Rin's
Diary
February, 2002
(No.2)
愛するひととは言葉なき道をいっしょに歩いてくれるひと
at 2002 02/20 04:37
詩集と格闘するといつも思う。
なんてボキャブラリーが少ないのかと。
それでいて、詩の届かないところまでそれは続いていくらしい。
言葉の届かないところまで、言葉は続いていく。
その奥深さを考えると、言葉は生き物であり、自由であり、何かを伝えられるものでありながら、実は何も伝えられないものである気がすることがある。
心の奥底を伝えられる、表現できる言葉があるなら教えて欲しい。
深層?
真実?
本音?
何となくそれっぽい言葉はあるけれど、この場合は、魂という言葉が一番それに近い気がすることがある。
精神がどこにあるのかわからない。
わからないけれど、それは存在しており、言葉さえも届かない世界は心の奥底に存在し、我らを支配している。
自分ですら気が付くことはないかもしれないその存在を、もしかすると魂と呼んでいるに過ぎないのかもしれない。
だとすれば、死は屍だ。
とすれば、死は魂の死だ。
どこかへたどりつけそうで、どこにもたどりつけないという感覚は、もしかすると精神の魂と呼ばれているところに近い感覚なのかもしれないな。
自分ですらよくわからないのだから、他人にわかるはずもないけれど、他人にはきっと自分が生きているか死んでいるかくらいの区別はつくと思うのだ。
ところが自分はダメだ。
信じるかどうかは別として、よく死んでもすぐには自分が死んだことに気が付かないと言う人までいるくらい死はあっけないものらしい。
本当だろうか?
もっとも脳に酸素があるうちは、脳は生き続けているらしいけれど、どうもそういうこととも違う気もするし・・・
詩集を読んでいただけなのに、どうしてこういうことに繋がってしまうのだろう・・・
困った。
そうそう・・・
谷川俊太郎の詩集のせいだ。
彼の詩集は、彼があまりにも長い間詩の世界で生きていたことを教えてくれた。
彼の編んだ「愛の詩集」には、彼の簡単なメッセが添えられているだけだ。
あたしには、彼の詩よりも、彼のメッセのほうが意味深に感じられるくらい貴重だ。
何ともはや・・・・・
詩・・・・・・
詩がどこにでも落ちているものであり、生きている限り湧いてくるもだとすれば、彼は詩を投げ出せとまで語っている。
きっとみんなの心の中に詩はあるけれど、それは言葉の届かない世界からのメッセだから、言葉にならないということで終わってしまっているだけなのかもしれないな。
短歌の文法辞典の「はじめに」よりも、谷川の詩集の「あとがき」のほうが遥かに素敵だ。
それが事実なのだから仕方が無い。
敢えて、積極的にその二つを羅列して比較しようとも思わないけれど、そのくせ、あたしは嫌いな短歌を嫌いな古語を使って詠むことが多くなった。
あー、天邪鬼はいつまでもどこまでも天邪鬼なのだろーか?
悩む。
誰か、この性格を直して欲しい。
無理だ。
人間、諦めが肝心だ。
石
at 2002 02/20 03:44
☆ 光てや輝き照らす道なれどやさしき愛は小石となりて
渇望
at 2002 02/20 02:42
☆ 涙枯れ立ち尽くしてやさざなみの寄せくる浜の小枝渇きぬ
つきさん 風のキッス
at 2002 02/20 02:07
☆ 知識など何の役にぞ立つものぞ不毛な時間(とき)の死に絶へるさま
****
☆ あまつさえ時が流れに身をまかせ 受けし気持ちを照り返しつつ
月 照り返す 月の光の 冷たさを せめてやさしき 光に変えて
☆ やさしさを光に求めて透きとおる風はなびいて鈴色の音
月 透きとおる風が運びし鈴の音が心沁みいるその深きまで
☆ 気まぐれにどこ吹く風と消えゆかむ 戯れながら頬にキッスして
月 つきさん ☆ りん
今日も今日とて・・
at 2002 02/19 19:46
祭りの後のようにひっそりとした1日。
月に2回くらいはログを回る日を作ってはいるものの、昨日のアクセス数の多さは何だ?
