Rin's Diary
September, 2002
(No.1)

 

生き方上手を学ぶ

at 2002 09/10 19:22

母のくれたお守りに不思議なお守りがある。
出雲大社のコインだった気がするけど、昔のコインを象ったもの。
最初、よくわからなかった・・・意味が。
普通は金運っていうと収入が増えたりするでしょ?
これは最初から意味が違う。
上手にお金が使えますように・・という意味のお守りらしい。

たしかにどんなに収入があっても使えば無くなる。
それよりもお金をどうやって使ったら幸せになるかを考えるほうが生産的なような気がすることが多い。
研究室で副手さんとお話していて、そんなことを言ったら、ちょっと怪訝な顔をされたのを覚えている。

要求水準が違うと価値観が違うから、精神的なものは物理的な基準とは違うことがよくわかる。
100点採るのが当たり前の人は95点でも落ち込むからなぁ・・・・
毎回平均点くらいの人なら少し上がると喜ぶ。
同じ80点でも全然意味が違う。
物理的には同じでも、精神的にはまったく意味が違う。
だから、物理的尺度だけでいろんなことを判断していてはダメなのかも。
よく「お金があっても幸せにはなれない」って言う人がいる。
それは或る意味本当だけど、或る意味間違っている。
要求水準の違いはあるから・・・
国内の住宅メーカー企画の住宅地があって、同じ家なのに片方は1億以上して、片方は4000万くらい。
だから”土地”だと語る人が多い。
同じメーカーが開発すると同じ家が並んでいたりするから同じような街並み。
神戸だとめちゃ高いけど、茨城だと安い。
神戸のほうだと同じ家なのにどこの家もクルマが2台くらいあって、高級外車がどこの家の車庫にも飾ってあったりする。
茨城だと平凡だよね・・・
家も外構も同じメーカーが開発するとなぜか同じなのよ・・・
なのに違う。
どっちにも住みたくなかった。

”当たり前”の基準が違うと大変だよね・・・
同じ家なのに、周囲に合わせようとするし・・・
神戸だったらつまらないことにお金が掛かるようになりそうだし、茨城だったら近所に気を使わなければならない。
どっちも考えただけで憂鬱になる。
家族で住むわけだし、スーパーで売っているものなんてそんなには違わない。
つまり、生活必需品というのは決まっているから・・・
”定価”がある国というのはその点ありがたいと思ってしまう。

そのうち土地の価格が下がってきて、1億以上した家も売れ残り、メーカーも値段を下げないように頑張っているけど無理だ。
どんどん中古住宅も出てくるし、どんどん下がる。
下がった差額で茨城なら立派な家が買える・・・
そんなことを考えると狂ってしまいそうなので、狂わないようにずっと家計簿をつけていた。
家計簿の数字を眺めて、生活を決める。
光熱費や食費なんてそんなには変わらない。
結局、家だの服だのクルマだの教育費だの交際費だの遊興費だの・・・つまりは生きるに必要のない部分での出費が違う。
気が付いたら生涯支出を計算してしまっていた。
そうしないと生命保険の掛け金も違ってくるし・・・
あたしは働いたことがないので、とりあえずダンナが死んでもパートで働けば子どもを大学へ行かせてあげられる・・ということが基準だったな。
一人娘だし、のんき。

アウレアさんにもいろんなことを教えてもらった。
お金を全然使わないのに裕福だから・・・驚いた。
日系ブラジル人だから、生活用品は使い捨てになってしまうからお金を掛けない。
人柄が良かったので、これが必要だと思うと何となく供給されていたような気がするな・・・
家具もほとんど無い家なんだけど、日本の家庭なんてちゃぶ台があれば食事が出来るということを思い出した。
この前、偶然、彼女の家で使っていた中古の軽自動車が隣の車線を走っていた。
よく見たら、東南アジア系か南米系かわからないけど、外国人のファミリーが子どもをたくさん乗せて走っていた。
こんな風に書くと、すごく大変そうでしょ?
ところがね、最新のパソコンとファックスとビデオと子どものおもちゃは高級品(いただきものらしい・・うちにもくれ〜〜って思ったけど・・)だし、ヒマな時には内職しながら「お母さんといっしょ」のビデオを観たり、テレビを観たりしている。
つまりは、日本語の勉強らしい・・・
ご主人が戻ってくるとBS放送で英語の番組を観ているらしい。
新聞もどこからともなくポルトガル語の地元紙を買ってくる。
食材もこの辺は外国人が多いので、クルマでちんたら買いに行っている。
そんなに遠くはないらしいけど、場所が見つけにくいらしくて道順を訊いたけどわからなかった。
わかったとしても、ブラジル豆をどうやって料理に使うのか悩むし・・・
などと語ったら、一度作り方を教えてくれたけど、あたしは食べただけで終わった。

