Rin's Diary
June, 2002
(No.2)

 

転換期

at 2002 06/20 09:24

「世間話だけなら、リアルでやりますよ」(nepiron)

名セリフだね。
どこまでが世間話なのか、実はよくわかっていないあたしとしても、すごく気の利いたセリフだと思ってしまうくらい近頃BBSへのレスを書かなくなってしまっている。
ネットなんてところは世間話の延長線上にあると思っていたのは、単にあたしがパソコン通信のチャット部屋からネットを始めたということに端を発しているだけなのかもしれない。

というわけで、突然あたしがログジャンプを凍結して、BBSのレスを書かず、一体何を始めたかというと、再び、「あたしのHP」をつくるために奔放しているという・・・

なんかヘンだな。
このサイトは、「あたしのHP」ではないのか?

うまく説明できないんだけど、サイトをつくったのは、何度も何度も何度も繰り返し書いてきたように、仲良しこよしのサイトをつくりたいからではなくて、単に、「自分の書きたいことを書く」というシンプルな目的のためにつくったわけでありまして、近頃、またその辺のラインが崩れつつあるという・・・
イヤなんだな・・・・
ネットをしてまで誰かに気を遣いたくないわけでありまして、その辺が自分でも自分のワガママだとは思っているのですが、いわゆるイソターネットというの? 偽のインターネットという意味のシニカルな造語なんだけど、いつまでもラグーンの中で遊んでいても退屈になってきてしまったのかもしれないです。

----ガイアックスが悪いの?

インスタント・サイトであり、誰でも簡単に自分のホームページがつくれてしまうために、常にビギに満ち溢れているこの巨大なウェブリングが悪いのか?

いえいえ、決してそんなことはないと思うのです。
やはり、自分の描いている仮想空間が悪いのだと思うのです。
別サーバでつくろうと、ガイアックス内でパシャパシャ遊んでいようと同じです。
来訪者の数が違うくらいでしょうか・・・・・?

----2chの住民にボコボコにされちゃう?

もーね、笑っちゃう。
いいのいいの。
通常の荒らしなんて可愛いものだし、メルアドを公開すれば即座に連日ウィルス・メールだったし、卑猥なカキコもあったし、なんかすべてに慣れてしまってその程度では驚きもしなくなってしまっているという・・・
もっとすごいのはイソターネットを徘徊する本物のパラノイアでしょう。
知らない人から電話が掛かってきたこともあるし・・・
なんかね・・・・・どーでもいいのよ、そんなことは。
どこにもバーチャルな世界など存在しないし、昔からヘンな電話が掛かってくることもあったし、そーいうのは何もネットに限ったわけではなく、世の中というのはそういうものなのね・・・・変態がネットを始めれば、変態として活動しているのだろうし、悪ガキがネットを始めれば、結局、バーチャルでも同じようなことしかやれないわけで、そういう意味ではどこにもバーチャルな世界なんて存在していないわけです。

相乗効果については懸念しているけど。
一人の変態よりも、変態同士が出会うことにより、相乗効果が生まれてしまうという・・・
足し算じゃないのよ。掛け算に近い。だから、ネットは気持ち悪くもあるし、パワフルでもあり、それなりに刺激的な世界なのかもしれないです。

自分が歌人をしているのも、きっとそういうネット特有の相乗効果があって、毎日連歌をヤリトリしているうちに短歌で語るというリズムに慣れていったからだと思うのです。

いろんなインスパイアが落ちています。
一人で書物と格闘しているよりも、想念の飛び交う世界ですから、思考や感情を浮遊させることはそれなりに面白いかもしれません。

問題はね・・・マナーだとか、ネチケットだとかって言うでしょ?
アホらしくて。ネットだから、マナーが悪いわけではないからです。

----画面の前には誰かが居るわけだから、きちんと正座でもしてパチパチ打ちますか?