めったにしないことをしたために、ヘンな1日だった。
ログジャンプをすればアクセスアップになるとは言うけれど、これを毎日続けるなんて、実は大変なことだとつくづく感じる。
何が大変なのかと言うと、実は、飽きてしまうのだわ。
数字を眺めて喜ぶ習慣があるのは、ガイアックス以外でアクセス数の少なさに泣いた経験のある人が多いような気がする。
質の高いサイトでも、ガイアックスのログジャンプの威力には敵わない・・・少なくても数字という点では。
実は、以前、「科学的恋愛論?」のところに貼ってあった『瑛利奈の山手タロット館』というサイトも、最初はガイアックスのサイトだった。
1日5000ヒットだもの・・・で、ガイアックスとなるとそれなりに重い。
だからなのかな・・・URLが新しくなった。
自分のドメイン名を取得している。
50000ヒットがスーパーガイアックスのラインだとすれば、彼女のサイトは10日でそれを達成してしまう。
メガガイアックスだろーか?
ちょっと桁が違う。
そーなると、やはり外海なのね・・・・
などということを無責任に考えながら、谷川俊太郎の詩集を読みながら、今日は短歌はお休み。
まどりべにまどろむ影のおぼろ月 儚き姿 白き光に
と思ったけど、天邪鬼1首。
3行詩短歌にしよっかな・・・・そのうち・・・・・・迷う。
ウィンドウ・ショッピング・サイト・・
at 2002 02/18 20:00
天邪鬼ってつくづく面白いと思ってしまう。
もちろん自分のことだけれど。
こういうことにも性格が表れてしまう・・・
そろそろページを作ることにも慣れてきて、あくせくログジャンプをしなくても毎日それなりに固定ゲストがあり、BBSのカキコも多すぎず少なすぎず、ラリーの長い人が多くなってきたために急いで慌ててレスる必要性もなく、たまに旧い友達のところで遊んでいたりする余裕もできた。
せっせとテキストを読んで、コンテンツをまとめていけば、それなりにサイトの形にはなるだろう・・・
にもかかわらず、不意にログジャンプをしてみたくなったの。
ちょうど去年の5月、初めてログジャンプらしいログジャンプをしたとたん、サイト用にわざわざ作ったメルアドに連日ウィルスメールが届くようになり、それが煩わしくて他のサーバへ避難してしまった。
新しいBBSを作れば嫌がらせのカキコがあったり、ボランティア・バナーを貼れば、「クリックを懇願されてるようでイヤだ」などとウェブマスターのところにメールを送られたり、挙句、寄付金が発生するからというもっともらしい理由でボランティア・バナーが原因でサイトを閲覧できない日まであった。
世の中にこんなアホらしいことはなく、そんなことが原因でサイトが潰れるくらいなら、そんなサーバを使ってる自分が恥かしいではないか・・・
というわけで古巣のエクラに戻ってきた。
その後は、なぜかとてものんびりしている。
でも、たまにアクセス数の多い日などは、1日に何度も来訪する人がいることを知り、すごく驚いたりする。
そんなに何人もいるわけではないけれど、やはりそれはまだ続いている。
別館を作って、逃げてしまう?
ムダだ。
ガイアックスも長いし、友達も多い。
どこかにカキコしていれば、そこから結局、来訪されてしまうだけ・・・
インターネットはオープンな世界だから、来訪者をシャットアウトするという考えそのものが狭いらしい・・・
ガイアックスのように、コミュニケーション・ツールとしてサイトを作っている人が多いところでもその始末だ。
今は、ちょうどいい状態。
それを自らが破壊しようとしてしまう。
天邪鬼ってそんなもの。
いつでも引越しすることは可能だ。
サーバもいくつかレンタルしているし、ページをそちらに移してしまえば終わる。
でも、人の心は終わらない。
いつまでも何処までもウェブであるが故、バーチャルであるが故、人の心は止まらない。
それをどのように切るか・・・・・?
