Rin's Diary
June, 2003
(No.1)

 

ネット歌人の楽しさ

at 2003 06/10 16:27

どこの世界も変わらないんだなぁ・・とぼっけーっと考える。
結社にメールを書いて、どこにもサイトのこともハンドル名もないのに、どういうわけか、”Rindo”という記号が目に入る。
もちろんメルアドもプライベート用というか、サイト管理用ではなく、実名のメルアドであるためにハンドル名とは無関係。
マニアというか、この場合、オタクをあなどってはいけないことを思い出す。
短歌が好きなら、それこそ専攻もサークルも研究すら短歌が当たり前なような・・・
文学の人たちってどこかそういう雰囲気であることを思い出す。
将来的にそれで食べて行こうと思っているならば、あらゆる雑誌や専門書、歌集まで読み漁っているくらいじゃないと無理。

一つため息をつきながら、どこか懐かしい雰囲気を感じたのは、そういうことなのかもしれないと思ったりして・・・
論文をバッグの中に入れて持ち歩いていた頃が懐かしい。
ちょっとした時間の合間にも読んでいたり・・・
それくらいじゃないと他のことをする時間すらない。
たまに息抜きでする会話も研究の話とかね・・・
つまりは、それが楽しいから研究をしていたのだろうし、興味のない人たちには何がそんなに面白いのか通じないのが当たり前。

----読んだら覚えちゃうでしょ?

----そーなの?(と、あたし・・・)

自分の詠んだ歌ですら暗記しているとは思えないのに、他人の歌がすらすら出てくるというのはすごい。
未だに百人一首でさえ覚えてないぞえ?

興味がないってすごいことだと思う。
元々が好きで詠み始めたわけではないから、他人の作品などには興味がないというのが本音。
一度しか雑誌掲載されていないあたしの短歌でさえ、何となく記憶に残ったのなら、あたしのサイトへ来れば一目瞭然だよね。
ガイアックスにサイトがあるから、短歌どころかコンテンツにも興味のない来訪者が当たり前だと勘違いするけれど、最初から短歌のサイトへ来訪するつもりであれば、短歌しか読まないのが普通。
サイトに実名は出ていないけれども、作品からあたしの名前がわかるということは、歌人のサイトというのは匿名であっても匿名ではない・・・
著作権を放棄していないのであれば、尚更。

というわけで、実名からハンドル名がバレるというのは不思議な気分だな・・・
ハンドル名から実名がバレるより、実名からハンドル名がわかるというのは恥ずかしいよ。
名前を言うと、「Rindoさんですね?」って言われたり?
何となくほほえましい。
実はうちの来訪者だったりして・・・
誰だろう・・・
短歌はまったくの匿名投稿もあるから、こちらにはわからない場合もあるし・・・
今までそういうことを深く考えたことは無かったけど、何となく匿名の気楽さであちこちに投稿してみたりとか?
ありうる・・・
歌人の世界は狭いのだろう・・・

どこの誰かわからない世界でも、つながりがあることが面白い。
JOY騒動もJOYさんのサイトが消えて下火になったらしいけど。
タマちゃんも今はどこを泳いでいることやら・・・

さてさて、こっちは毎日サイトを更新するだけでも大変なのよ〜♪
短歌を読むより詠むほうにエネルギーが・・・
研究するわけじゃないもん、お気楽さ!(たぶん)
何にも考えないで、CGI任せに詠む。
ネット歌人だなぁ・・・

 

 

悠久のトロピカル・モード

at 2003 06/09 18:55

応募した記憶もないのに懸賞サイトから電話が掛かってくる。
登録した記憶もないのに出会い系みたいな変なスパムが届く。
懸賞サイトからの電話・・・もしかしたら何か当たってた?
だったら損したかもと思いつつ、自分のように長生きしているとすべてがどうでもいい気分になる。
あまりにも酷い犯罪だったら警察が何とかするだろう。
単なるイタズラだったら放っておく。
そういうことをする人間の目的がわからないわ。
ヒマなんだろうな・・・
身元を確認しているとか?
アホだわ。
ストーカーだろう。
どちらにせよ自分には縁のない人間だ。
学会誌などから調べたのかもしれないし、それを考えたら近頃まったく気にならなくなってしまった。
だって名簿ってそういうものだから・・・
年中どこからともなくキャッチセールスの電話が掛かってくるわけで、娘の名簿ですら個人情報が盗まれる時代だもの。