そーいうことなのよ・・・
それに気が付いたとたんに、すべてがどうでもよくなってしまったという・・・・あまりにもくだらなくて、どーでもよくなってしまったのです。
相手を不愉快にしないために、ネットでも気遣いを要求されるという認識がね、どーでもよくなってしまったのです。
だから、匿名(相手に自分の姿が見えない)と思ってアホをしている人間が後を絶たないと思うと、急にそーいう連鎖から逃れたいと思うようになってしまったというか・・・

マナーもネチケットもどーでもいいです。
誰かに好かれようと思ってネットをしているわけでもないです。
友達をつくりたいと思って、ネットをしているわけでもないです。

----じゃ、なんでネットをしているの?

「書きたいことを書く」ためです。

知能と知性の違いがわかりますか?
サルや機械にだって知能はあるんです。
だけど、知性はありません。
道具を使うのは人間です。
知能だけではダメなんです。
いくら知識を集積してもムダなんです。
道具を使うのは人間だから・・・・

問題はね・・・サルでも道具を使えるし、集団化した世界で生きています。
集団行動をスムーズに行うために、エチケットやマナーが存在しているのかもしれませんね。行動を規制するものがあれば、それがエチケットでありマナーであり、ルールなのかもしれないです。
コミュニケーション・ツールだからこそ、そういうことが言われてしまう・・・

自分が仮想空間に描きたいのは、そういう集団化した世界ではなく、むしろ独りの世界です。
マナーもネチケットも必要のない世界です。
個人の内面世界には、マナーもネチケットも意味がないのです。

そのことに気が付いたとたん、あたしは再び、自分のウェブサイトをつくろうという意識への転換が始まったとしか言えないです。

 

 

煩雑

at 2002 06/18 22:51

自分のサイトの日記を荒らしても誰も怒らないとは思いつつ、不意にそうやってヘンなことを考えてしまう自分に気が付く。
ただでさえ月末が近付くに連れて重いという苦情の発生してきたこの日記を考えると、そういう苦情が発生するだけでもマシだったのかもしれないとそういうことまで考えてしまっている。
つまり、読んでくれている人がいるから、そういうクレームがあったわけで、誰も読まない日記であればそんなことを気にする必要性すら無い。
日記に大きな字で、「ああああああ・・・・・・・」と連打してあってスクロールが大変であったとしても誰も気にしないだろう・・・
だって、誰も読んでないから。

同時に疲れた。

「あたしのHP」。

わかるかなぁ・・・・・
何となく日常的な煩雑さから一時逃避的につくったサイト。
誰かに情報発信をしていくとか、そういうウェブサイトではなくて、単に自分のお部屋というだけのサイトをつくりたかっただけ。
それは今でも変わらない。

ハンドル名とは言うけれど、主婦なんてものは日頃自分の名前を持たないに近い生活だ。
もっとも結婚したとたんに自分の名前が消えてしまったわけだから、名前なんてものが如何にいい加減なものか痛感してしまう。
誰々さんの奥さんとか、誰々ちゃんのママとか、大抵はそんな感じ。
名前で呼ばれたって、それはダンナの姓であって、名前なんてものもは単なる記号なんだということがしみじみわかってしまう。
暗号じゃないだけマシだろーか?

でも、自分は存在している。(たぶん)
単なるスクリプトであろうと、ウェブ上にも存在している。
消えてしまった自分という人間の居場所としてつくったサイトに。

自分が自分でいられる時間?
主婦友はそうやって語ることが多い。
そうやって小さなヤリトリが、「あああああ・・・・・・・」で消されたとしても、アホらしいから削除しちゃって終わり。
アホは相手にしないのよね・・・・
そこまでヒマじゃないから・・・
無視したほうが早い。

再び、小さなウェブサイトをつくろうと思っている。
今、うちのサイトは何となくがちゃがちゃしている。
自分では、ガラクタ置き場だと思っているし。
エネルギーは保管しておこう。

 

 