切る必要性などまるで無いことに気が付いた。
そのとたん、何となくログジャンプを始めていた。
無意味にアクセスアップを狙うやり方みたいで、あまり好きではなかったのだけれど、ネガティブな来訪者対策に付けたアクセス解析のおかげで、逆にコンテンツを眺めてくださる来訪者が多いことに気が付く。
「友達のサイトは、BBSに直行よ」って以前言われたことがあるのだけれど、よく考えてみるとそういうものなのかもしれないな。
大したコンテンツもなく、毎日、気楽に日記に独り言を書いてきただけだもの。
そんなものを眺めているより、友達のBBSを観察しているほうが何となく面白いではないか・・・
あまりにも正直なので、正直がっかりしたものだけど、彼女の言うことは正しい。
ログジャンプをしたほうが、ウィンドウ・ショッピングをするみたいにパラパラとでも眺めてくれる人が多いことに気が付いた。
とても皮肉なことだけれど、天邪鬼は嬉しい・・・
ウィンドウ・ショッピング・サイトか・・・・・
ラサちゃん 大地踏みしめ
at 2002 02/18 18:28
☆ 挨拶に歌詠みかわし囀りの小鳥の声にせせらぎ聞こえ
★ 小鳥にも 声無き時の あるや無し
☆ 歌わずに何を伝える小鳥かな せつや流れのおぼつかなさに
★ 一休み 和尚でさえも ひとやすみ
☆ のんびりと昼下がりレスうたたねの気分で楽し平和なひととき
☆ 為すことの無かりし難きことなれば 小鳥歌いて春を待つらむ
★ 一瞬を 戦う人の 輝きを アンビリーバブル 気にもせず
☆ 祭典をタレント行事明日に見て大忙しでヘアメイクする
☆ 春を待ち紡いでいづる新芽かな 摘まれしことのかたはらいたき
★ 摘まれても 残しし者への 証かな これほどの愛 誰か知ぞや
☆ 草を摘む名残の匂ひ懐かしみ心弾むは春の訪れ
☆ 壁の花待ちて待つのみ摘まれるを 群生するしか目に止まらずや
★ 夢を追い希望託して道を行く我が道は我が選ぶとて
☆ 文学は未来永劫しるべなき道をさ歩む愛のあやかし
☆ ときめきも本能なりし欲望の発露と思し人の子の恋
★ はたまたは 恋なくしては 子も出来ず 人類の夢 クローンに託す
☆ 子どもにも人権ありて思うこと 脳死なりては遅からましを
★ やってみて 数字の8を くっつけて 二つ書いたら 恋になり
☆ 幾多ある恋の数字の無限大 重ねて知るや未知なる溜め息
☆ 夢を見て現を知りて撞着に悩むは無償の愛を求めて
★ 夢なりや現も今も夢なりや人の姿のかくあらんとて
☆ 描く夢崩れ去るのをおそれてや夢抱きしめて何をぞおもふ
★ 寝ても夢覚めても夢と人の言う生きることさえ夢ぞ哀しき
☆ 何処にある見えぬ真実てのひらに露と消え去り沁みゐる泪
☆ 仕事するフリをしながらメール書きテキスト文書何処へぞ送る
★ ジェイホーン 紙飛行機に なりて行き
☆ 使い方遊びを知らず刺さる紙 瞳失い闇の中へと
★ 恋でさえ知らないままで生きるより無くしても良い試してみるの
☆ 無理なのよ恋を知らずに生きられるひとなど何処にいるはずもなく
★ 憧れて戯れ遊ぶ恋の道 風穴見つけ埋めて欲しくて
☆ 愛消えて男消えねど子ども消ゆ 未来消えねど過去消えざらん
★ 前を向け 振り返らない 消えぬ過去 直すすべさえ あるわけもなし
☆ シナプスを結合させて生きるかな 神経細胞減るだけならば
☆ 詩人とは露出狂とも紙一重 優雅な謎かけ秘めたる愛に
★ 歌詠みは 心の襞の 片隅に 残しておいた 秘密までもや
☆ 幻の詩人はうたい愛の詩ささやく波にささやく風に
★ 風そよぎ 春の訪れ 蝶誘う 甘き蜜さえ 花あればこそ
