Rin's Diary
June, 2002
(No.3)

 

ネイティブ・ジャパニーズ

at 2002 06/30 04:11

別館をつくり始めたのはまったくの気まぐれからなんだけど、ガイアのサイトの整理を始めたのは偶然ではない。
実は、怖くなってしまったから・・・・
ずっとヘンなパラノイアが出没するようになり、そのパラノイアがどこ経由か普通は迷ったりするんだけど、たまに経由がみょうにはっきりしていることがある。

4月に出没し始めたパラノイアはどこかのOLさんたちだったみたいなんだけど、どうしてそういうことになるのか、つまりは桜の季節が原因としか考えられないのだけれど、要するに、自分の知らない伏線があり、それがとばっちりのようにこっちへやってくるからパラノイアなのよね・・・
で、あたしとしては、すんごく腹立たしく怒っていた。
言いがかり的パラノイアというか、「なんであたしなんだ?」ってことなのだわ。

ふむふむ・・・・・・

なるほど、なるほど。

でも、どーやって考えても、あたしが悪いとは思えない・・・・・
ほんじゃ、イソターネットが悪いのか?
友リスにリンクしたり、コンテンツを借りたりしているのが悪いのか?
う〜ん・・・・・・・それってちょっと違うと思うけど。
友リスを閉鎖して、サイトをリンク・フリーにして以来、あたしは解放感に満ち溢れてしまった。

同じハンドル名で違うサイトがいくつもあったりすると、名前だけでは誰だかわからないでしょ?
「名無しさん」とかも居るし・・・・
名前なんて単なる記号のような気がするけれど、リアルとバーチャルを分けすぎるとか?
分けてないけど。
「誰にでも親切にする」ということは良いことだと思っていたので、誰に対しても公平であるとか、親切であるとか、慇懃であるということは悪いことではないとは思うのだけれど、それがおかしいと指摘されてしまっては仕方がない。

バーチャルだからではなくて、リアルでも同じだということをどーやったら説明できるんだろう?
人間関係依存型ではないのよね・・・
馴れ合いみたいな関係が苦手なだけで。
それでいて、すぐに群れてしまうとか?
”何とか仲間”という関係は平気。
クラブ活動みたいなものでしょ?

というわけで、急にアホらしくなっちゃって。
アホらしくなると同時に、イソターネット社会においての友達とか、すぐにオフをするとか、何となく引いちゃうのよね。
それでいて、特に相手に何か問題があるとかというわけではなくて、適度な対人距離が保てるというのがネットの良さだと思っていたのに、アレを眺めてしまったら急に怖ろしくなってしまったという・・・

こー言っちゃなんだけど、やっぱ、女を怒らせないほーが身のためかも。
「女、嫌い」って喚く友達が多いのは、そーいうことなのかもしれない・・・が、しかし、「何か怒らせることしたんじゃないの?」って言うと、めちゃくちゃ説教されるからイヤなのよね・・・
怪しい・・・・・が、しかし・・・・・・・・

サイトは綺麗にしておこうかと・・・・・
関係の無いところにまで、また迷惑が掛かると申し訳ないから。
イソターネットというより、これが日本社会なのさ。

 

 

労働とネット

at 2002 06/30 02:25

リアルな知り合いのサイトへ行って、一番面白いのはBBSかもしれない。
近頃、ご無沙汰しちゃって・・などと思って来訪したりすると、犬の写真がアップしてあったり、韓国へちょろっと行って来たという話が書いてあったり・・・
そろそろガキが大きいから寂しいのかな・・とか、家の中でよくあんなデカイ犬を飼う気になるな・・などと内心思ってはいるけれどカキコなんてしない。最初のうちは、カキコしたりしてたんだけど、だんだん互いにしなくなる。

サイトに固定客ができてくるからかもしれないし、サイトに関係ない話とかは気を使うし、長く管理人をしているとだんだん愛想が良くなるのよね・・・猫をかぶっているとまでは言わないけれど、そういう微妙なトーンの違いを観察したりすると、なんかヘンなのよね。
話の内容の背景文脈が見えたりするから、尚更そうやって思うのかもしれないけど。
まったく違う人ではないけれど、まったく同じ人という気もしないし、そこがバーチャルなのかもしれないな。