理性と感性

at 2002 06/16 19:07

ルールとモラルの違いは何か?
これはよく似ているようでいてまったく違う。
いわば、理性と感性の違いだ。

ルールというのは、法則であり、法律であり、個人を超越して存在している。
宇宙にも法則があるように、人が集団化して存在しているところには法律が必要となるように、個人とはあまり関係なく存在している。
ところが、モラルというのは、「良心」だ。
これは、個人の主観に基づくものであり、宗教や環境因子などの価値観の影響により個人の内面世界に形成されたもの。
ルールに従うのが理性ならば、モラルに従うのは感性だ。

どちらに従うか?
ルールが許していても、モラルが禁止していることもある。

感性を語るとき、アートや宗教とは切り離せない。
絵には技法が存在し、音楽はそれこそルールでガンジガラメの世界だ。
音階も決まっていれば、五線譜などといったルールが存在している。
これらをモラルと呼ぶことはない。
ルールはルールであり、モラルはモラルだからだ。

ところが、常にアートな世界では感性が問題となる。
ルールに従ったとしても、アートにはならない。
それでいて、ルールがなくてもアートは成立しない。
ルールにガンジガラメにされた人たちには、そこの違いがわからないことが多い。

例えば、こんなサイトを運営しているだけでもルールが存在する。
利用者規定と呼ばれるものかもしれない。

Africa Online の管理人さんが、また何やら実験を始めた。
「絶対零度」というガイアックスのサイトで、『AV女優と合コンしましょ♪』というログを残したらどういう反応が生じるか?ということらしいけど・・・
案の定、また荒らしとチクリだ。

稚拙な荒らしなんだけど、あたしにはこの荒らしよりもチクッた人のほうが面白い。
(もちろん同一人物の可能性もある。)

「通りすがり」ということでガイアックスに通報したとあるけれど、『AV女優と合コンしましょ♪』というログ・メッセは規約違反なの?
「ガイアックスではアダルトはNGで、このメッセはユーザが不愉快になるから」というのが通報の理由らしいんだけど、この程度のログは結構あちこちで見かけることもあるし、特に不愉快とも感じないのは、あたしの感性が鈍いのだろうか?
(ヘンなサイトだとは思うけどね・・)

以前から考えていたんだけど、うちのサイトで、短歌などのコンテンツにヌードイラストを使っていたとしても批判されたことはない。
アダルト写真ではないから?
シモネタも結構書いているけれど、それが原因でチクられたことはない。
ボランティア・バナーがチクられたことはあったけど。
ユネスコみたいに「募金」が発生するサイトはお断りというサーバがあったので驚いた。
いくらなんでもそれは酷いと思ったけど、アフガンの募金を募るバナーが貼られたサイトはあちこちに存在していたし、そーいうつまらないことを主張するコミュニティにはちょっと・・・ということでそこのサイトは閉鎖した。

これら一連の出来事は、「ルールに基づくか、モラルに基づくか?」の判断に委ねられている。(と思う)
単なる単語だけ眺めると、ヘンだ。
アダルトがNGならば、「アダルト」と書くこともNGということになってしまうではないか・・・今回、絶対零度をチクった人の理屈からすれば。
(言論の自由・・・・・・は、どこだ?)

一枚のヌード写真をアートにしてしまうか、アダルトにしてしまうかは、「感性」の問題なのよね・・・
世の中には、理性ばかりで感性の麻痺した人がいることが不思議でたまらない。
なんでそういう人が育ってしまうのか、誰か知っているならおしえてほしい。

 

 

メス

at 2002 06/16 08:39

かつて、20人近くいて盛り上がっていたチャット部屋が一斉にロムってしまったことが一度だけある。
常連が9割以上のその部屋で、突然、入ってきた人の発言が原因。
突然だ。
「夫がソープへ通っているんです」
「夫が女として見てくれない」

夕方のチャット部屋でも、たまにそういうことがある。
いきなり性の話題を話し出す人とか、
「不倫したいと思ったことない?」
と言う人。

半ば常連化していた人でも、突然そういう風に変貌してしまった人などは総スカンに遭ってしまう。
陰ではそういう話ばかりしているような人ほど怒り出す。(当たり前か・・)