☆ 哀しみを心もように描かんとすなる歌人の甘き恋歌
☆ 愛だけを記憶に留め眠り姫 夢で逢う人変わらぬ姿
★ 顔もなく姿も見えずそれでいて何故か抱かれて潤う心
☆ 一人芝居一人で眺め幕引きをピエロに頼み二人の世界
★ 何処までが真実なのか虚夢なのかピエロでさえも彷徨う世界
☆ 幻はどちらが悪いと言ったって脳は止まらず働き詰めで
☆ 好き嫌いインターナショナル誰にでも 今日の敵は明日の友か
★ 怖がらず試してみなけりゃ解らない例え至極の愛さえまでも
☆ 知らずとて描ける像の不可思議さ 人のちからの未知なるちから
★ 真実の心の中は見えないよ 例え顔見て姿見てさえ
☆ 真実は心の鏡で映すもの 吾が心みて汝心みゆ
☆ その先を言いたいけれど言葉飲み 女の勘を信じるしかなし
★ 丸呑みの怖さは今も忘れない刺さった骨の痛さよりまし
☆ 丸呑みの餅がつかえてあの世逝き 年を取るって哀しいことよ
★ 何処までも青春なのよ心なら 魂の糧無限にあるよ
☆ 若さゆえ倦んでさ腐ることもある 吾が足大地踏みしめゆかむ
★ ラサちゃん ☆ りん
マサピンさん NARITAの空
at 2002 02/18 16:09
○ 見上げれば 照らす太陽 じりじりと 夏に焦がされ 寒さを偲ぶ
☆ 火炎樹の夏の息吹に照らされて 飛び込む店の影に癒され
○ ネクタイを外し服脱ぎシャワー浴び 喉を潤せ 冷たきビールよ
☆ 現実はすでに遠くにありしやと木陰なき道どこまで続く
○ 声枯らし働き詰の炎天下 楽になるかな 倒れてしまえば
☆ ジャパニーズ何処で暮らせど過労死の危機に晒され有給溜めて
○ 世の中に便利を歌う新製品 されど過労死働き詰で
☆ これからはもっとヒマになるかしら 期待すれども増えない休み
○ 合理化で仕事が減って給料もされどリーマン会社につながれ
☆ 風俗へ行っても値踏みされちまう 背中に給与刷り込む様よ
☆ 真実は心の中にありしやと思えばこそのネット歌人よ
○ 見えるのは光るモニター電子文字 ネットに住むるかりそめの人
☆ 古来より言の葉使い伝え合うそれが人なりバーチャリズムか
○ 古来では文字の気品に彼を偲ぶ なにで見るのか ネットの世界は
☆ 自らの像を描きて妄想にイメージ膨らみこころ弾ませ
○ 湧き上がる期待はすでに妄想か電子世界に踊る貴方よ
☆ 東洋の幻想なりし白人の夢を壊して悪しきものかな
☆ 人格を虹に見立てて謎めいてそれでもどこか他人任せに
○ 溢れ出す電子情報めくるめく 虹色輝く夢の人かな
☆ 無限大広がる夢に願い馳せ 現の翼地球を翔る
○ 人の夢広がりつづけこの星を 埋め尽くして後宇宙へと翔ぶかな
☆ 宇宙人電子文字ならもしもしか突然声がパソから聴こえ?
○ 真夜中に光るモニター飛び越えて夜空を飛んで君の待つ地へ
☆ 機内窓望む緑の濃さ覚ゆ 懐かしきは降る雨さえも
○ マサピンさん ☆ りん
逡巡
at 2002 02/18 05:42
迷った時にどちらの道を選ぶか?
わからない。
コインでも投げるしかないのだろうか・・・
よくわからないけれど、あたしはしなくてもすむ苦労はしない主義だ。
石橋叩いて渡らない。
そのくせ、ふいに吊橋を渡ってみたくなる。
それだけのことだ。
声の呼ぶほうへ歩むだけ。
時にその道が険しく、なぜそんな方向へ行かなければならないのか酷く混乱することもある。
燃えカス・・・
つまりは倦みだ。
人生に退屈し始めると、誰でも倦む。
その姿があまりにも醜いので、酷く混乱することがある。
それでも彼らは自己正当化に必死だ。
自分たちは必死に生きているという・・・
退屈さを何で紛らわせているのだろうか?
