Rin's Diary
November, 2002
(No.2)

 

唐辛子2本分のぽかぽか気分

at 2002 11/19 02:57

退廃的な気分というのはあるな・・・
みんな正直で正直で・・・
コミュニケーション系のウェブサイトで次第にコミュニケーション的ノリの軽さが失われ、カキコのトーンも次第に重く暗くなっていってしまう。
しかも管理人自ら更新をさぼって遊んでいるんだもんね・・
気が付いたら、ログを残したことのない姉妹サイトのほうのアクセス数のほうが伸びている。
こんなんでいいのだろーか?
正直で正直で・・・・

急にアホらしくなってしまうことがある。
すべてがどうでもよくなってしまうというか・・

結局、殺伐とした現実や未来の予測よりも、「子どものおもちゃをどうしているか?」とか、「子ども同士が喧嘩したときにはどうしたらいいか?」とか、「朝起きたら子どもが宿題をやっていない。どーする?」とか、そういうちょっとしたネタのほうが”情報”なんだろうな・・或る意味において。

ネットに求めているのもそういう小さなコミュニケーションなのかもしれない。
クラス会のネタとか、会社や学校のグチとか、ダイエットの話なんかは飲み屋で話しているほうがいいのかもしれないな。
飲んで、ウダウダと発散するとか?
あたしにはあまり縁の無い世界なのでよくわからないけど、ちょこっとそーいう雰囲気を感じた。

まぁ、結婚や家庭ネタすらどこか社会の一部として観察してしまうと、たしかに殺伐とした気分になってしまいやすい人たちが存在しているのもわかるけど。
寅さんが男の哲学と言ってたヤツもいたしなぁ・・・
わかるようなわからないようなわかりたくないような、哀れなるかな・・としか語れないわね。

視点がすでに違うのかもしれん。

”個”になる時間というのが少ないのかもしれないな・・
だから、箱に向かっている時間が癒しなのかもしれないし、それがバーチャルなのかもしれん。

短歌なんかもすでに集合体だもんね・・
一人でぼっけーっとしながら詠んでいるというより、連歌のほうが盛り上がるしな・・・
それでも歌人タイプはしょせん自分の世界にゆらゆらしているだけだから、連歌と言っても、それぞれに”情景”が違うから、違う情景を思い浮かべながら返歌しているというわけのわからなさ。
恋の短歌なんて、バーチャルだから詠める気がすることもあるし・・・
もっとも自分の中に概念すら素地として存在していなかったら詠めないだろうけど。

ニュースか。

矛盾してるよね・・
拉致事件が話題になると、どうして朝鮮学校の生徒が嫌がらせされるの?
全然無関係なはずなのに、そこが理解できない。
テロが発生しただけで、ムスリムやイスラム教徒の子どもたちが攻撃されてしまう。

歌人はね・・一人の世界だ。

気持ちがつながらないと輪になれない。

テロが発生しただけで、ボランティア・バナーがチクリの対象だもんね・・
坊主憎けりゃ袈裟までも・・という世界に巻き込まれると弱いな。
それでいて、時事短歌というのもあるし・・
短いからいいのかもしれないな。
抽象画だ。
すべてを31文字で表現するなんて不可能だからいいのかもしれない。

矛盾してるよね・・
うまく説明できないくらい矛盾している。

あんまりBBSやメールでヤリトリしているわけでもないし、近頃では連歌をせっせと詠んだりしているわけでもないのに、どこかつながりがある。
”個”の世界が確立されたのかもしれない。

一人の世界に埋没していると、酷く世の中から取り残された気分に陥ってしまう。
そこが精神世界の良さであり、きつさでもある。

そこを乗り越えないと歌人にはなれないのかもしれない。
”個”の世界に埋没できるのも才能なのかもしれないな・・
枷の無い人か・・・
あるんだけどね、たっぷり。

この矛盾・・・・・・
唐辛子2本分のぽかぽか気分だから、どーにもならないかも。

 

 

「愛と微笑みと花」

at 2002 11/17 02:42

ボサノヴァは幸福のサウンド。
学生がモラトリアムを満喫していた時代のサウンド。
ジョアン・ジルベルトとアントニオ・カルロス・ジョビンが始めた、つくられた音。
ナラのアパートでお披露目されて、静かに学生の間でブームになっていった。
フォークとかシンガーソングライターなどという言葉のない時代の話であり、いわゆる時代の流行歌などとは正反対のサウンドだからレコード会社が相手にするわけもなく、それは静かにアマチュアの世界から広がっていった。