結社にメールを書き、入会案内を送ってもらうことにした。
サイトの座談会などを読んでいるだけでも面白いけど。
ニューウェイブは古い?
あれは10年前の短歌だと書いてある。
まあ、たしかに俵さんの「サラダ記念日」がヒットしたのはかなり前の話のような・・・
それ以後、そのような爆発的なヒットというのは無い。
さらに若い歌人たちの目には古く映るらしい。

まさしく風だなぁ・・・
などと思ったら、十二単を自分たちで縫って着ているだけの歌会もある・・・
さすがネットと思ったけれど、それすらすでにどうでもいいような・・・
歌を詠むのが目的ではなく、平安朝のコスプレだもの。
世の中にはいろんな人たちが存在するというだけのことだけど、ああいうのが好きな人たちも結構いるんだろうな。

それを考えると流行などにあまり左右されない短歌は心地よくもあり、懐かしさすら感じる。
歌人にもそれぞれの主張があり、完全に自分のことしか詠まないという人もいれば、自分史にこだわらない人もいるし、心を詠むから値打ちがあるという人もいれば、写実にこだわる人もいる。
それぞれにそれぞれの人が描く世界観があり、それらの比較も面白い。
読みを学ぶってそういうことなんだろうな・・・

実際に詠んだとおりに歌が読まれることなどめったにないらしい。
2,3人もいたら充分なのかもしれない。
駆け足の歌会などではまずは諦めるしかないらしいし、それでももう一人の自分に響く歌というのも少ないらしい。
もう一人の自分・・・
つまりは、詠み人ではなく、鑑賞するほうの自分なんだろう・・・
これってむずかしいな。
自分の歌をまったく知らない人の歌のように鑑賞できる人なんて存在するのだろうか?

読むのが楽しくなれば詠むのも楽しい・・・
少しずつ自分の中で何かが変化している。
自分の短歌はメタファーが多い。
その日の出来事も事件も実はメタファーで表現したいと思っているくらいメタファーが好きだ。
そんなことばかりしているとまるで謎の解読みたいになりそうだけど・・・
どうせ詠んだとおりには伝わらないではないか・・・それを考えればすべてがどうでもよくなる。
一度発した言葉は一人歩きをし、自分とは無関係に誰かの中で解読される。
その人がどのように感じるかなどはややこしすぎて語れない。
そのように戻された言葉の中にその人となりを観察してしまうという悪いクセがある自分としては尚更・・・

歌集とは10年に1冊くらい出すものなの?
まだ詠み始めて2年半にもならないのに。
毎月10首程度でかまわないのだろうな・・・
酷くのんびりしているし、そういう感覚に埋没するのも楽しい。
それでいて流れる風・・・
いろいろな風がある。

 

 

「読み」と「詠み」

at 2003 06/07 18:06

歌人は一人の世界・・・
なのにどうして結社が必要なのかわからない。

というわけで、せっせと結社のウェブページを眺める。
「塔」短歌会のページを見ていて、選歌の項目を読む。
3番目が面白い。
結社というのは読みを教える場であるらしい。

これはすごく納得してしまったのですよ。
詠むためには結社など必要ない。
自分のように気まぐれで詠み始めた者は特にそのことを感じてしまう。
特に真面目に短歌を勉強しようと思う気持ちもなく、サイトのコンテンツの一部として短歌があったような気がするから。

短歌を詠み始めたきっかけですら、サイトでイラストを使いたいというだけの理由。
特に国文に興味があったわけでもなく、文学史に詳しいわけでもない。
国文などはせいぜい受験に必要だから勉強したとか、ひまつぶしに小説を読んだりするだけであって、そもそも文学というものに対してはどこか他人事であり、短歌エッセイとは言っても気まぐれに評論を読み、それについての感想を書いているに過ぎない。
何やら現代の短歌について問題意識を持っているわけでもなく、これからの風について真面目に討論しようと思っているわけでもない。

歌集はもともとは歌人同士の交流のために出版するものであり、大半は自費出版。
歌人同士が名刺代わりに歌集を交換し合う。
俵万智さんの「サラダ記念日」が異常だ。
だから話題にもなる。