なんかね・・・あらゆる意味でとても人間的なんだな・・・生き方が。
道具も増やしても本国へは持っていけないし、要らないものはどんどん友達へ。
必要なら何となく集まってくるし、外見と言葉がまったくの日本人より日本人的だから、平均的な日本家庭の生活をしていると日本人より日本人的で、違和感がない。
そのくせブラジル人だから、自分たちの生活が当たり前ではないことを知っている。
だから、なんか幸せそうで、いつも誰かが集まっていた。
まぁ・・・中にはいろんな人がいらっしゃるから、それはそれで大変なのかもしれないけど、淡白だもんね・・・逃げ場があるんだな・・・本国という・・・・

いろんなことを思い出したな・・・
同じような生活をしていても違う。
まともなんだよね・・・
誰かのものを欲しがったりするような生活はダメだな。
アウレアさんのうちの子、虐められてることがあった。
大抵は”おもちゃ”が原因だったと思う。
”キティの台所セット”とか、子どもが欲しくても買ってもらえないおもちゃなんだろうな・・・
2歳にしてそうなんだから・・・
日本の子どもがブラジルの子どもに嫉妬して虐めるわけだ。
買ったんじゃないんだよね・・・”いただきもの”。
あたしでさえ、「うちにもくれ〜〜〜、○○さん!」って思っちゃうもんね・・・
あー、やだやだ。
大人と違って子どもの世界は正直だから、イヤになるなぁ・・・
おちびはトロトロしてるから、救われた。

 

 

『あなたは、戦争のない社会を想像することができますか?』

at 2002 09/10 02:36

もちろん、Yes!
戦争というよりも暴力のない社会を想像すればわかりやすいと思う。誰でも激しい怒りや憎しみや悲しみを感じることはある。怒りたいときには怒り、憎みたいときには憎み、泣きたいときには素直に泣く。

殺さないこと・・・
殴らないこと・・
愛すること・・

永久の楽園はある。(たぶん)




* 投票してみます?→『9.11以後』

 

 

何を迷っているのか?

at 2002 09/09 16:27

ルドビーさん、しばらく書かせてくださいね。
「あなたはケンカを売ってるのか?」
と問われて書くのをやめようかと思ったんですけど(そんなつもりはまったくありませんから・・)、自分がこれまで浴びてきた毒を吐き出すためにも書いたほうがいいと思うのです。
「ガラスの箱にちょこんと座った人。
彼はキュートだけど、そのおかげでパリのホテルではとんでもない目にあったよ。部屋を取り替えてもらおうと思ったけど、あいにく法王の来仏と重なっていて代わりの部屋を用意できなくて申し訳ないとホテルの人に言われた」とか・・・

すべての人の気持ちはわかるでしょ?
だから言われて腹は立ちません。
それに言われて怒る理由もないし・・ましてや彼女はあたしを責めているわけではない。
そこのところをうまく説明できないのかもしれないですね・・・
そのホテルの隣の駐車場で野宿していたのは自分の知り合いではないです。
その場に自分がいたとしたら、やはり諦めて眠れない夜を過ごしていたかもしれないし、一緒になって朝まで騒いでいただろうか・・・
一緒に騒ぐほうが精神的にはすごく楽なんですけどね・・でも、しないな。
せっせとクレームを言いに行く?
言わないな・・・
黙って自分のことをしていればいいだけ。

だからね・・・普通は書かない。

免疫の度合いというものがあって、それに個人差があるためにいつも迷うだけなんですよ・・・


(「独り言という名の対話」より)

 

 

教会のIT時代

at 2002 09/08 07:54

結婚式や披露宴などに呼ばれて、歌うことを営業活動と呼んでいた時代がある。いわゆるセレモニーというか、この他にもミサ曲などを何となくハナウタにしながら街を徘徊するようになると、顔にミッション系と書いてあるらしく、それが単なる雰囲気にすぎないことが何となくわかってくる。教会へ行くのか、遊びに行くのかわからない。教会から外へ出た瞬間の開放感と充実感というものがかろうじてテンションの存在を知らせてくれる。

インターネットを始めて、ルドビーさんのサイトへ漂着してしまったのはまったくの偶然であり、最初は失敗したと思っていた。どうして失敗したかというと、リアルとバーチャルが混在すると酷くめんどーだと思ったから。教会へ行くと、バザー、チャリティ、ボランティア、寄付、その他諸々ほかの信者さんとのお付き合いとか・・・「あーいうのは好きな人がやればいいよね・・」という友達は多い。ネットを始めてからも大学の後輩と知り合ったりしたけれど、母校へは行っても信者さん同士の集まりには参加しない。
マスのレベルで活動することと、一人で本を読んだりすることとは違う。

いつから分かれたんだろう?
そのことを不意に思い出す。
教会へ行ったり、コンサートへ行ったりすることは、「友達と遊びに行く」と説明する。これってイタリア人が女性を口説く時に、「マドンナ、ベラドンナ」と盛んに口にするのにどこか共通するものがある。良くも悪くも”宗教活動”ではない。
少なくても、スピリチュアルな世界じゃないでしょ?