あたしなんかと違って、家の中のことをササササ〜っと片付けてしまってから、集中してレスなどを書いているに違いないというその姿まで思い浮かべることができるけど、近頃なんてサイトにも行かないもんね。
お子さんのサイトをリンクしたりしてたから、子どものほうがサイトを閉鎖したという噂が・・・(ウソウソ・・)
親が子どものサイトを宣伝しちゃうから、皆、見に行っちゃうもんね・・・・・
あたしなんて、ガキのほうのサイトにまでカキコしちゃったし・・・もちろんハンドル名で。
そりゃ、閉鎖したくなる気持ちもわかるけど、、、近頃。

うちのちびなんて、絶対イヤがるだろうな。
今だって、日記の一つでも読んだら、めちゃくちゃ怒ってるし・・・
あたしはそーいう愚かなことはしないけど、ダンナがね・・・・アホだし・・・・・すぐにおちびを泣かすし・・・・・(ッタク!)

ネット人格か・・・・・・
ネット人格というのとも違うな。
この何にも考えていないノリの軽さは、もともとだし・・・
それでいて、きつい。

----りんさんってどんな人?

う〜ん・・・・こーいう人です・・・・・としか言えない。

----俺は、「らしいサイトですね」言われるよ

----あたしも

---- ・・・・・裏表無いんだね

----(だから、無いって言ってるだろ!)

----おまえ、働け!

----は?

----働いたことのないヤツは○△□だ

----(オイ、その発言まずいだろ?)

忙しかったら、サイトなんてつくって遊んでるわけないよね。
と思うんだけど、世の中の人たちはどうして忙しいのにサイトをつくっているのか?

そこだ!

忙しいからサイトをつくっているのかもしれないな・・・
コミュニケーションか・・・・
皆、働きすぎかも。

 

 

まともなサイトって・・・

at 2002 06/29 00:36

何だか・・・・どうでもよくなってしまったという・・・・・か、それよりも200kb以上あって自分では加工できないと思っていた写真が何故かウェブでファイルを開いたら18kbになっていた。
なんで?
未だに箱に詳しくないあたしとしては、すごく不思議。
結局、パラノイアに追い回されて、家族の写真もアップできない、日常的な話も書けない、リアルとバーチャルを分けすぎと言われ、それでいてあたしは写真をアップしてはいけないと言われ続け、なんかね・・・・急にすべてがバカらしくなってしまったのです。

普通の写真だし・・・
大昔、チャット部屋の常連になった時に、皆さんが家族の写真などを送ってくださるので、付き合いで安いデジカメ(VAIO専用)を買って試しに写しただけの写真だ。
他にもあるけど、本体のPC(VAIO)が壊れてしまったのでそのままになってしまっているからめんどっちー。
新しいデジカメも旅行先で撮影したのはいいけど、そのままに放置したまま1年が過ぎようとしている・・・困った。

というわけで、パラノイア崩しに写真を送れと言われて、何故かこれ1枚だけがこのPCにあった。
ネットだと勝手にイメージされたりするし、サイトに写真をアップしないほうがいいと言われる。
メルアドすら公開していない人も多いし、アクセス解析を付けたり・・・
どうしてそういうことになるのか、近頃、疲れ果ててしまったのだと思う。

もっともメルアドを公開すれば連日ウィルスメールが届くし、画像の盗用は多いし、そういうことを考えると危険は危険なんだけど、よく考えてみたら大したことではない気もするし・・・
管理人がどこの誰かわかって困るようなサイトだろーか?

そこなのよね・・・

バーチャルか・・・
要するに、いろいろなんだろうな・・・
使い分けというか・・・・

本当にかったるくなったら、それこそBBSなんて閉鎖しちゃえばいいのよね。
レスを書かないとか。

クソ面白くもないサイトか・・・・

とりあえず、何でもやってみないとわからないよね・・・
まぁ、パラノイア事件も落ち着いたみたいだし、ヘンな人は相手にしないとかね・・・

まともなサイトをつくらないとダメなのね・・・
疲れるけど。

2chがネットだと思っているのね・・・オコチャマは・・・

 

 

プリミティブなビーズ

at 2002 06/26 22:49

別館の表紙の文面を書いていたんだけど、眺めているだけで眠くなりそうだわ・・・
だから、ガイアがいいのかもしれないな。
テキストサイトだったら、それっぽく壁紙やイラストなどを使わないほうが眠くならないと思うのに、どーっしてもそーゆー味気ないサイトはダメなのよね。
せめて眠くなりそうなカキコでも、それなりに画像が誤魔化してくれるのではないかという逆効果にもなりかねない矛盾を抱えながら鬱々とつくっているという・・・