どこかの結社に入って詠んでいたわけではないし、短歌の数だけは多い。
充分に出版できるほどの数だけはある。
問題は選歌。
自分で自分の好きな作品をテーマ別に選べばよいのかもしれないけれど、それもね・・・ネット歌人にとっては大変な作業なのです。

いたずらに詠んでいただけだけど、雑誌に投稿して入選したら値打ちありそうでしょ?
ところが、こんなものは実際には何の値打ちもないような気がする。
葉書を出せば入選するような気がするほどに詠んでいるわけだから、素人の立場としては十二分な気がするほどだ。
つまりは、お試しなのよ・・・
結社で読みを覚えてから詠み始めたわけではないので、自分の世界が歌壇で通用するか知りたかったから何となく投稿してみただけだ。

Q&Aコーナーはもっと痛烈で面白い。
ビギの質問は大抵決まっているから。
掛詞と枕詞の違いがわからないなら、広辞苑などで調べ、それでもわからなければ図書館へ行きなさいという回答。
まさしくその通り・・・

例えば似たような質問がBBSなどにあったとしよう。
そんな短いヤリトリの中では終わらない。
書き出したら止まらないし論じ出したらキリがない。
それでいて、責任のある立場ではうっかりしたことは書けない。
つまりは、わからなかったら自分で調べろと言うしかないではないか。

自分のような責任のない立場なら何でも書ける。
ネットは匿名の世界であり、気楽な質問に対して当たり障りなく回答を書く。
ただし短歌は専門ではないので、質問には答えられないというだけのこと。

新聞に投稿したら掲載されたのに、どうして「塔」では選歌から漏れるのか?とかね・・・
詩や短歌は主観の世界だもの。
そういうことに対して気分の悪い人たちも多いだろう。
小さな文字で掲載されていても、短歌が好きな人たちは見逃さない。
何故なら短歌が好きだから。
素人が通り一遍にデカ文字を見て、読み終わった雑誌を捨てるのとは違うな。
つまりは、その人の歌に対する取り組みの姿勢が違うから、そもそもの考え方が違ってしまっている。

あたしだったら、新聞の時事短歌の投稿欄に掲載されただけでもうれしいと思うのよ。
あれが素晴らしいかどうかは別として、雑誌や新聞に掲載されたらうれしいよね。
ところがそれではダメなんだな・・・結社というのは。
季節の話題や時事問題が優先される新聞投稿で選歌されたとしても視点が違う。
歌としての醍醐味と新聞のような風の投売りとは違うんだろう・・・

その中で最初から大衆化を狙った雑誌もある。
しかも新人賞はネットでしか受け付けないらしい。
この辺の感覚が現代短歌という気がするし、たまたま本屋で創刊号を見つける。
小さな同人系で、短歌の好きな人たちが何となく集まって雑誌を出すところまでこぎつけたという感覚が面白い。
どこか専門性を大切にする世界とは逆だ。
既存歌壇が風なら、「歌葉」はニュー・ウェーブという感じ。
波だ。
風と波は独自に存在し、それでいて相互作用がある。
大した相互作用とは思えないけど、面白いな。

自分の感覚はどちらに近いだろう・・・
それすらもわからない。
つまり、「読み」を知らないからだ。

短歌の勉強をするというのはね、詠むための勉強をするということではない。
そんなものは誰でも出来るから。
問題は、自分の目だ。
読みを学ばなければならない。

 

 

だって、あたしが母だもの

at 2003 06/05 12:47

どこまで行っても親のエゴってあるな・・・
親のエゴというより女のエゴかも。
自分のように母系家族の中で育つと、そこのところがもっとはっきりしている。
子どもの頃からそこはかとなく覚えてしまう。
我慢なんてしないもんね。
何かしてもらって当たり前。
感謝するということを知らない。
笑みもタダではないのだろう・・・

ましてや子どものこととなると強烈だもの。
結婚したらしたで、また姑やら小姑やら。
どこまでもいつまでも女の戦いは続いていく。

どこで折り合いつけているんだろう・・・
もしかすると折り合いなどつけてないままにそのままズルズルと来てしまっているのかもしれないし、それでいて何も困らない。
いつもどこかで誰かが欝に落ち、落ちていたかと思ったらあっけらかんとしている。
息子のいない叔母のほうがその点サバサバしているかもしれない。
婿は他人だもの。
笑みはタダではない。
何とかなるだろうという楽観という点では娘だけのほうが気楽なんだろう。
息子を取られたと思っている伯母のほうが凄まじい。
あーなるとあたしはあそこの嫁さんには愛想がいい。
一緒にされたら格好悪いから・・・
この辺のノラクラとした姿勢も母系家族ならではのような気がするけど。
いつの間にやら、知らん顔することを覚えてしまっている・・・