経団連がカッカすると戦争ネタや外交ネタで盛り上がるという定番にも飽き、医者が経営するから医療費が増大するとか、酪農から農業まで企業が生産管理するために法改正を進めるとか、安い労働力を確保するために保育施設を充実するとか、介護保険制度を導入したところで年寄りの数は増える一方で、われらの老後はいわば子どもが親の世話をするのが当たり前で、生活保護的最終手段として老人健康施設が使われるとかね・・・
すべては、経済だ。
経済が最優先されて、経済権益を守るために戦争すら定期的に勃発する可能性すらある。

反米テロなんだよね・・
テロリストの標的は宗教ではなく、アメリカ。

自由主義とはいうけれど、経済でガンジガラメにされた精神にはゆとりすらない。
合理的で効率的でそこには無駄が欠如している。

何もしないでいられる時間が存在していないのではないかと思うくらい不自由だ。

特にそれに不満があるというわけではないけれど、飽きた。

1本の薔薇を買うゆとりもない・・

金の問題ではなく、精神的なゆとりが存在していないのかもしれない。

すべての人が毎月300円の無駄をするだけでずいぶん不景気は緩和するのかもしれないけれど、それでいて無駄は嫌われる。
何をするのも大義名分が必要になる。
仕事に必要だからとか、勉強になるからとか、贈り物にするためとか、何か理由が必要。
自分の行動を説明しなければならない。

管理なのね・・
すべてが管理されている。

欝の人は正直だと思った。
いくつか恋をして、セロトニンが満たされる関係もあれば、満たされない関係もある。
あまりにも正直なので驚いた。
何かどこかが違う・・
何となくその違いがわかったけれど、それがあまりにも正直なのでうまく説明できない。
少なくても肉体関係ではない。
精神はそんなに簡単ではない。
愛もそのうち科学的に説明されてしまうのかもしれないと思うほどだ。

恋の短歌が癒しか。
セロトニン不足が若干解消されるのかもしれん。
薬代がうく。
経済効果を考えてはダメなのかもしれないけど。

というわけで、テロが発生してどういうわけかものすごく嫌がらせされたけど、ようやく短歌関係も平穏さを取り戻した気がする。
ゲームに埋没していると思っていた間に、こんなことを・・
ビジュアルな美しさと短歌の融合か。

ラサちゃんの『時空短歌』。

愛と平和を求めて未来探しの旅・・・

ボサノヴァのキャッチフレーズが、「愛と微笑みと花」・・・

サイト名を変えようかな・・・

 

 

静かなる革命の足音

at 2002 11/16 01:23

歴史上、こんなに静かで不透明な革命はかつて存在しなかった。
現金をあまり使わない。
大抵の観光地くらいであれば、カードがあれば世界中で支払いができるし、ネットバンクのほうが金利がいいし、銀行の支店が減った分、各銀行共通のATMがショッピング・モールや病院、役所に設置される。これからの銀行強盗は銀行へ行ってもあまり仕事にはならないかもしれない。
端末入力する程度の仕事なら、自宅でもできる。
というわけで、正社員を雇わなくても済む。
買い物もインターネット、世間話もネット、電話の代わりにメール、広告もネット?

あたしの子どもの頃は、将来の夢というと、宇宙飛行士とかプロ野球選手というのが圧倒的だったけど、今の子どもは男の子は大工さんで、女の子はケーキ屋さんというのが人気らしい。たしかに自宅で過ごす時間が長くなれば居住性のよい家と美味しいケーキなんだろうな・・不思議。
数十年後にはそういう時代が到来するのかもしれない。
ネットでは補いきれないものが人気になるのかも。