でね、いわば自分はテンションが高いと思うことがあるけれど、実は決してテンションが高いわけではなくて、それを説明するのが酷く困難になるために、「自分は信者ではありません」と必ず語る。「それならどうして・・」ということになるから、余計にややこしくなってしまう。たまたま御聖堂に座っていたのは、学食と教室の間に御聖堂があったからで、シスターとはいっても宗教のお話をしているのではなく、たまたま英語の先生だったり、いきなりテニスコート脇を突っ切って面会しに行ったり・・・結婚式もね、どうしても御聖堂というわけではなくて、たまたま電話したら希望の日がキャンセルが出たらしくてすんなり。だから、信者というわけではない。

それと並行して心理学を研究していた時代が長かったので、どうしても2つのベクトルが相反してしまうために自分の中にはくっきりとした溝が存在している。
その溝を超えて、自分がどこへ行きたかったかといえば、スピリチュアルな世界。
人間というものを考える時、常に抽象的な対象として他者が存在しているために、どこか突き放した部分で考えることに慣れすぎている。社会も宗教も関係ない。すべての要素は構成要素であり、そのように考えてしまうと逆に人間的な事象が癒しになると同時に、概念の交わりを嫌う。

ひらったく語ると、人間関係は煩わしいけれど、それでいてスピリチュアルな世界を模索してみたいという・・・

ジレンマはあるなぁ・・・・・
なんかね・・・ガンガンに書きたい時もあるんだけど、人付き合いというものを考えると書かないほうがいいということになってしまう。自分のサイトでは、すでに来訪者の人も分けて考えてくれているのでそういうことをあまり気にしなくなった。
情報発信系のウェブサイトだったらいいのだけれど、ネットに人間関係を求める世界だとどうしても気を使わなければならない。これについてはどこのサイトの管理人さんも考えていることだから、深く考えたことはないのだけれど、教会関係のウェブは狭いから、それが悩みの種でもある。世界中からアクセスがあると思うんだけど、何となく狭い。
同窓会を開くためにネットを始めたわけでもない。それ以外の人間関係のほうが遥かに多いし、中には風俗の人もいるし、犯罪者もいる。健常者だけではなくて、精神障害をもった人も多い。それでも何かを求めて来訪してくださっているわけで、そこのところがまたややこしい。

リアルだったら教会になんて絶対行かない人でも、サイトには来訪することもある。そこがITの良さだと思うんだけど、教会を支えているのは信者です、という・・・か。嫌味ではなくて、それが嫌味に受け止められてしまう土壌がある限り、何のためのITなのか・・・・


(「独り言という名の対話」より)

 

 

リアクション

at 2002 09/08 02:44

バーチャルな世界が純粋にバーチャルであれば、手に負えないことなんて何もない気がする。
旅行から戻ってきて以来、ヘンな出来事もないし・・・
一番困るのは、顔の見えない人たちのことかもしれない。
たとえばこれはlittlehimeさんに対してレスを書いているんだけど、それを第3者が読むでしょ?
かといって、わざわざメールに書くような話でもないし・・・
うちのサイトに書いていても誰も気にしない話でも、ほかの人のサイトに書けば違うリアクションがあったりして、背景文脈が違うだけで結構気を使ったりするから。

以前さ・・・
「あたしは風俗では働きたくない」、「水商売はしたくない」って書いたら、すんごいブーイングだったのよ。
差別だの偏見だのという具合。
ところがね、実際に水商売で働いている人や風俗で働いている人は逆にクールなのよね・・・うまく説明できないけど。
身内が水商売をしているのを隠していたり、もしくは風俗で働きたいという欲求のある人なんかはすごいリアクションなのよね・・・何気ない一言にめちゃくちゃ怒り出す。
近頃宗教ネタを書いているけど、一緒だなぁ・・・
宗教どっぷりの人は何を言われも淡白なんだけど、ちょっとかじり始めた人からのリアクションはすごいかもしれない。
マルチにいろんな人の都合を考えてたら、サイトの管理人なんてできんと思うわ・・・


(「独り言という名の対話」より)

 

 