「来月、出産なんです」
などと言う人が入ってくると、すごく盛り上がるのに・・・

世の中ってそういうものなのね・・・

なんでロムっていたのか訊いた。
というか、その人が消えたら一斉にその人についての話題ばかりになってしまったから。
あまりにも暗くて深刻な話題だからイヤなんだってさ。

大抵は、子どものミルク代、月謝代だけでも大変なのに、ソープはタダではない。
離婚となるとさらに大変だ。
深刻。
しかも身近な話題。
不安を抱えている人が多い。

こころの不安という部分にメスが入ると、大変だ。
荒れて、荒れて、どうにもならなくなる人まで出てくる。

不安を吹き飛ばすにはどうしたらいいか?

「だからなんのさ?」
と訊けばいい・・・
今、を訊く。
それだけ。

 

 

感性

at 2002 06/15 10:24

ビギナーズ・ラックというのは本当にあると思う。
何も考えてないからできるというか・・・
勢いだけで進んでしまえる。

問題はいつもこれからなのよね・・・
あたしは飽きっぽい。
責任性が違うのかもしれないな。

子どもの絵。
面白い。
あれは子どもしか描けないらしい。

彫刻の森へ行くとそれがすぐにわかる。
どんなに優れた作品であっても、子どもと大人は作風がまったく違う。

久しぶりに昨日ワールドカップの実況中継などをカーラジオで聴きながら、おちびをお絵かき教室へ。
ずっとサボっていた。
いつからサボっていたのか思い出せない。
たしか美術展の費用も支払ったはずなのに、いつの間にか終わっていたくらいサボりっぱなし。
プールもそのままになっているし、月謝がいい加減にもったいないけれど、さんざ親に学費を支払わせながら、それをすべて踏み倒してきた我が人生を振り返ると、さすがにおちびのことを叱れない。
サボりたかったらサボっちまえ!
それが長く続けるコツなのかもしれないな・・・

お絵かき教室へ行くと、それこそ幼児から美大の学生までおそろしいほどいる。

----上手な絵ってどんな風なんですか?

と試しに訊いてみた。
試しだ。
そんなものに答えがあるなら誰も苦労しない。

----感性はムズカシイですからね・・・

技術的なことはいくらでも教えられるらしい・・・
ある程度続けていれば、それなりに誰でもそれなりの絵が描けるようになる。
そこまでが彼らの責任の範囲なんだろうな・・・
途中で、受験とか進学とか、その他諸々な理由で続ける人や辞める人が出てくる。

採点や評価ですら、誰かの感性ではないだろうか?

などと語ると客観性の欠如した尺度に対して、あれこれ不満に思う人が後を絶たないから、結局、ペーパーなのかもしれない。
感性で評価するのが何故悪いのだろう?
人間なんて、個人が感じているほど違いはない。
あるとすれば、ダイナミクスだけだ。
時代を映す鏡だから仕方が無い。
アートは時代だ。
もちろん流行の様式もあるだろう・・・
ファッションだって、まさしく時代だけだ。
正確には、時代のダイナミクス・・・
人がその時代に何を求めているか?
ということだけなのかもしれない。

感性って何?

ダイナミクスだ。

 

 

「もっと大人になれよ」・・・・・・・

at 2002 06/13 18:37

このところ文学ネタが続いている。
小説なんて読まないと書けば書くほど、それはそれでリアクションがあるから面白い。

かつて、森瑤子が不倫ネタばかりで小説を書いていたので、いろいろ言われていた。
「ご主人がイギリス人だから読めないのよ」
とか、
「実際に経験したことなんですか?」
とか。
これに対して、あのオバサンの返事がすごい。
「経験したことのないことは書けないわよ」
という・・・・