それでいて、いつも何かを貪欲に求めている人も決して美しくはない。
若い頃は、誰でも美しいと思うのだ。
若いというだけで、その後に訪れる醜さをカバーしているのではないかとさえ思うことがある。
その覇気は次第に色褪せ、次第に人生に迎合し始める。
つまり、若さに倦んでいるのだ。
若さを持て余して、退屈しているのかもしれないな。
極めて退屈な人たちが多いのも、若さの特徴。
若いが故に、倦んでいる。
すでに子どもではない・・・だから自分たちは年を取ったと語りたがる。
ってことは、いつまで経っても単なるオコチャマだということを言いたいだけ。
大人になりきれないまま、若さに倦んでしまっているだけ・・・
極めて退屈な連中が多い。
あたしは、若い頃、倦んでいた。
それだけは認めよう。
人生に退屈し、自分のやりたいことが見つからない。
結局、自分を救うのは自分だけだ。
人生の倦みから抜け出すためには、自分で道を歩かなければならない。
愚かなのかもしれないし、退屈したくないだけなのかもしれないし、倦みを指摘されるのがイヤなだけなのかもしれないし、単にワガママなのかもしれないし、自分を捨てたいだけなのかもしれない。
倦むことに慣れてしまえばラクなのだ。
人生に退屈し、単調な生活が続き、風景に埋没してしまえばとてもラクだ。
倦んでいることを認め、自分も倦んでしまい、毎日愚痴をこぼし、退屈な人生を不平不満で塗り固め、それが当たり前なのだと認めることにより疎まれながら生きていく。
わかりやすい・・・
迷った時にどちらの道を選ぶか?
安易に他人に迎合しないことだ・・・
迎合しない道が険しいのかどうかまではわからない。
つきさま 透明な光
at 2002 02/17 02:31
☆ あまつさえ時が流れに身をまかせ 受けし気持ちを照り返しつつ
月 照り返す 月の光の 冷たさを せめてやさしき 光に変えて
☆ やさしさを光に求めて透きとおる風はなびいて鈴色の音
月 つきさま ☆ りん
洞穴
at 2002 02/16 21:35
太平洋戦争中、一番勢いのあった文学が短歌だということを知らなかったあたしとしては、昭和21年、敗戦後間もなくに出されたフランス文学者桑原武夫の「第二芸術
------
現代俳句について」がどんなインパクトがあったのか知る由も無い。
通称、第二芸術論と呼ばれている「俳句や短歌の否定論」は、素直な感性で言って、やっぱりなぁ・・という感想しか持てない。
つまり、俳句や短歌が実は誰にでも詠めるものであり、どこにでも落ちているものであり、民謡であり、ポップスであり、セカンドアートとしての値打ちしか持たないという説。
芸術至上主義に対する庶民参加(投稿)の安易さという点で、或いは、敗戦後の日本文化を否定したくなる心情という点で、日本古来の詩情を否定する動きがあったとしても極めてナチュラルなのだと思うし・・・
でも、あたしはセカンドアートという言葉が好きだ。
芸術至上主義的に、何かにガンジガラメにされているよりも、セカンドアートの持つ素直に時代のダイナミズムを反映しながら、時に心に響き、時に捨て去られ、人生が短いということを教えてくれるその流れが好きだ。
自分という人間が今という時代に生き、それでいてそれに順応し、それでいて人間なんていつの時代も変わらない。
人生をアートにするなかれ・・・・
生き様をアートにするなかれ・・・・・
それでいて、今の自分の呟きは過去の誰かの呟きであり、それでいて未来は未知数。
文学というものが生き続けるのは、人間がいつの時代も変わらないからだ。
時代がいくら変わろうと、背景文脈的に文化や社会が進歩したからといって、基本的に何も変わらない。
変わらないからこそ生態なのであり、自分たちが単なる社会という森に住む猿であることを認めたくない人たちがアートという秘境を求めて彷徨い続ける。
森に住む猿が、気楽に秘境を持っていてもかまわないではないか・・・
自分だけの隠れ家が、小さな洞窟であり、パブであり、暗い自室であり、パソであり、どこかの公衆便所でもかまわない。