羅針盤

at 2002 09/08 02:00

迷った時にはどうするか?
やめるに限る。
今月はどういうわけか宗教ネタからスタートしてしまったために宗教ネタが増えてしまったけれど、自分という人間の背景文脈がややこしいためにある意味においてすぐにドクターストップが掛かってしまう。
それはそれで不自由な気もするけれど、どうしてもややこしいことを書かなければならないという義務があるわけでもなく、かといってどうしても書いてはいけないと決めているわけでもない。
つまりは長い間ずっと沈黙しているにはいるなりの理由が存在するからであり、自分のことをしていればいいだけのような気がするから。

長生きしようと思ったら、無理はしないに限る。
結局ね、日頃水と油なんだから、そういう人たちは互いに知らん顔しているくらいがちょうどいい気がするし、喧嘩にはならない。
ラインがきっちりあって、どちらも交わらなければ平和。
考え出したらますますわからないことだらけだし、ますますわからなくなるために勉強するようなもので、だとすれば何も考えないほうが自分のためのような気がする。
まっすぐ進もうと思ったら逆の方向へ進んでしまうというか・・・
それこそ道のない道というのはそういうもので、潮の流れ、風次第で、実はどこへ進んでしまうのかわからなくなる。
そのために羅針盤というものが必要だったのかもしれないけれど、それすら役に立たなくなったら何を信じてよいのかわからない。
ならば素直に風まかせ・・・

あっちにもこっちにも気を使いながら何かをするくらいなら何もやらないほうがマシだ。
黙って自分のことをしているくらいが楽しい。
結局、信者さんというのは顔なんだな・・・
人との繋がりを求めて宗教へ・・という人が多い。
それが悪いとは思えないけれど、それが自分にとっては癒しにはならない。
ルンルンしている人は自ら教会へは行かない・・
ルンルンしている人は精神世界などは遠い世界の出来事であり、精神世界へ興味をもつ人は鬱々している人が多いというのも事実。
それでいて、そういうことに興味のない人でも結局ほかの理由で鬱々したりする。
どうやっても鬱々するのが人間という気がするし、それをどうやって克服するかにはそれぞれに個人差があるだけのような気がする。
だからこれがいいとか悪いとかいう問題でもなく、自分が何かで癒され、すっきりしちゃえば終わる。

癒しがほしいのはこっちなのよね・・・
それはいつも思うのだけれど、一人でぼっけーっとしているのが一番の癒しのような気がするな。
学問は癒しになるか?
なる。

 

 

「ジーザス・マイ・ラブ彼氏なの」

at 2002 09/07 09:01

「ジーザス・マイ・ラブ彼氏なの」

というのは、特にふざけているわけではないんですよ・・・これこそ20年くらい前に神さまと出会った瞬間におしえていただいたことだったんです。
いろいろな人とお話しているうちに、普通は神さまと出会った時から信仰への道が広がっていくということを知りました。よく考えたら当たり前のことだったんだけど、ほかの人の当たり前が自分にとっては当たり前ではなく、その日以来、あたしは宗教活動をしなくなりました。それでいて、首に鈴をつけられた猫のように、ちょこんと呼び戻されてしまう。

「一番好きな人とは結婚できないよ」

日常的に神の愛に溢れている世界にいると、どこか感性が違ってきてしまう。
神さまがいるとかいないとかね・・そういう次元ではなくて、いるわけだから、そこのところを訊かれる。
神の愛を知りたいのであれば、聖書とかね・・教会へ行くとかね・・ほかに。
自分に訊かれても、どうして訊かれるのか不思議ですよね?
これは自分でも不思議なことの一つなんですけど、知っているということがヘンだと思いませんか?

特に親がクリスチャンであったとか、教会へ通っていたとか、哲学から学んだとか、そういう知り方ではなく、それは一瞬にして与えられたとしか語れない。
すべての感情が静止してしまうような静かな愛というのを自分はほかには知りません。それ以前にもそれ以後にもそれは存在せず、それを概念と呼ぶのであれば文字から与えられたものでもなく、概念とは学習するものであり、感情も学習するものであり、始めからあるものではない。
親が愛に満ち溢れた人なら子どもは親から愛を学びます。ところが、親から虐待された子どもは間違った愛を覚えてしまう。或いは、愛を知らずに生きていかねばならない。
人は愛を知らずに生きていけるものなんですよね・・そのことをいろんな人たちから学びました。
でね、親の愛を知らない人たちに愛を伝えるためには、言葉でもなく、行動でもなく、気持ちを伝えるわけだから、すごく大変なんです。親がいながらにして、愛を伝えるわけですから、それなら親のいない子どものほうが幸せかもしれないと思うほどです。
親を憎んでいる子どもにどうやって愛を伝えるか?
想像を絶するほどの反発がある。
彼らが素直に家に戻るはずもなく、家へ戻ることを説得するわけでもなく、それでいて彼らは素直に親の愛というものを知りたいんです。
素直に家に戻ってくれると、安堵感すらある。ところが世の中は甘くない。