まぁ、ストーリー自体は単なる創作なんだろうとは思うけど、実際に自分がマレーシアへ行って、「猫科の男」というものに遭遇すると、彼女の表現がいかに適切かよくわかる。それは実際に行ったことがないと書けない表現だと何となく感じたことがある。
ちょっとした対応とか、身のこなしとか、マレーシアの人たちは実に静かにス〜っと後ろに出現し、見事に無言のままあたしのディッシュを取り上げ席まで運んでくれる。座るとナプキンまで膝の上に乗せてくれる。
ところが、問題は誰に対してもそういうことをするわけではなくて、あたしがファミリーで来ていることがわかると、何となく微妙に違うものを感じたりして。
言葉ではないのよね・・・
たしかに猫科の男なのよ。

そういう意味ではたしかに経験したことのないことは書けないと思う。写真をいくら眺めても、そういうヒューマニスティックな部分まではわからない。
自分という存在がいて、自分が空想世界で遊んでいる分には想念は自由・・・だから、何でも書ける。
ところが、小さな人間描写となると、それは誰かとのヤリトリだから書けない。まったくの想像上の人物であれば書けるかもしれないけれど、想像上の人物は想像上の人物なりにイメージというのがあって、そのイメージというのがモデルなのかもしれないとぼーっと考えている。

自分のディッシュを運んでくれたウェイターはそれほどハンサムだったわけではないけれど、それなりにマレー人特有の身のこなしというか、寡黙さというか、実にユニークな人間像として書けるかもしれない。
自分の中に何となく印象として残り、それがイメージとして広がっていく。そういう過程を、人は創作活動と呼ぶのかもしれないとすら思うほどだ。

自分がリアリストなせいか、世の中の人がいかに作家というか書き手に対してロマンを持っているのか、持ちやすいのか、不思議な気分に陥ることがある。作品なんてものは単なる作品なんじゃないだろうか? 作家の裏側というか、小説の裏側を覗かせてもらったが故に、すごくそれは感じるようになった。
考えてみれば、誰でもがそういう経験ができるわけではないのだから、もしかするとこれが自分にとっては貴重な経験だったのかもしれないと、近頃すごく醒めた自分がいることに気が付くけど・・・

手法だ。
ある出来事や人物像というものがあって、それがいかに作品にまで仕上げられていくか?ってことがよくわかる。
自分が他人を観察している以上、他人が自分を観察していることに対して腹を立てることはフェアではないかもしれない。
自分としては、実際に小説を書くことより、そういう創作や想像のダイナミクスを分析するほうが面白い気がするけれど、残念ながらあたしは文学が専門ではない。

それにしても、最初は怒りの渦中にあった出来事でも、それを冷静に分析できるようになったのだから、あたしもずいぶん成長したな・・っとは自分で感じる。それだけでも毎日パチパチ打っていた値打ちがあると思う。
他人を書かせるより、自分で書く?
そうなんだけどね・・・
なんかどうでもいい気がする。
他人が使ったあたしという人間はしょせん仮想だ。
架空の人物に過ぎない。
ところがあたしはどうだろう?
あたしはあたしだ。
すごいではないか・・・
笑ってしまう。

やってみなければわからないのよ。
相手を理解するためには、やってみなければわからない。
自分の怒りを相手に伝えるよりも、幾分マシかもしれない。

----りんちゃん、もっと大人になれよ

(ムッカーーー!!)

----もっとジジイかと思っていたわ!

----おまえがガキなんだよ

そっか?
自分がババアであることを強調すればするほど、ガキだと言われる。
喜んでいいのか、楽しんでいいのか・・・・

ちょっとやってみよっかなー病は、主婦じゃないとわからないよね。(たぶん)

 

 

悲鳴

at 2002 06/12 17:28

  野の花よ
  生きるつよさを激しさを
  愛もて生きるをおしえたまひそ


実はこの短歌、もしかすると逆の意味に近い想いを詠んでいるのかもしれない。
「おしえてくれるな」と詠んでいる。
それはごく自然に湧き出た言の葉なので、自分でもどうしてこの歌が好きなのかわからないけれど、それでいてこの歌が好きだ。
どちらかといえば悲しみの歌ではないかと思う。

古語に詳しくなければ、「おしえてほしい」と素直に受け止められるようでいて、実は、「おしえてくれるな」と詠んでいる。
だから意味で聴いてはダメなのよね・・・
歌はサウンドだから。