ビーズのコーナーでもつくろうかな・・・・あっちに。

色というのもあるのかな・・・
どちらかというと落ち着いたカラーばかりだし。
これって、どういうわけか外国のサイトから借りるとそういう雰囲気になりやすいのだわ。
日本語のトーンと相性が悪いかもしれないと思いつつ、何となくつくっているという・・・

結局、人文やアートが悪いのだと思う。
神性というものがあって、それをインスパイアされた人間がそれを具現・具象しようとするとどうしても自国の文化の影響が濃くなるのは当たり前なのよね・・・
そして、宗教がアートとなりアートが文化のあらゆる側面に影響を及ぼす・・・
で、いつの間にやらそれが人の間に広まり、共通性のある形式や様式が造られてしまう。
となると、人間は発達していく上で、それらの様式をすでにインプリントされてしまっているが故に、それが自分を形成しているものの一部となってしまい、それが自分のプリミティブな部分であると感じてしまう。
いわば子どもの頃の記憶が酷く懐かしいように、建物や空気、景色、人とのヤリトリがインプリントされてしまうと、それらはその人間にとってはとても大切なものであり、愛国心や郷土心などとして人のこころのコアになってしまう気がするくらいだ。

というわけで、どーしましょ・・・・別館。
せめて文章くらいは軽いほうがいいかな・・・
どこが違うのかな・・・・・
”letter”の問題なんだろうな・・・

日本語の形態が悪いのだろーか?

またまた鬱々としながらページをつくりなおしそう・・・
ビーズのアクセサリをつくっているほうが楽しそうに思えるあたしって・・・
だから、ガイアなのかもしない。

 

 

向き不向き?

at 2002 06/26 08:13

鬱々と別館を建設していると、サイトを更新するのがだんだんめんどーになってきてしまう。
「たまにはのんびり沼に浸っていたら」とか、「ネタがないのを喜べ」とか、結構いろんなリアクションがあるところをみると、それなりにいろんなことを書いてきたから、それなりにいろんなことを考える人がいるのかもしれないと、それはそれで無料サーバに少しは貢献している気がしてしまうという・・・
ところがね、有料サーバを申し込んだら、逆に単なる道楽がますます道楽になってしまって、自分の楽しみのためにサイトをつくっているのであれば、誰も来なくてもかまわない、ひたすら重くても来訪者の都合なんてまるで気にしない、といったわがままさが生じてしまう。
でも、そういうほうがナチュラルな気がしてしまう今日この頃、忙しくても毎日更新していたり、ほとんど来訪する人が無くても毎日更新していたりする人をみると、どうやったらそういう風に淡々と管理人ができるのか考えてしまう。

結局、どーやってもイソターネットなのね・・・・あたしは。
諦めよう。
人間、諦めが肝心かも・・・

 

 

隔たり

at 2002 06/24 17:40

なんだ、そういうことだったのか・・・と、今更のことのように考える。
要するに、純愛とストーカーの区別がつかない人たちが世の中にはたくさん存在し、だからこそ疲れ果ててしまうというか・・・
どーやって説明すればいいのかわからないでしょ?
自分にとっては、アブラムシとミツバチの違いでしかない。
問題は、アブラムシは花を枯らすということ。
それだけのことなのよね・・・

誰かを好きになるという行為はナチュラルでしょう・・・
だけど、好きだからという理由だけで相手の都合を考えられない人たちのことなんて考えるのも疲れ果ててしまうではないですか・・・わるいけど。

すべての足跡問題も、「来ないで!」問題も、実はそういうことだったのかと思うと、近頃、あたしはサイトを更新するのもかったるくなってしまうのです。
ガイアというか、ネットはみんなやさしいよね。
リアルだったらヤバクて近寄りたくないと思うような人たちに対しても、バーチャルだからということで平気なのね。
すごく暖かい世界だと思ってしまう。
いわば、アレな人たちにとっては最後の砦なのだと思う。

当人たちにとっては純愛なのかもしれないけれど、それって単なる思い込みに近いかもしれないし、愛するあまり悲劇へ突っ走る人間が古今東西存在しているところを見ると、人間とはすごくエゴイスティックで愛の欠片も存在しない存在であると思ってしまいたくなってしまいます。

で、何かあると、差別だの偏見だの弁護士だのと騒ぐ?