彼らは家に戻りたいわけではなく、知りたいだけ・・
知りたいから訊きに来る。
あたしの仕事は無理に家へ連れて行くことではなく、彼らの知りたいことを伝えるだけ・・
極めて無責任だけど、自分が親というわけではないから・・・
無責任だから、気楽に訊きに来るだけの話なのね・・・
子どもと話しているのと親と話しているのとどっちが楽かと言えば、子どもです。
出来の良いお子さんと話しているのと、出来の悪いお子さんと話しているのとどちらが楽か?
出来の良いお子さんは、あたしのところになんかは来ないですから・・・

宗教の話は極めて、神経を使う。
親を憎んでいる子どもでさえ、自分の親の悪口を言われると腹が立つんですから。
それでいて親を肯定すると、すごい反発が・・・
この辺のバランスなんですよね。

キリスト教の難しいところは、「どこが違うの?」というところなんです。
概念を伝える難しさなのかもしれないです。
行動というマニュアルがあって、そこからはみ出さなければ他人にはわからない。
だからこころは見えないと勘違いする人が多い。
ありとあらゆる”悪”のレッテルを貼られて、なおかつ”善”として存在しているということ、これを”神”という言葉で語る。それが宗教者。
あまりにもすっきりしているので、羨ましくなるけど、自分にはこれがゆるされていない。


(「独り言という名の対話」より)

 

 

空は高く青かった

at 2002 09/06 18:55

なんだか突然なんですけど、フランチェスコがイタリア人だということを不意に思い出しました。ふらんちぇ〜すこぉ、か・・・たしかにヘンな名前だったのかもしれないですね・・・
田舎の素朴な奇妙な名前をもつイタリア青年。俗物の父親と信心深い母親・・・・鎧で完全武装されて送り出されてしまった・・・・(すみません・・笑い上戸なんです・・)なんか・・・そのたいへんさが、いろんなことを思い出させてくれるというか・・・・そーいうことだったんですね。(←意味不明)


(「独り言という名の対話」より)

 

 

こころのバランス

at 2002 09/06 00:04

交流分析とかエゴグラムとか、一時期すごく流行っていた気がするけど、今はどうなっているのかちとわかりかねる。
流行っていたとしても、あれはイヤだったなぁ・・・
なんか野蛮なのよ。
いわゆる自己啓発セミナーとか、企業の研修とか、「どーやったら社員のやる気を引き出すか?」とか、”自己実現”というか、働いたら働いただけ自分のために金を使えという発想かな。
そーなるとね、結婚相談でも、「理想のパートナーに出会えます」とかさ・・・
いつも前に向かって元気ぶって生きていかなければならなくなる。
こういう場合、あたしなんかはどことなく脳に電極を差し込まれたラットを連想してしまって、あーはなりたくないって素直に思ってしまう。

大昔、まだブラブラしていた時代に、友達にセミナーの説明会に誘われたことがある。
なんか、参加者はすごく満足している人が多いみたいだったから、それはそれで値打ちがあるのかもしれないとは思ったけど、費用が20万円ということと、誘ってくれた友達の手前言わなかったけど、あれって単なる自己満足の世界だもの・・・他人にビシバシ自分の意見を言って、そういう自分に酔いしれ、満足してしまう。
でね、そーいう状態になると、「自分のことがわかった」という風に勘違いする人が多かったような気がするの。
単なる自己満足の世界だし、本人が納得すればいいわけだし、そういう人たちばかりが集まって、互いに互いの自己満足を刺激し合うだけの関係が構成される。
言いたい放題の人間関係が形成されるわけで、それはそれですっきりしちゃうからいいんだろうね・・・

何がまずいかというと、退屈な人間が多くなるってことなのかもしれない。
一緒に居て、酷く退屈してしまうというか・・・
だって、所詮、自分のことばかりなんだもの。
元気な人たちだから、放置しておけば勝手に自分のやりたいことを自分の思うとおりにやってるだけだし、余計なことを言わなければ平和。
自分が不愉快になれば、なった分言い返せばいいのね・・・あの世界では。
それってキリがないから、という理由だけで、あたしなんかは疲れ果ててしまうので自分には合わなかったというだけだ。