姉妹といえども別の家庭だからね・・・
まだつながりがあるだけマシなのかもしれない。
男兄弟になるとそういうつながりすら無いような気がする。
親から独立するというのは、文字通り独立するという意味で、ま〜ったく別の家庭だ。
当たり前のようでいて、母系社会に育つと当たり前でもなく、その辺に何か違うものを感じてしまうけれど、深く考えない。
だって、あたしが母だもの。

母というのは自己中の権化じゃないとやっていられない仕事かもしれない。
言葉も通じないうちから子どもの世話をしているんだから、「あたしが母なのよ」という自覚がなければやってられないでしょう。
大人なら言葉で説明してくれるだろうけど、赤ちゃんとなるとそれこそ以心伝心の世界。
言語のないコミュニケーションの世界だもの。
「なんでアンタにはわからないのさ」と何度思ったことだろう。

でも、夜泣きの話などを聞くと、子どもの状態がわからないといって悩んでいる人も多い。
わからないのではなく、単に自分が疲れているから子どもの要求に応えられないだけなんではないだろうかとも思うけど、その辺のところは子どもが一人しかいないあたしにはわからない。

世の中で何が一番イヤかと言って、子どものことをあれこれ言われるのが一番イヤだ。
世の中にはいろんな子どもがいて、親子があって、それぞれにいろいろな背景文脈がある。
いっぱひとっからげにしてもよいところと個別に考えなければならないところと、それらが混在して相互作用が発生する部分とがないまぜとなり、ややこしい。

そうなると感性しか頼りにならない。

一つわかったのは、母親っていくつになってもアホということかも。
運命だな・・・諦めよう。
子を持って知る親のエゴ。
親の恩より親のエゴを知るあたしって・・・

 

 

バーチャルって”ミニカー”だったの〜?

at 2003 06/04 18:35

「あんなのはミニカーを集めているようなものだよ」

「????」

一体何のことかわからなくてずっと悩んでいた。
男の子と違ってミニカーを集めるという習慣が無いために、その意味がなかなかピンと来ない。
せいぜい着せ替え人形を買い集めるような感覚なのだろうか?
オママゴトとか?

そうやって言われてしまうとそういう気がしなくもないけれど、何かどこかが違っているような・・・
でもこの世界は一方通行社会なので、本人がそうやって語っているということはその人にとってはそういう世界なのだろう。(と思う)

ミニカーとリカちゃんとでは何かどこかが違う。
一緒かな??
たしかにリカちゃんやらいずみちゃんやらあれにこれにと人形は増えてしまっていたような気がするけれど、気が付けばそれらはどこかへ消えてしまっていた。
ミニカーもそうなのかもしれないし、それでいて今でもずっと持っている人もいるのかもしれないし、わからない。

ミニカーならそれこそポルシェだろうとフェラーリだろうと大人になれば買えるだろう。
買うかどうかは別として。
本物を買えるかどうかまでは知らないけど。

リカちゃんとかオママゴトはすこぶるシンプルだもの。
集めるという習慣は無い。
何となく自然と増えてしまったとしか言いようがなく、ある時期が来ればそんなものに興味が無くなるから忘れてしまう。
人形に服を着せているより自分の服を買ったほうがいいもの。
それがそんなに大それたこととは思えない。
感情移入の世界なのかもしれないな・・・
実現可能な遊びだ。

バーチャル・コレクションじゃないけれど、ずらりと並んだ友リスの名前やお気に入りのサイトや送ってもらった写真などをコレクションしている人たちも多いだろう。
そういう何かを集めるという習慣が欠如しているためにミニカー感覚というのが掴めない。
本物を買えないからミニカーで我慢しているんだろうか?
まあ、ミニカー自体に値打ちがあると本人が思っていれば値打ちがあるんだろうし、そういうコレクターも存在しているわけだからすべてを否定するわけではないけれど、そういう人たちを除いて大部分の人たちはミニカーよりもマイカーのほうが大事よね。