単に荒れ果てた庭を眺めながらそういう気持ちになってしまっていたのかもしれないし、あまりにも「いつわりの愛」にこだわる投稿短歌が不気味に感じられたのかもしれないし、それでいてこれは素直なあたしの悲鳴なのかもしれない。

一方で、つよさやしたたかさをおしえてほしいと思いながらも、その一方でそれらを否定したい自分とがいて葛藤している。
それが最後の一言に繋がってしまったような気がする・・・無意識のうちに。

自分は酷く無責任だと思う。
言の葉というものに対して無責任なのだ。

地獄の苦しみというのだろうか・・・
普通の人が味わう苦しみの10倍くらいの苦しみを味わっている人たちからするとどうなんだろう・・・

すでに何か感性というものが麻痺している。
自分の一言が鋭い矢となることに慣れてしまっているが故に、ごく普通の感性というものが麻痺している。
だから、自分の短歌で好きな歌はない。
あるけれど、ないのだ。
どれもこれも麻痺しているから、自分の歌は自分ではわからない。
何も感じない。
なのに、誰がために歌を詠んでいるのかわからない。
それでいて、誰かの悲鳴やつぶやきが聴こえた時にそれが風になる。
それが歌になる気がするくらいあたしは無責任だ。


  野の花よ
  生きるつよさを激しさを
  愛もて生きるをおしえたまひそ


悲しい話は聴きたくない。
生きるつらさを聴きたくない。
本物の愛はない。
真実の愛はあるかもしれない。
もとめすぎない。
もとめてはいけない。

野に咲く花は何も考えていないと思う。

自分は無責任だ。
なおしえたまひそ、だ。
悲しみに汚染されるのは疲れる。
楽しい時も苦しい時も疲れる。

自分は無責任だと思う。

 

 

変わり続けるということ

at 2002 06/11 05:16

ネットをしているとインデックスは大切なのかもしれないとつくづく思う。
あー、一昨年の今頃仲良くしていた「歩く広辞苑」は今も元気にしているものかと、ビル・エヴァンスなどを聴きながら思い出したりして・・・「歩く広辞苑」、「歩くアルゴリズム」、「歩くタグ辞典」?ではないけれど、個人に蓄積されたストックはサイトの情報量などを遥かに上回っているために、インターネットは便利なツールだとつくづくしみじみ感じたりいたします。(オイ!)

ところがね・・・誰も訊いてくれない。
「心理学」などというと大抵はアレな質問しかされない。女性心理がどーたらこーたらとか、恋愛がどーたらこーたらとか。「それは専門ではないので・・」としか答えられないし、とりあえず嫉妬が話題になっていたから、久々にパラパラと心理学辞典などをめくってみたけど、やはりそんな項目は存在しない。つまりは自分の記憶に無いのよね。

そういうリクエストというか、ニーズに応えようとすると「俗っぽい」って言われてしまう。サイトを分けようと思ったけど、分けたらアクセス数が下がった。恋愛論とかジャンキーネタを書くとアクセス数が上がる。短歌や詩もそれなり。臨床心理学も専門ではないのに、特に専門である必要性は無いらしく、基礎系より遥かに人気がある。くやしい。

結局、文学も哲学も専門ではないけれど、毎日夥しいほど書き続けた結果わかったことは、複雑怪奇な内容を俗っぽく語るということが小説や駄文、詩の値打ちなのかもしれないということだけなのかも。

毎日が風だ。
うまく説明できないけれど、自分の知らなかった手応えみたいなものがあって、城壁に囲まれた世界よりも面白い。それがネットを続けているダイナミクスなのかもしれない。

ビル・エヴァンスでさえ、晩年は違っていたから、人はそれなりに何かを求めて変わり続けるのかもしれないし・・・などと欺瞞に満ち溢れながら、とうとう日本もWカップで初勝利だ。
何でもやってみないとわからないよね。

 

 

Diary Top : Old : New : Home