてしまうかもしれない?
で、親しい友達にだけ、アクセスできるようにメルアドなりIDを知らせる?
あるいは住所や氏名とか・・・

それでは、サイバー上でのヤリトリとは一体何だったのだろう?

というわけで、いい加減な世界なんだよね。
しかも実名でサイトをつくると言ったとたんの衝撃よ!
大袈裟で大袈裟で・・・
だからジャンキーの巣窟と言われても文句は言えない。
サイバー上だけの付き合いだと思うから、せっせとレスを書くというのはいい加減にやめたほうがいいかもしれない。

それより、関係性をクリアにしたほうがマシ。
つまり、うちのサイトが単なるパブリッシャーならばあたしが発信する情報などを読みに来ているわけで、それこそテキストを読みに来ているはず。
短歌にしても展示してあれば、テキストを眺めて感想の一つも述べてくださる親切な人もいるかもしれないし、自らが歌人だったり短歌に興味があれば質問などもあるかもしれない。

が、しかし・・・
てきとーに詠んで投稿されて、しかも狙いが「今度メッセで話しましょう」と書かれたらどうしますか?
「一体何が目的で短歌を投稿してるんだ?」って言いたくなっても無理はないと思うの。
もちろんそういう来訪者のほうが少ないし、いろんな意味で短歌も駄文もテキストは自分のものであるために、インスパイアされる関係は大切かもしれないし、それこそ文字を通したコミュニケーションでしょう。

心の無い人たちは幸せだ。
何も感じないから。
そもそもの感受性が違うのかもしれないし・・・

なんかね・・・
心の定義がすでに違うのかもしれないわ。

 

 

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