自分のエゴを切るために苦労してるのにさ、せっせとエゴを出せって言われると疲れ果ててしまうというか・・・

今、どーやって上手にリタイアしようかとダンナと話し合っている。
30代でリタイアの話をしているわけで、つまりはダンナが一足先に40歳になってしまったので、なんかのんびりしたいな・・という気分なのよね。
30代では、結構いい仕事をしてきたと思う。
その分、うちのダンナは結構いい条件の仕事先が今ならある。
一線で仕事を続けるか、それとも後退するか、毎日そのことを考えている。
はっきり言って、いつまでも一線でいようと思ったら逆に儲からない。
上を目差すか、リタイアするか・・・・・
たしかに誰でも悩むよね。

狭き門か・・・・・

わからんのさ。
どっちがいいのかわからん。
要するにどっちでもいいのではないかという気がするから、すべてを成り行きに任せているんだけど、うちのダンナの性格から言って、”自己啓発セミナー”系の人間に囲まれると鬱々してしまうので、あたしはそれよりマイペースを維持できるような生活のほうが身のためかもしれないと思ってしまっている。

結局さ・・・・
何かを所有すればするほど、それを維持するのが大変になってしまうし、いつまでも他人に踊りを踊らされているだけの人生もつまらない。

うちはのんきなのよね・・・
あたしはいつも化粧もしないで、Tシャツとジーパンだし、美容院も年に1回行くか行かないかだけど、それでいて何も困らない。
特に目立つような生活もしていないし、それでいて、こんな時代に頑張らずに生きていられるわけだから、精神的にはラク。
自己啓発系の人間と一緒にいると、やたらと金が掛かるような気がするから付き合わない。
それならサイトでパチパチ書きたいことを書いているほうがすっきりしてしまう。
とりあえず、歌集を出版してインターネットで500冊売るという目標はあるけど、何もないよりはあったほうがいいよーな気がするし・・・

元気と勇気のバランスがムズカシイな。

 

 

おおきなことか?

at 2002 09/05 08:13

ちっぽけな自分に気が付いたらそこにはおおきな世界が広がっている。
無限大におおきな世界が存在していることにおそれおののくと、自分がちっぽけであることに気が付いて、すごく安心するよね・・・


(「独り言という名の対話」より)

 

 

大地に足を着けながら心は飛べるだろうか?

at 2002 09/04 22:21

素朴な疑問なんですけど、聖書って読んでいいものなんでしょうか?
極めて素朴な疑問なんです。聖書というのは、ほかの宗教で言うと、「魔封じ」というか、悪魔や魔物などと戦うための聖典に相当するんですよね・・・こういうのって、普通は位の高いお坊さんとか神官とか、その手の類の人たちのための魔切りというか・・・

バリ島へ行って思い出したんですけど、聖地や不浄な場所には近寄ってはいけないというのは、どこの土地にもあるもので、今では迷信みたいな感じに思われているからあまり気にする人はいないんですけど、ヨハネの黙示録なんて、いわば普通の人たちが行かないところで彼が見た悪夢のことで、夢の中でも戦っているところがすごいんですけど、逆に語ればどうしてそんなところへ彼がわざわざ行ったのか?ってことなんですよね・・・

ほんとわれながらとんちんかんなことばかり考えているとは思うんですけど、与えられてしまう怖さというか、求めれば誰にでも与えられてしまうということに対して臆病風というのはあるんですよね・・・
自分がヘンなのか、それともevilと戦いましょうと笑顔で語る聖職者がアレなのか、宗教の人でもないので、すごく迷うところなんです。

これってカウンセリングでもありますから・・・
つまり、クライアントさんの世界にあまりにも入りすぎてしまうので、必ずそれを他の人に抜いてもらうんです。
聖書はパワーがありすぎるから・・・
これはさすがに理屈ではうまく説明できないことの一つです。


(「独り言という名の対話」より)

 

 

←知らん顔

at 2002 09/04 16:38

宗教ネタを書こうか、「対象外」について書こうか迷っているうちに昨日は眠くなって寝てしまった。
なんか・・・出発前に下水道管の清掃を頼んでおいたので、水回りの大掃除をすることになってしまい、さすがに旅行の疲れと筋肉痛と大掃除が重なると夜は眠くなる。
良いことなのかもしれないけど、昼寝もしたからね・・結局早起きして日記を書いている情けないあたし・・・

「対象外の女」の記事を読んで、どういうわけか「対象外の男」のことを考えてしまったというのは単に自分が天邪鬼なんだろうか?
負けず嫌いとか?
そんなこともないな・・・
ただ何となく一連の奇妙な行動がわかりやすくなったからとしか言えない。

ネットをしていると、中途半端なナンパやろーというのが多い。
所帯持ちだからなのかもと漠然と思っていたけど、そういうのとも違うのかもしれないし、例の謎が解明したのかもしれない。
つまり・・・
「よいパパ」なんだよね・・・
なんでそんな人がネットでナンパしてるわけ?
そこが理解に苦しんでいるし、奥さんはよく何も言わないと思って悩む。