雪印や日本ハムではないけれど、大量に商品を流通しているブランドは危ないというイメージが広がる。松坂牛が人気になれば偽物がデパートでですら販売されてしまう。魚沼産のコシヒカリなどといっても実際に魚沼産であるかどうかすらわからない。
「おしん」というドラマが流行ったけど、彼女の晩年は大型店舗だったような記憶があるな・・
スーパーが出来るというと地元の商店街が反発するという図式。世の中は経済成長期。国が倒産するなんてことは想像しない。規模の大きさが信用に繋がっていた。結局、コストを削減することによって安く販売できるし・・
今は逆だな・・
小さいけど品質の見える店に人気が集まる。
人件費などに費用が掛からないから、経営もラク。
大企業や銀行が倒産するなんて想像していない人のほうが多かった。つまり、大量の人々が困るから国が何とかするだろうという甘えかな・・
国に余裕があれば何とかしてくれるかもしれないけれど、気が付けば借金地獄だもの、どうにもならない。
つまり大きな企業ほど収益が確保できないような仕組みになってしまった。
売っても売っても儲からない。
だから、品質が落ちる。
そのくせ人件費の安い国からどんどん安価な商品が入ってきてしまうために、つまらない消耗品であれば国産を使う必要性がない。アメリカ製だと思ったら製造はアジアだったなんてこともめずらしくないわけで、どこでつくられたかということも意味はない。
恐竜が絶滅したのを思い出す。

どうやって考えてもこれは革命だ。
資本主義社会・・
マイクロソフト社だって世代交代したら絶滅の危機がある。
巨大帝国が簡単に衰退してしまう。

わざわざ自民党を叩かなくても、巨大化したものが自然と崩壊していくわけで、皮肉なことにその煽りが労働者の生活を圧迫してしまう。腐敗したところから自然と消えていってしまうだけのことだ。
わざわざ革命の旗を掲げる必要性もなければ、革命の歌を歌って行進する必要性もない。
誰かをギロチン台へ送る必要性もなく、静かに何かが崩れていく。

にしてもね・・
次世代の指導者には大型パソコンが採用されて、人間はのんびり遊んでいるほうが平和なのかも。
信号機のほうが人間にはいいのよ。
うまく説明できないけど、誰かにあーしろこーしろと言われて何かに従ったりルールを守ったりするよりも、信号機で機械的にルールを守るほうがいいらしい。
ヘンな時代だな・・そーなると。

 

 

迷う・・

at 2002 11/15 15:09

連日、拉致事件についての報道がなされる。が、しかし、今回、これをネタにして能書きを述べないようにしてきた。
理由は、娘が泣いたから。
拉致というか、誘拐されたらお父さんともお母さんとも会えなくなるという事件は子どもにとってはショッキングな出来事であり、かなりインパクトがあってショックを受けていた。
親としても一瞬不安になって、子どもにドラエフォンを買ってあげようかと思ったけどやめた。
だって、帰ってくるなり友達のところに電話してるし、近頃だと9時ごろでも友達から電話が掛かってくるようになって、小学生のうちからこうなんだから先々を考えると先走るのはよくないと思ったから・・一人が持つと他の子もとなってしまいやすいので、よそのお母さんたちから問い合わせの電話が掛かってくるのがかったるいし・・・
漫画程度だったらいいんだけどね。

誘拐や行方不明は多いのかもしれないけれど、北朝鮮の拉致となると個人の自由すら感じられない。
あっさり語ると、この事件にショックを受けて泣いている娘をなだめるために、自分が思ったのは亡命・・
特に日本に不満があるわけではないけれど、娘と国を秤にかけたら娘のほうが大事。正確には娘の気持ちのほうが大事。
わかりやすい。

国家とか企業とか組織とか家庭とか・・社会のニーズとか・・・
不景気とかデフレとか失業とか・・・

アートと狂気は紙一重か・・

世の中を自分一人で支えているらしい・・発狂すると。
一人で社会と戦っているのだろうか・・・

国は衰退するのよね・・
経済のピークの後に、文化のピークが来る。
その後に自然と政治スタイルが変化する。
つまりは新しい政権や指導者や権力が移動するだけなのかもしれないけれど。

経済がダメになって、鬱々する人たちが増え、それが狂気・・じゃなかったアートへと繋がるのかもしれない。
マシュー・ハーバートのインタビュー記事を読んでいて、サウンドがアートだということを思い出したけど、それを語るなら日本の場合、漫画のほうが遥かにアートっぽいな。理屈っぽくもあるし、わかりやすくもあるし、イマジネーション性も高い。

いつの間にか親方日の丸で、巨大化した企業や銀行・・
個人ショップというのは面白い。
中小企業という言葉はあまり好きではないけれど、世の中があまりにも集合体に汚染されていて、個人の発想すら集団化しないと語れない人たちが多い。
デフレでもインフレでもいいさ。
全体を見るから鬱々とするだけの話であって、結局、発言力という名の権力もあるらしいし、なんかね・・アホらしくなってしまう。