なんだかそういう感覚と自分のネットライフを同じように思われていたのだと思うと、どこかギクシャクとした違いがようやく理解できる気がするわ。
パソコン買って、自分のサイトをつくるということは仕事ではないから。
それ自体に値打ちがあるんだよね・・・普通の主婦にとっては。
余暇。

それをきっかけに新しいことを始めて行くという事は、自分自身の問題であって、何かをコレクトして喜んでいるという感覚ではない。
主婦になって何かを貪欲に学ぶということはそれだけでも値打ちがある。(と思う)
つまりは自己実現の道を模索しているわけで、それが人形遊びのような気がするけど。
習性がすでに違うのだろうか?
人形を集めることに意義があるわけではなく、自己実現と自己投影の世界。

ネットをきっかけに仕事を始める人たちもいるだろうし、自分の場合は短歌を勉強して歌集を出そうかと思っている。
出版すること自体は商売ではないから、さほど大したこととは思えないけれども、次へ進むためのステップとしてネットを活用しているというところが違う。
もしかすると短歌である必要性はないかもしれないけれど、少しずつ進めながら夢見て楽しんでいる。
イメージして遊んでいるうちが楽しいのかもしれないけど・・・(うわっ)

サイト一つつくっていても楽しいぞ〜♪
タグの一つも知らないところから始めて、FTPを覚えて、何となく検索にも引っかかるようになって、それでいてコンテンツをつくっていくのが大変だから結局CGIでページをつくりなおそうかと。
損なんだけどね・・
それでも自分の気に入るようにやりたい。
おもちゃと言われてしまえばそれまでだけど、それでも本人が楽しいんだから誰に迷惑を掛けているわけではない。
たまに、それを破壊されるから猛烈に腹が立つこともあるわけで、そうでなければ楽しく遊んでいるだけなんだから放っておいてほしい。

でも・・・
この・・・・
ミニカーを集めるという感覚は、すこぶるジャンキーを判断する上で役に立つかもしれない。

自分が誰かのミニカーになっているとしたら、逃げましょう・・・

 

 

インターネット人情事情?

at 2003 06/03 13:02

毎日恐ろしい勢い(だと本人は思っている)でサイトを更新しているのは何故だろう?
特に制限時間などがあるわけでもなく、一応はテキストサイトなのだからとせっせと更新をする。
BBSにレスを書いているのとどちらが楽か考えながらもいくつかあるサイトを必死で更新しなければならないような強迫観念すらある気がするくらいだ。

という中でたまったテキストを整理しようと思ってもなかなか進まない。
これは単に管理人が怠惰なためにそういうことは一日一日と先延ばししてきたのではないかと勘違いしていたけれど、要するにサイトなどというものは自己満足の世界だし、その時々の気分で書きたいことを書き捨てるだけというサイトであるが故に、計画性が乏しいからかもしれないと反省してみる。

が、しかし・・・・
本当の理由は飽きてしまうからなんだと思う。

のんびり優雅にコンテンツなどをつくっていると、あっという間に時間だけが経過してしまう。
そのうち、やれご飯の支度をしなければとか、娘が帰ってくる時間だとか、まったくもってして落ち着かない。
「キッチン・ネット」と言ったら、流しの網と勘違いされたこともあるけれど、書斎でパチパチやっているわけではないので、日中の雑用に追われながらネットをしている。
一人静かに趣味でネットをしている人たちが羨ましくなるけど、自分としては、そうなってしまったら飽きてしまう気がしなくもない。

「ネット・ジャンキー」は心理的過疎と密接に関連がある気がする。
心理的過疎と言えば、都会を連想してしまう。
都会の一人暮らしほど退屈なものはない。
隣に住んでいる人と顔を合わせるのは年に1回あるか無いかだし、近所の同じ店の常連さんが同じマンションの下に住んでいたのに気が付いたのは随分経過してからだった。
それくらい付き合いがないと逆にさっぱりしている気がするけれど、それでいて自分の居場所がないと落ち着かなくなる。
そうなると常に同じようなメンバーで同じ店で飲み、授業時間の合間などはやはり常連化しているカフェのママを相手にくだらない話をしている。
あちらさんもランチタイムを除いてヒマをもてあましているために、互いにダラダラとした関係性が続いていく。
あたしが結婚して引っ越してしまったら話し相手がランダムなお客さんだけになってしまい、あまりにも退屈だから店も閉めてしまった。
6時になると店じまいしていたから、そのうち潰れるだろうとは思っていたけど、家族と共に横浜へ引っ越したために通勤が面倒になったのかもしれないし、特に働く理由もなく働いていたから、それもまた流れなのかもしれないと思うけど。
店を続ける理由が、同じ家の中に主婦は二人要らないというわかりやすい理由だもの・・・つまり、娘さんと喧嘩したくないという理由だけで自分の居場所がほしかったんだろうな・・・(自分の家なのに・・)