うちのダンナは浮気はしないけど、きついね。
やさしいんだけど、きつい。
意味がわからんだろうな。
いわば、「対象外の女」とは逆の苦労が常にある。
旅行へ行くとね、すでにあたしがエステへ行くものだと思っている。
バリ・エステは好きだけど、フル・コースだもんね・・・
姑さんでもうちの母親でも、元気な頃は毎月顔だけでもエステ・・・
さすがにあたしは普段はエステなんて行かないし、第一、化粧すらめったにしないんだから、少しは反省しなければいけないと思いながらそのままになってしまっている。
ちょっと太るとおちびがうるさい。
ダンナは口では言わないけれど、なぁ〜んとなくあるな。
あー、やだやだ。
叔母さんたちからも暗黙のプレッシャーが掛かる。
わからんだろうな・・・

なんかね・・・
あんまり書くと、また燃えカスと言われそうだからイヤなんだけど、若ければなおさら「対象外」であることなんてないでしょ?
だから、疲れるのよ。
だから、自然と傲慢になってしまう。
すると、「アンタなんて相手にしないわよ!」という感じになってしまいやすいので、めちゃくちゃ気を使う。
わかるかな・・・
疲れるのよ。
男の人といると気を使って疲れ果ててしまう。
世の中の大多数の人に対して一定の自分というものを保っているだけのことであって、特定の誰かに対してのみ傲慢になっているわけではなく、そういう疲れる中で、うちのダンナくらいかな・・・「対象外」のレッテルを貼っても怒らないのは。
ほんと性質がいいよね。
そう思って何となく結婚してしまった。

でね、ネットで知り合う中年男性には、怒るタイプが多い。
なんで怒るのか理解に苦しむ。
結婚してるんだから・・・いいでしょ?別に・・・
あっちもこっちも結婚しているわけだから、互いに対象外であっていいのよ。
どこが悪いんだろ?
ほんでね、あれこれ考えたんだけど、なんかね・・つまりは奥さんから「対象外の男」にされてしまっているのね・・・彼らは。
それで怒っているのかもしれないし、だから男とはそういうものだという勝手な思い込みによってノラクラ放浪しているだけなのかもしれない。
仕事も家庭もあるんだから、ムチャはしないみたいだけど、それはそれで何となくなぁ・・・
すでにパワーが無いのかもしれないな。
オーラとか?
きっと若い頃にはたくさんモテて、奥さんにも熱愛されて結婚したのかもしれないし、それでいて結婚するとどちらもそれに胡坐をかいたりするから、それに我慢が出来ずに怒っているだけなのかもしれない。
だって、子育ては大変だし・・・
いつまでも亭主の子守りをしている女は居ないよね。

などと書きながら、すでに何か疲れ始めてしまっている。
なんかね・・・そーいうことを考えるだけで、自分まで汚染されてしまいそうになるのが怖い。
いわゆる中年の倦みでしょ?
イイ男は自分が対象外にされても怒らない。
怒らないから、自然と若いコでも安心して集まってくるだけのことのような気がする。
だから、逆に倦まないな・・・
などと考えながら、これは逆にも当てはまるのかもしれないと思いながら、そういうこころの余裕を与えてくれているのが実はあたしの場合はダンナである気がすることもあるのよ。
怒らないから・・・
怒るかな・・・わからん。
あちらにとっても、あたしという女房がこころのユトリになっていてくれれば円満なんだろうとは思うけど。

りんさん?
まだ大丈夫みたい。
プールサイドでもまだナンパされるから。
プールから上がってきたダンナとバチバチバチ〜っとか?
(←知らん顔)

来年からは少しは反省しよ。

 

 

筋肉痛

at 2002 09/02 23:25

今日から平常通りの生活が始まる。
旅行帰りだとやることが多くてかなわんと思いながらも、結局、CDを聴きながらPCをオンしている。
美容院へも行こうかと思ったけど、それもこのままではノラクラと来月になってしまいそうな気がする。
銀行へ行って、久しぶりに雑誌を読み、雑誌を眺めているうちにすでに何かに飽きてしまっている。

宗教ネタかぁ・・・・
聖書から引用したりするとまずいかもしれないと思いつつ、まずいと思わないところからスタートしなければならない。
天使と悪魔が壮絶なバトルをしている中でも、ぼっけーっとしているくらいじゃないと主婦は出来ない気がすることがある。
この他にも仏教、密教、ゾロアスター教、マヤ教、カルト(カルトにもいろいろあるのよ〜ん♪)、イスラム教、原始宗教、ヒンドゥー教、その他諸々の毒を浴び慣れているとすでに何かが終わってしまっているのかもしれない。
ノラクラと一切の宗教活動を放棄。
「おまえだけはするなーーー!」
っと釘を刺されてしまっている。

理由?
う〜ん・・・・・・

大変だからだと思う。

なんせ、「モーゼはシゾか?」とか、「フランチェスコは狂ったのか?」とか、この他にも”ヨハネの黙示録”崩しとか、いわゆるキリスト教系のカルトだとあっちがヘンなのかこっちがヘンなのかわからなくなってしまうことが多いから。

あのさ・・・・
何がどう大変なの?