あっちでもこっちでも同じようなトラブルが続出している。
経済権益を守るための戦争か。
それが容認されるような社会だから・・・・いいのね。

それよりも娘にドラエフォンを持たせるかどうかのほうが迷うな・・

 

 

向き不向きがあるから

at 2002 11/14 04:55

花屋の親父の経営戦略を眺めていると楽しい。
紫のバラ・・・
しかも、あんなに濃い紫のバラというのはとてもめずらしい。
安い花はどんどんスーパーへ卸してしまう。
だから、店には高品質の花だけが並んでいる。
あれならたしかにクルマで花を買いに来る客がいるのも無理はないと思った。

花というのはきっと生活必需品ではないんだな・・
だから、贈り物やちょっとした気分転換や、たしかに雰囲気の世界なのかもしれない。
何となく気分転換に花を買いに行くわけだ・・
世にもめずらしい花を見つけてウキウキするのね。
ありふれたお花ならたしかにわざわざクルマで買いに行く必要はないから・・
何かどこかが違うということを発見するのは楽しい。

逆に、280円のポトスは売り物ではなく単なる飾りなんだろうな・・
それを何となく買って行く近所のおばあちゃんか・・
なんか救われるな。

同じ主婦でも何かどこか違う・・・
その苦しみよ!

主婦向けの雑誌をスーパーでペラペラ立ち読みする。
パソコンでお仕事か・・
偉い・・・
パソコン代やクルマの維持費を自分で稼ぎ、育児サークルやらカントリードールか・・
すこぶる”ザ・主婦”という感じがして、サイトを眺めても、なんか実用的だもの。
ほんと偉いわ!

うちのサイトに来訪しても役立つような情報があるわけでもないし、家の中にはガラクタが多いけどオークションに出品するようなシロモノでもないし・・
ほんでも娘の友達が遊びに来て、何となく面白いんだろうな・・
家中走り回っている。

やはり向き不向きというか、人間には器というものがあるのかもしれん。
子どもが走り回っていても、幽玄な世界で遊んでいられるのも才能らしいからちょっとはがんばろ・・

 

 

光景

at 2002 11/13 09:38

面白い喩えだと思ってしまう。

『京都の石庭を歩く修学旅行生』・・・

「あんなの単なる石ころだよ」と思いながらゾロゾロ歩き、俯きながらせっせと携帯を使うことに気を取られている。
石庭を眺めに来た人たちにとっても迷惑な存在だろうし、歩きたくもないところを歩かなければならない修学旅行生にとってもつまらないだろうし、それでいてそういう光景に何となくほんわかした癒しを感じてしまう・・ヘンなあたし。

こーね・・いろんな庭を見尽くして、最終的に幽玄な美しさというか、幻想・幻影の世界に魅了される人の気持ちもわかるし、それが酷く退屈でそれより友達とつまらないおしゃべりをしているほうが楽しいというオコチャマの気持ちもわかるし、幻想や幻影の世界に癒しを感じないという不躾なオコチャマの感性がこれまた癒しなわけで、単なる石を幻想の庭に仕立ててしまうという儚さを理解する人間なんて少ないほうがいいと思うわけさ。

幻想の庭であれば、それが破壊されてもまた造ればいいし・・・
毎日毎日坊さんが庭を描く。

そのことの意味がわからないって救われる。

そして、それが”日常”として京都の寺を支えている。

アウトサイダーとしての面白さというのはあるな。
石庭も修学旅行生も一つの”光景”だから。
すべてが一つだ。
庭を造る人、それを眺める人、通り過ぎる人・・
そのすべてが環境因子。
冷やかしか・・

ガイドの説明は酷く退屈で、何年に誰それがそれを造ったとかね・・どうでもいいような丸暗記の知識を冷やかしの客に説明するだけ。
でも、観光客が知りたいのは、トイレがどこにあるかとか、目当てのみやげ物はどこに売っているかとか・・
中にはもっと突っ込んだ話を訊いてくる人もいるかもしれないけど、そこまで答える必要性はない。

精神世界を説明する愚かさにも似ているな。
庭を黙って眺めればいいのさ。

何かをする前から何かに疲れることってあるのね・・

訊かれるから素直に答えるだけであって、自分はガイドではない。
坊さんでもないしなぁ・・・
そこに光景があるから、何となく呟きたいだけ。

 