チャット部屋でもサイトでもどうしても常連化しやすくなる。
その手の感覚はサイトを検索したり、あちこち放浪して遊ぶという感覚とは逆。
常に既知感があるということが大切なんだろうな・・・
都会の夜のしんしんとした退屈さを知っているとネットでもそうなってしまいやすくなる。
退屈だからそれなりに遊ぶ場所もたくさんあるんだけど、どこまで行ってもどこか退屈してしまう。
六本木で遊んで、帰りには必ず寄る店があるだけでも違うもの。

ネットも長くやっているとそんな感じ。
だったら幼馴染や親戚の家の近所に住んだらいいと思うでしょ?
それはイヤなのよね〜〜〜!!
何が悲しくてせっかく一人暮らししているのに、そんなところに住まないとダメなんだ?
東京があのように江戸時代から大都会に発展した裏側には下町の人情というか、知らない人でも人情でつながりがあるからだと思う。
それこそ困った時にはお互いさまだもの。
どうしてもおせっかいというか、見知らぬ他人の世話を焼きたがる人たちが多数存在しているから、どこか地方から出てきた人たちでも居心地よくなってそのまま居ついてしまったのだろう。
それは自分が地方へ出て、しみじみその違いを感じた。
田舎の人は閉鎖的で冷たい。
まあ、永住するか子どもでも育てていればまたつながりもあるから別だけど、見知らぬ人という理由だけであんなにも冷たいのかということを知る。
その点都会は暖かいと思っていたけど、昨今の心理的過疎を考えるとどうなんだろう・・・
見知らぬ人たちに親切であることが本当に親切なのか自分が冷たいと言われると考えてしまうし・・・

まあ、出たり入ったり忙しいながらも自分は変わらずに存在しているということが値打ちなのかもしれないな。
全然変化がないというのも退屈だし、流れ行く人たちを眺めているだけというのも退屈だし、何をもってして自己満足かと語れば、自分が退屈しないであれこれ続けられるということかもしれない。

 

 

機械的人情って何さ?

at 2003 06/02 00:47

この前から村上龍が編集長の経済関係のメルマガを読んでいるんだけど、経済には疎いあたしにはよくわからない記事が多い。
よくわからなくても読んでいるうちにわかるようになるかもしれないという期待はあるものの、何となくそのまま目も通さないものが多くなってきてしまう。

その中で、今回のメルマガは面白かった。
冷泉彰彦の『from 911/USAレポート』 第94回目「大統領選と『草の根保守』」というタイトルで、何に惹かれて目を通したかというと「草の根保守」というターム。

日本だと当たり前な感覚だもの・・・「草の根保守」というのは。
地方へ行けば行くほどどこか保守的であり、日の丸の匂いが漂っている。
リベラルと言えば、都市労働者というか、どちらかと言えば大都市のほうが自由度が高い気がする。
その定義が正しいかどうかはわからないし、実際のところ日本の草の根行政というのは、地方自治体のような懐の狭く深く細やかな世界をイメージするらしいけど。

9.11テロ以来、アメリカでは地方へ行くほど、暴走族の果てまで星条旗を掲げながら走っているという・・・
戦争中には兵士の無事を祈って黄色いリボンを掲揚したり、星条旗を飾ったり・・・
そういう愛国心というか、人情の細やかさを都会に求めても無理な気がするけれど。
リベラルを振りかざす人間ほどどこか高慢ちきな印象を与えてしまうということに、ようやくアメリカ人も気が付いたか・・などと思ったりして。