という世界だから、大変なのよね・・・・

すべての思考と感情が停止しているくらいじゃないとその毒には勝てない気がすることがある。

罪・・・・

つまり、生まれて生きることが罪だとすれば、人は聖なる境域にも魔物の棲家にも近寄ってはいけないということなのよね・・・
それを素朴に守っているバリ島の人の生活はやたらと人間臭くて素朴だ。
それでもサルはサルであり、人間は人間だ。

聖書というのは思考と感情のマキシムな世界のような気がすることがある。
いわばベクトルが逆だ。
わからないな・・・・・・わからない。
竜巻のようであって、陽は西に沈む・・・・
わからん。

いずれにせよ、精神は鍛えないと脆い。
あたしは今、日焼けのほかに筋肉痛も微かに残っている・・・

 

 

十戒

at 2002 09/01 16:35

まだ太古の昔、宗教とは野蛮な代物でした。それこそ生贄や動物の皮をかぶって面を作っていたり、豊穣を祈っていたのかもしれないし、栄光を讃えていたのかもしれないし、太陽、牛、蛇、炎、まるで悪魔を崇拝しているような宗教でさえめずらしくなかった。神官の持つ絶対的な権力・・・隠蔽された知識。魔女狩りとか? 
「あっちがヘン」ですよね・・・
今の時代でもうっかりすると、地下鉄にサリンを撒いてしまう人なども出没するわけで、「あっちがヘン」と言えるだけマシになったのかもしれないです。

----わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

「奴隷の家」
まさしく奴隷の家だったのかもしれないですね。「エジプトが?」ってことではないと思うのです。

----あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

たしかにあってはならないと思います。

----あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

”偶像”などというなまやさしい言葉で語ってもいいのでしょうか?

----あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

つまりはみだりに唱える人が多すぎるということなのかもしれないし、人はすでに「奴隷の家」の鎖に繋がれている。信じている人たちを正気に戻すということは並大抵なことではできませんから・・・。

----安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

弛緩のリズムがないと、緊張だけが持続してしまうわけで、過剰が続くとどこまでも留まることを知らない。ラットは死ぬまで脳に刺激を与え続けてしまうという・・・(ちょっと怖いですね)

----あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

”出家”か。
これは自分にはあまり縁の無いことなのでピンと来なかったのかもしれないけれど、家を出るからこそなおのこと父母を敬うことは大切なことなのかもしれないですね。たしかに親から逃避したくてどこかへ彷徨っている人たちは多いから。気持ちはわかるんだけど、何かが違っているというか・・・
激しい自己嫌悪というのは、どこかそういうシンプルなところがネックになっているのかもしれないです。狂気への道のりか・・・

----殺してはならない。

「奴隷の家」ではすぐに人を殺しますからね・・・なんででしょうね?

----姦淫してはならない。

セクハラも当然ダメダメ。
どうしてダメなのかわかってないところが怖ろしいです。それがサル社会というものなのかもしれないし、女性を敵に回す怖さもわかってないのね。

----盗んではならない。

サルはすぐに目に付いたものを持っていっちゃいますからね・・・元来、人間もそういう生き物なのかもしれないですね。

----あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

”偽りの証言”。
嘘と偽りの証言というのは微妙に何かが違うんでしょうか?
違うな・・・嘘でも元気と語れば元気になるだろうし、偽りの証言というのは嘘八百や妄想、思い込み、作り話、いい加減なでっちあげ、その他諸々たしかに人間を疑心暗鬼に陥らせるには不可欠な要素かもしれません。

----あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。

すべての災いはこういうシンプルなところに端を発しているのかもしれないですね。

狂気とか、盲信とか、カルトとか、あながち遠い時代の話でもないんですよね。
教会というのは、宗教の恐ろしさを教えてくれるところではないわけで、のんきなんですよね・・・
”救い”か。
自分が一体何から救われたのか気が付かない人たちが多いということが、すこぶる癒しになります。

”神の愛”。
これは絶対に不可欠な上位概念であり、「あっちがヘン」だということを伝えることは大切なことなのかもしれないですね。

「どこが違うの?」
「どこもかしこも、あっちがヘン」


(「独り言という名の対話」より)

 

 

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