きらびやかなサロンでもかまわないだろうし、ひっそりとした研究棟でもかまわない。
短歌が乱立すれば、カラオケ歌壇か・・・・・
あたしはカラオケは好きではないけれど、誰でも歌えるし、逆に語れば誰でも詠める。
歌人と詩人は違うのかと、いつも考えることがある。
いつも考えることがあるという表現はおかしいな・・・
でも、いつも考えることがあるのだ。
たまに考えるのではなく、少なくても、短歌を詠む時には考えることが多い。
歌と詩は何が違うのかと・・・・
その時、あたしは、短歌は日本語だからと素直に感じることにしている。
言語にはリズムがある。
子どもが素直に文法を覚えるが如く、そのリズムもごく自然に覚える。
詩や歌をイデオロギーでガンジガラメにする必要性はないではないか・・・
素直にラブ・ソングを歌うだけで充分だ。
恋愛というごくありふれた出来事ですら、古今東西、人はいつも同じことを感じ、同じことをしてきたわけで、違うのは背景文脈だけだ。
ハッピーエンドばかりの少女漫画も楽しいけれど、わざわざバッドエンドやエロゲロ、バイオレンス、その他諸々いろんな側面を自由に描いてしまうと売れる。
結局、アートというのは人間の闇を如何に欺瞞に満ち溢れながら表現するか?ということに過ぎない気がしてしまう。
視床下部に支配された一連の出来事を、崇高に皮質で語りたいだけだ。
それが悪いことだとは思えない。
むしろ、あたしは欺瞞に満ち溢れた人間だから、アートが好きだ。
現代短歌がつまらないとすれば、それがどこか写実主義であり自然主義であり、耽美主義に近い退屈さがあるからだと思う。
当たり障りなく美しい面で句を詠み、短歌が光なら狂歌が闇であり、俳句が光なら川柳が闇だ。
両者を分離したがるのが日本人の日本人的特性であり、だからこそその芸術性を発揮できないとすら感じることもある。
でも、それがこの国の文化であれば、それはそれでかまわないではないか・・・
事実を事実と認めてしまえば、それで終わりだ。
文学特有の答えのない議論は永遠に答えが出ないまま続けられるのかもしれないけれど、そんなことより今を楽しもう・・・
それがセカンドアートならば、それはそれでかまわない。
誰でも人生にセカンドアートを持っているほうが楽しい気がするけど。
他人のために存在するわけではない、自分だけのアート。
100番目のアートでもいいさ。
自分で言えないのね・・
at 2002 02/15 18:41
問題は、なぜ紫式部があれを書けたのか?ということなのだ・・・
しかも宮仕えしている最中にだ。
つまり、誰かがあれを読みたかったから、彼女は書いていたに過ぎない。
彼女があれを書けたのは、単に彼女が女性だからであり、後家であり、しかも学者や歌人の家柄で世俗的なややこしさを放棄した文人の家柄の出身だったからに過ぎない。
身分制度の厳しい時代の結婚や不倫、男と女の愚かしさ、しかもそれを赤裸々に語ってはまずい。
光源氏は有能な人間でなければならず、単なる色好み(スケベ)と書いては叱られてしまう。
貴族の娘とは言っても、上流貴族へ嫁せば召人(めしうど)、つまり子どもが出来ても弄ばれて捨てられても文句は言えないアホらしさ。
政略結婚とは言うけれど、その結婚が成功するか否かでそれこそ政治的基盤が全く違ってしまうほど恋愛や結婚に対するリスクが大きい。
それなりにペナルティも用意されているところが面白いと言ってしまえばそれまでだけど、これって平安朝だけがスペシャルというわけではないだろう。
そんなことをウダウダ考えながら、やはり人間なんていつの時代も変わらないと呟いてしまっている。
彼女があれを書けたのは、たまたま偶然なのだ・・・
書いても叱られなかったのも偶然だ。
女だから、物語だから、で終わってしまう。
しかも上品に婉曲に、敬語バリバリで・・・
敬語バリバリでドロドロを書いていたわけだ・・・
で、それをお読みあそばしたい人たちが数多いらっしゃったというところが何だかなぁ・・・
あれがアホらしいと思うんだったら、アホらしいって自分で言えよ!