頑張ってください。
ルールはきっと大事なのかもしれないです・・・つまりは、客観的な尺度としてのルールが。
行動を規制するものとしてのルールが必要なのも実はそういうことなのかもしれないですね・・・
つまり、狂気と正気を判断する基準がすべては「行動」に立脚していることが原因なのかもしれないです。
そして、その基準も実は文化的な代物なのかもしれないし、場所や黙契に仕切られているだけなのかもしれないです。

でも、こころは違います。(と、りんは思う)

主観と客観と、自分と他人と、宇宙と地球と、大気と大地と、それらをきっと違う代物として知覚してしまうにはしてしまうなりの理由が存在していると思うからです。

怒りか・・・・・
いいです。
怒ってください。

なんかね・・・・どーでもいいのよ。
それが単なる妄想であるということを説明することにも疲れてしまったのです。

愛を知らずに生きられる人は、愛を知らずにルールの中で素直に生きてください。
やっぱり、うちのサイトには来てほしくないというのは、そういうことが原因なのかもしれないな・・・
曇りガラスのあっちとこっち。
あっちとこっちだ。
テーブルのあっちとこっち。
隔てるものは、主観であり、精神なのかもしれない。

 

 

純度の高さ

at 2002 06/23 15:26

自分の日記というのは、実は日記ではないのかもしれないと感じた。
すでに自分のことを客観的に見ないという理由がね・・・それが実は日記を書けない理由なのかもしれないと思った。
個人の内面感情の世界は、その日、その人が何をして何を思ったかとか、感じたかとか、その人自身の呟きであるのが普通なのに、あたしの日記は、何かどこかが違っている。

何となくわかった・・・

あのね・・・

例えば、欝の人がうちの日記を読むとどう思うのか?
何となく客観的に自分を眺めることができるのだと思う。
こういう状態の時には、実はこういう風に誰かに思われているのかもしれないということがわかるのかもしれない。
状態がよければ、読める。
状態が悪ければ、単なる鋭い矢に過ぎなくなってしまう。

無責任なのよね・・・

怯えているのよ。
いつも怯えている。
他人を怖れている人たちが、他人の呟きを読みに来るわけだから、それが救いになることもあるかもしれないし、逆にどん底にまで落ち込んでしまうかもしれない。
だけど、嘘は書けない。
何故なら、この日記は実は自分のゴミ箱だからだ。
読む人のことを考えて書いているわけではなく、自分のこころの中に生じた一連の出来事をゴミ箱に捨てるために書いているから。

あたしは誰が何を思おうとまったく気にしない。
マイペースと言われてしまう。
ここまで気にしない人間というのも実はめずらしいのかもしれないと近頃思っている。

自分を客観的に見ないからだ。
誰の言うことも信じない。
他人の見た世界など自分には関係ないではないか・・・

人の数だけ現実がある。
同じことを見ても、それぞれの人が勝手に自分の仮想空間の中で像を描いているに過ぎないからだ。
一人一人が描く空間を把握することなど不可能なのだ。
不可能だから、しない。
それだけのことなのに、一体他人に怯える人たちは何に対して怯えているのだろう?
こんな風に思われたらイヤだとか?
嫌われたくないとか?
迷惑かけたくないとか?

好きにやってくれ。

そうやって他人を意識できることが奇跡だ。
好きにやってくれ。
そうやって誰かのイメージを勝手に作ってくれ。
それが妄想というものの正体だ。
他人を気にするあまり、他人の目を気にするあまり、どこまでが実際の出来事で、どこまでが勝手な思い込みなのか区分が付かなくなっているに過ぎない。
他人を意識しすぎるから、他人なのか自分なのかわからなくなってしまうのだ。

カウンセリングの基礎。
どこからが自分で、どこからが他人なのかを区分する。
つまり、「自己の感情以外の感情(他人の感情)」が自分の中に生じることがある。
そして、自分の中に生じた感情を手がかりに他人の感情を知る。
うまく説明できないけれど、自分を常に一定に保つことにより、自分自身の中に生じた余分な感情を排除してしまうのかもしれない。
思考も然り。