戦争反対などと自分の意思を表明するような連中は、それなりに高慢ちきなのかもしれないと自分のサイトを見ながら思う。
つくばみたいなところに住んでいると、その辺の感覚がどうしても日常的にあるから、その人間が保守的かリベラルかでそれこそ知的水準すら違うような感覚すら漂ってしまう。
それはまったくもってして気のせいなんだけど、娘の小学校の教育目標の中に「郷土愛を身につける」というのがあったような・・・
先祖代々その土地に住み、それこそ鎖国のように”ヨソモノ”というのが駐在所のおまわりさんくらいという世界が今でも近所に存在していることを、市の広報に掲載されていた小学生の作文から知り、果たしてこれが同じ市内の出来事かと考えてしまう。
一方で、SARSが騒がれる中、つくば市のアジアからの移住者が7000人とこの前ラジオで語っていたのを聴き、住民登録している人の数だけでもそれだけいるのかと思う。
やたらめたらと外国人の多いつくば市・・・
なのに、駐在さんだけなわけ?転勤があるのは・・・
(誰に訊いているんだろう・・)

一部の犯罪を別として、外国人が多いというだけの理由で衝突があるとは思えない。
それよりも年中市議会では「新住民」と呼ばれて”ヨソモノ”が槍玉に挙げられている。
”ヨソモノ”は理屈なのよ・・いつも。
理路整然とどこかのおばちゃんでも理屈を語るでしょ?
ところが、狭い社会で必要とされるのは”人情”なんだよね・・・
それこそ広い全体性ではなく、細やかな懐の深さと人情。
人情よりも理性を優先させると、高慢ちきと思われてしまうというのは運命だから仕方が無い。
「あの人は人の気持ちがわからない」とか。

「人の気持ちがわかっても、人の数が多いから多数決なんだろう・・」などと言うと感情を逆撫でしそうなので言いたくないけど、言うとそれはそれで共鳴・共感してくれるから自然と分岐してしまうのではないかと思うほど。

先ほどまでせっせと自分のサイトを検索していた。
すると結構検索に引っかかるタームもあるのね・・・短歌以外なら。
サイト名でもコンテンツ名でも大丈夫。
サイト名で検索するとガイアックスよりcoolのサイトのほうが上位にある。
ということは検索で飛んできてくれる人はガイアへはアクセスせず、それぞれのコンテンツを眺めてお帰りになるのだろう。
なんでそんなことをしていたかというと、メールならともかく知り合いにサイトを訊かれたりして、URLを語るのは大変でしょ?
だから、これなら大丈夫というキーワードを探していただけ。

ガイアからの来訪者と検索からの来訪者では何かどこかが違うと言われてしまう。
管理人にしてみれば同じなんだけど、自分の姿勢がガイアでは高慢ちきに捉えられてしまいがちなのも以前から気がついていたし、それでいて検索から飛んできた人たちからは文句を言われない・・・

つまり、「人情」なんだろうな・・・
BBSにカキコがあって、レスを書く。
ガイアだとまるで公開メールだもの。
ネットをチャット部屋みたいなところから始めてしまうと尚更そういうことを感じてしまう。

自分は変わらないのに、一方ではフレンドリーと思われ、他方では高慢ちきと思われてしまう。
人情を必要としていないつながりの世界ではフレンドリーな管理人なんだろうし、人情を求めるつながりの世界では高慢ちきか?

なんかね・・・
やってらんないと思いながらも、今日もまたサイトを更新している。
その潮流が面白いから、うちのサイトは入り口は2つ。
入り口は多いけど、BBSも一緒。
分けない。

 

 

部分的つながりと全体的つながり

at 2003 06/01 02:52

裏のお宅にお邪魔すると居間にすごいオーディオ装置が置いてある。
サウンド好きにも映画好きにも見えないし、第一その手のブツは恐ろしいほど少ない。

----音楽がお好きなんですか〜?

(「あたしもです」と言いたかったが不自然さを感じていたので一旦切る。)

----機械が好きなのよ(笑)

(↑裏の家の奥さん。ただし機械が好きなのはご主人のほう・・・)

音楽が聴きたいからすごい装置があるのではなく、あれこれ機械を自分でいじるのが好きだからマニアックなほどにあれこれいろいろな道具が置いてあるらしい。
それこそケーブルの具合が悪いと、いきなり技術指導の電話をケーブル会社にしてしまうわけで、あれらの機械をどのようにして使っているのかサウンドオタクのあたしとしては伺いたかったけれど、機械音痴が触ると怒られそうなのでそのまま去る。