なんて思っちまうけどね。
溜め息まじりで、やるせなき感情移入が続く午後。
アイス・コーヒーが美味しい。
ひとは変わらず・・
at 2002 02/15 15:57
悲しみにうちくれてるや冬は過ぎ草の香りのやわらかきかな
恋歌の明るき声の嘘っぽさ 哀しみ滲む声は語りし
嘘はいや嘘じゃないのと言ったって何故にそれを事実と認めず
情念を情景にして何を詠む 風は疑ひ幻詩人
書くことを求められしや紫の世情描くは世の習ひてか
いきざまの描き出したる平安朝 ひたすら描くおろかさだけを
そのやうに感ずるなるは数多ひと そを知りたしや語る流れに
Happy Valentine!!
at 2002 02/14 19:14
あー、ヴァレンタインデーにくりくりハートを付けて歩くという話はどーなったんだ?
なんかそぉゆうパワーの欠如してるあたし・・・
かわりに愛の歌をアップしておきます・・・・
天使の愛が微笑みますように
混迷する秩序
at 2002 02/14 19:20
日記をフルコースの料理だとすると、過去ログはアラカルト。
せっかくだから、一つ一つをメニューに並べ替えているのだけれど、何となく単品としては連続した流れが欠如してしまうので面白くない。
もう少し数が増えれば別かもしれないけれど、単品にすると面白味が欠如しているということは何となく考えてしまうな。
やはり、流れ・・・・・
単に余分なメニューボタンを増やしただけなのかもしれない。
それでも、何でもやってみないことにはわからないではないか・・・
とにかくテキストだけはある。
それもかなりの量。
しかも、いろんなことをネタにしているために、細かく分類してしまうというのも無理があるのかもしれない。
人は何故読むのか?
誰かに自分を肯定してほしいから?
その夥しい感情移入を考えると、怖くなる。
自分を肯定してほしいから、書物を読み漁る?
なんでそんな単純なことに気が付かなかったのだろう・・・
それでは、人は何故書くのだろう?
少なくても自分を肯定してほしいから書くわけではなく、逆に山のように言いたいことがあるから書いているに過ぎない。
いわば、書くということは何かとの闘いであり、書くことにより何となくすっきりしてしまうから書くに過ぎない気がすることさえある。
近頃、あたしは自分が書くことより、読むことへ移行しつつある。
何故読むのかと言われれば、単に学ぼうとしているからに過ぎない。
得た知識をネタにして、てきとーに書く。
どちらがいいのかわからない・・・
得た知識を基にして組み立てる・・・
そういう作業を考えると、どこか自分が消えてしまいそうになるけれど、もしかするとそれがいいのかもしれないな。
近頃、レスもてきとーだ。
その時々の気分で書いている気がする。
きっちりかっちり順番を守ってレスっているのではなく、何となく自分のペースで書いている。
何となく不評かもしれない気もするけれど、それはそれでかまわない。
それくらいラリーが長くなってきた人が多いからなのかもしれないし、極めてロジカルなレスり方に近頃懐疑的になってしまったからかもしれない。
それはむしろ自然の秩序に反するとまで言われてしまったからだ。
誰に対しても公平にとか、順番を守ってとか、順番の破壊にもそれなりの秩序とルールがあり、それこそ実は自分のサイトを支えてきたダイナミズムだったのかもしれないと思うほどだ。
誰だって忙しい時もあればヒマな時もあるだろうし、書きたい気分の時もあれば書きたくない気分の時もあるだろう・・・
もっと言ってしまえば、あまりレスを書きたくないスレッドにですら、あたしは平然と書き続けることにもあまりにも慣れすぎていて、それが秩序と言ってしまっても過言ではないくらいに秩序が保たれてきた。
でも、一体、何のために秩序が必要なのだろう・・・・?
秩序が必要なほどのサイトだろうか・・・・?
小さな箱の中で、のんびり書きたいことを書きたいという理由でサイトを作っている人が多い。
その世界に何か秩序が必要なのだろうか?
過去ログを整理しながら、そのまとまりの無さに何かを感じた。
どーしてあたしのサイトがBBSがメインコンテンツなどと言われてしまうことが多いのか、ふとその理由を感じた。
インターネット歌人?
at 2002 02/13 22:18
近頃、流行のネット歌人?