人間は常に他人とのコミュニケーションによって生きているために、実は、他人と自分との区分が実にムズカシイ。
怒っているとしよう。
何に怒っているのかを考えると、実はまったく怒る理由もなしに怒っていることがある。
つまり、怒っている人の話を聞いただけで、その気持ちが移ってしまう。
よく考えたら自分が怒る理由などまったくないにもかかわらず、自分が怒っていることを感じる。
ヘンだ。
だけど、これが共鳴・共感の世界であり、生まれたばかりの赤ちゃんだって他の赤ちゃんが泣いていると同時に泣き出してしまうくらいの本能だから仕方がない。

いつしか自分にはこういうことが当たり前となってしまっている。
他人を観察しているという自覚はない。
つまり、他人を観察しているのではなく、正確には自分を観察しているからだ。
自分を観察することにより、他人を客観視しているという感じなのかも。
あたしにしてみれば、自分を観察しているにすぎない。
つまりは、「自分」が感じたことであり、「自分」が思ったことを書いているから。
だから、書ける。
自分の中に生じた反応を羅列しているに過ぎない。
或る事象や人物とのヤリトリから自分の中に生じた内面感情を淡々とゴミ箱に捨て続けているに過ぎない。

それにしても、実際の自分というのはどこにいるのかと一瞬考えてしまった。
純粋に自分自身が感じた何かをすでに言の葉にすることはめったにない。
つまりは何も感じないのかもしれないとすら疑っている。

自分自身が本当の意味で怒ったり、泣いたりすることって一体どれくらいあるのだろう?
めったにない。
時々、自分は感情というものが停止しているのではないかと思うくらいだ。
いつも誰かの感情が転移することには慣れてはいるけれど、その際、本当の自分の感情というものがどこにあるのかわからない。

本当の自分の感情というものが、本当に発生してしまった場合、大変だ。
怒りは突然空から降って湧いてくるように訪れる。
すべての他人が排除されてしまっている。
純粋な怒りだ。

次の瞬間、あっけらかんと忘れてしまっている。(ことが多い)

 

 

そういうことなのね・・・

at 2002 06/22 00:43

初期、まだサイトを立ち上げたばかりの頃、とても長いカキコのラリーが続いていた。
それは質問があったからなのかもしれない。
自分の書いたことに対してリアクションがある・・・だから、それに対してマジメにレスを書く・・・それがガイアックスの狙いであったかどうかは別として、自分のウェブサイトはそういう性質のサイトだったと思う。
だからこそ、BBSがメインコンテンツと言われていたわけで、だからこそ、1年以上に渡って、BBSにレスを書き続けなければならなくなったのかもしれないです。

今、すでにBBSはあまり意味を持たなくなってしまった気がしています。
うまく説明できないんだけど、作品の中に自分が存在していれば充分な気がしているからなのかもしれないです。

マスのレベルを考えるととても疲れるんです。
それは社会を意識するということでもあるからです。
社会に融けてしまった自分というものと、まったくのプライベートな自分というものが同じ人間かどうか、すでに自分を客観的に眺めるということを放棄しているためにわからなくなっています。

----階段上っちまえ!

ネットは、社会や家族から切り離された空間だと思っていたけれど、コミュニケーション・ツールである以上それは不可能であり、誰が何を言っていようとそれを無視するという習慣が長かったために、バーチャルな世界ではいろんなことに耳を傾けてきたけれど、案外、それが自分にとっては忍耐を要する作業であったのはコミュニケーションを意識していたからでもあります。

無理なのよね・・・
出鱈目のマスコミ報道並みにそれを鵜呑みにしている人があまりにも多すぎて、逆にそれが世の中なのだということをフィードバックされてしまう・・・だけ。
偶像だ。

こちらもあちらのことがわからないように、あちらにもこちらのことがわからない。
いつも曇りガラス越しに会話をしている気分に陥ってしまう。
ネットだからではなくて、世の中ってどこかそういうものという気がしている。

誰も自分のことをわかってくれない?
甘えだ。
なんかね・・・・・諦めた。
急にどうでもよくなってきてしまったというか・・・

”修道院の庭”か・・・・

急にすべてがどうでもよくなってきてしまったのです。
修道院の庭がめずらしいのは、修道院の庭へは一般の人が入ることがめったにないからであって、ごく普通の花が咲いているだけ・・・

 

 

Diary Top : Old : New : Home