機械音痴の機械の選び方はすこぶるシンプル。
まずは現物を視聴しながら、どの機械が自分の耳に合うかを調べる。
こればかりは感性の問題なので、よくもまああんなメーカーの機種を買う人間がいるものだと感心しながらそそくさと自分のほうしいものを買う。
何の迷いもないもんね・・・すごい、われながら。
要するにカタログ見てもわからないから、自分の耳がすべて。

パソコンを選ぶにしても同じ。
カタログをあれこれ見ても、どこに違いがあるのかわからないから、結局、画面を眺めながら、一番自分の感性に合う機種を選ぶ。
結局、キーボードの感触とデザインと決定打は画面の美しさ。
同じようなモニターでもメーカーによって明度が違っていたりするとそれだけでもイライラしてしまう。
自分で調整すればいいのかもしれないけれど、そこのメーカーの感性というものに疑いを持ってしまうので、フィーリングが合わないと機械を使っていてもイライラするだけだから。

なんか自己中なのは自分でも認めているのだけれど、情報発信系のウェブというものはやはり自分には無理だと思う。
理由は簡単・・・
すぐに飽きてしまうから。

それこそCDでも本でもアップしようと思えば次から次へとあれにこれに。
すこぶるマニアなところがあるから、アフリカのサウンドやフレンチポップ、この前バリ島で見つけたガムランとアフリカのサウンドの融合CDとか、ハワイアン・レゲエとか、それこそ検索しながらアマゾンなどの写真をパクリつつサイトをつくれば簡単にあれにこれにと出来上がってしまう。
旅行ネタにしても、それこそラッフルズとかイバとか話題で人気のホテルについても屁理屈を交えながら書こうと思えば書けるよね。
実際のところ好きだし、それこそ旅の話は楽しい。
読んでいるほうも子連れの情報から現地の様子、失敗談や食事の情報についてあれこれと?
そんなこんなをウェブログにまとめると、それなりにアクセス数のあるページがつくれそうな気もする。
案外、楽しいんだよ・・その手のページづくりは。

なのに急に空虚な気分に襲われてしまいやすくなる。
すべてがどうでもよくなるような感覚というか・・・

管理人の素顔の見えないサイトはつまらない・・・か。
マニアになるとそこまで要求するのかと思ってしまう。
ページをつくることにも飽き、検索にも飽き、それこそサイトなんてつくろうと思ったらちょちょいのちょいだもんね・・・
単に自分の趣味のためにつくっているコンテンツでも凝っていること・・・
あたしなんて、同じようなページをつくろうと思ったけれど、途中で飽きてきてしまってとうとう放り出してしまった。
他人のためには働けない。

学術ページは面白くないかもしれないけれど、恐ろしいほどの専門タームの中に、本当に言いたいことが一行だけ含まれていたりする。
「健やかな心とは生きる意味を考えたりしないことだと気づく」というような文章だったと思うけど、経験に基づいた文章には説得力がある。

自分が鬱々していたりすると、それこそ「一体自分は何をしているのだろう」とか虚しい気分に陥りやすくなる。
どこか自分が他人と違うことをしているような気分に陥った時などは特にそういう気分になってしまう。
何となく皆と同じことをして、他人といると何となく楽しいという無責任なぼっけー状態が健やかな心というのは案外本当なのかもしれないと共鳴したりする。

ほかの生物のすごいところは死を意識しないところかもしれない。
人間には無いシンプルさを彼らは持っている。
(でも、ペットが死ぬと悲しい。)
にもかかわらず、花は咲いたら枯れるだけだもの。
そのくせ毎年咲いたり・・・
枯れてもどこかで同じような花が咲いている。
それが生命力なのかもしれない。
命ってよくわからないけれど、少なくても生命力というのは感動を与えてくれる。

何のために生きるかとか、明日のことなどを考えないで、何となく同調行動の中にいるとそれ自体がパワーのような気がすることがある。
昨日も今日も明日も未来も人間なんていつの時代も変わらない・・・などと考えると、どうやって考えても人間は逞しい。

人間が逞しいと思えた瞬間、どこか過去と未来と未知なる人たちとの間につながりが見える気がする。
好きな音楽つながりとか、旅つながりというのも楽しいかもしれないけれど、ふと洩れてしまう「だからナンなのさ」という冷たい響き・・・
部分という中につながりを持ちたくないのかもしれないな・・・
それよりも部分を超えて全体の中に消えていくみたいな気分のほうが楽しいから。

 

 

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