 

エグゼクティブ・ウェブサイト

at 2002 11/11 14:46

ウェブの殺伐とした世界を泳いでいると、うまく語れないくらい屈折したものを感じてしまうことがある。
その正体をどうやって表現したらいいのか困る。
視点が違う・・・
たしかにその通りなんだけど、「どうしてそういう視点の違いが発生するのか?」ということがうまく伝わらない。

それはきっとアドバイスとカウンセリングの違いにも似ているのかもしれないし、占い師とカウンセラーの違いにも似ているのかもしれない。
他人のサイトから、類例を引っ張ってきて説明するとこういうことになる。

『A社とB社のどちらに就職するか?』

アドバイスを求められた人は、A社とB社を比較しながらあれこれ説明してくれるのだろう・・
カウンセラーはそんなことはしない。
迷っている本人が「何をやりたいのか?」とかね・・つまりは”目的”を一緒に探す。
そのために自己を眺めたり、自我を確立させたり、いろんな心理療法などのテクニックを駆使したり、つまりは自らが自らの答えを見つけられるようにお手伝いするのが仕事。

「どうしてサイトをつくるのか?」とか、「ネットで何をしたいのか?」というのは個々に違うだろうし、方向性がいくつも錯綜・重複している人いる人もたくさんいるだろうし、それでいて自分の場合は、”何となく”流れの中で短歌を詠んだり、サイトをつくったりしているだけで、そこには明確な目的が存在しているわけではない。
でも、無意識のうちに何か目的が存在するからこそ、長く続いているのだろうし、目的が違うから喧嘩になることもある。

その昔、ろっき〜さんと喧嘩になったのは、実はそういう目的意識の違いといったシンプルなことがネックであり、もちろんそのトリガーとなったのはいろいろな嫌がらせなどが発生したからだけど、それ以上にうまく説明できないほどの異質性が存在していたからかもしれない。

短歌なんて地味で退屈でしょ?
実際、あたしも好きではなかったし興味もなかった。
ところが、サイトでイラストを使いたいという理由だけで短歌を詠み始めたわけで、そこには短歌というイメージを超えた”華やかさ”があったからだと思うの。
最新のウェブの技術を取り入れて、詩や短歌の世界を表現しようとしているわけで、歌人も若かったし、どちらかというと地味な世界に活気がある。
”雰囲気”なのよね・・
華やかな美しさがある・・
つまり、華美な世界。

ところがこれがこれですったもんだの原因となってしまう。
画像が盗用されたり、ウェブの技術をタダで教えてくださるものだから、それこそ技術が覚えたいという理由で短歌を詠んでる人もいたし・・・
そうなると歌人は嫌になっちゃうんだろうね・・
テキストだけでも充分な人が多いから・・
”雰囲気”なのよね・・
やたらと華美な世界ではなく、何となくほんわかした自分の世界を大切にしたいというか・・

それぞれに役割というか、目的が違うからなのかもしれない。
分担がハッキリしちゃえば簡単なのよね・・
ウェブをつくるのが好きな人、短歌を詠むのが好きな人という具合に。

やたらと広告ばかりのサーバなんて嫌でしょ?
これが嫌だったら、阻止するソフトまであるという・・いたちごっこ。
一番簡単なのは、そういうサーバを使わないことだろうし、ポップアップ広告なんてクリックしたことないし、見てもマイナスイメージしか持てない。
つまり、マイナスを広告しているわけで、何のために広告しているのかわからないけれど、それでも効果があるからそうなるのかもしれないし・・・
もっともそこのサイトに行くのが目的だから、来訪者はサーバを選択できないし・・・
だから、有料サーバを借りてまで短歌のコンテンツを無償提供していくわけだ。

こだわりなのかもしれないな・・
自分の短歌をコツコツ自分のつくりたいようにコンテンツにするのともまた違ったこだわり。
テクニカルな美しさというのもあるし、見ていて楽しいのも事実。
一つ抑えた美しさというのが必要なのかもしれないし、それがうまく表現できた時の快感みたいなものがあるらしい・・
殺伐とした現実から逃れるための時間を大切にしているから、詩や短歌のコンテンツをつくってくれているらしい・・
テクニカル合戦より一つ上のこだわりなのかもしれない。

 

 

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