「インターネット歌人は短歌を豊かにするか?」
という記事(平成14年度版『短歌年鑑』:角川書店より)を発見したんだけど、どーも否定的な批評が多いらしい。
その理由は、やはりインターネットという情報を一方的に発信していく世界では、相互作用が欠如してしまうという意見が多いらしい。
歌人が集まり、発言するような場(サイト)はまた違うらしいけれど。
つまり、勝手に句を詠んで、承認を求める姿勢が気に入らないということなんだろうな。
それと、ハンドル名はわかっても、どこの誰が詠んだものかという明記はなされていない場合がほとんどであり、それに対しては面白いとか違和感があるとか、実際、既存の歌壇の中で活動してきた人たちにとっては、ネットの匿名性や人物を特定できないところが気持ち悪いのかもしれない。
でも、自分個人の体験として考えれば、インターネットを始めなければ、あたしが短歌を詠むなんてことはまず考えられなかったわけで、気楽に始められたということが自分にとってはどこか何かが違うという点で、とても貴重なのだ。
調べれば、近所にもそれなりに多くの賞の受賞者を出しているような短歌の会などもあり、もともと自分という人間が短歌や和歌に興味のある人間ならばそこへ通うことも可能だっただろう。
ところがね・・・・元来、まーーーったく興味すら無いのに、そんなところへ行くわけがない。
そんな自分でも、ごく日常的に詠んでいられるのはネットという気楽な世界があるからであり、歌壇などを徘徊して作品を眺めても、一部の歌人たちの作品を除けば、ネット歌人たちの作品がさほど遜色があるとは思えない。
逆に、発想の斬新さや自由さ、交流の自由さなどの点で比較すると、ネットのほうが面白い作品に出会える可能性が高い気すらしてしまう。
『100人の地球村アクセス記録(生命学ホームページ)』のアクセス数の解析は面白い。
テレビなどで紹介された日には、アクセス数が伸びる。
でも、数値にすると、テレビを観た人の100人に1人が実際にネットでアクセスしてみるという結果。
それを考えると、メディアの力というのはまだまだ強いのかもしれないけれど、ネット人口というのはあたしが考えるよりも少ないのかもしれないと逆に驚いた。
この事実をどのように受け止めたらいいのだろう・・・・?
奇数語
at 2002 02/12 18:37
毎日詠み続けるってすごいことかもしれない。
お題を与えられて句を捻るというより、すでに条件反射のように日常語として飛び出して来る。
そんなに大変なことではなく、すでに慣れた母国語を話す時のようにごく自然に発話している。
つまり、短歌でお話している。
本当は歌なのだから、歌わなくてはならないとは思うのだけれど、あの譜面の欠如した歌はどうも歌として認めたくないというこだわりがあるから仕方が無い。
どーせだったらアップテンポで短歌を歌ってほしいものだけれど、なんかテンポとリズムがまったりのっさりしているから仕方が無い。
のんびりしてるよね・・・
句を味わうという感覚が欠如しているために、テンポが合わない。
それでもどんどん詠んでいるということは、5・7・5・7・7のリズムがやはり日本語には適しているのかもしれないとは思うけど。
奇数の世界だ。
考えてみたらヘンだな。
五線譜の偶数の世界に慣れてしまうと、奇数のリズムが字余りになってしまい、テンポが合わない。
それでいて、どこかそれは融合したトーンで自分の中では組み合わされているし、それでいてどこか独立しているのかもしれない。
短歌の本を買ってきて、添削の部分に目を通す。
なるほどと思うことが多い。
あたしの句も、もう一捻りすると洗練された句に変身するかもしれないけれど、問題は洗練されているかどーかよりも、短歌というのは発想の世界らしい。
発想が面白いかどーかがすべての世界。
だから続いているのかもしれないな。
発想が面白くなければ、句自体に面白さがない。
言葉は意味だ。
意味が同じであれば、それをもっと洗練された形にするのは簡単なのだ。
問題は、形よりも発想だ。
何かを感じた瞬間の発話だ。
だから、元来は捻り出して詠むものではなく、ふとした出来事などをふとした言葉に表しているだけに過ぎない。
だから、何も感じない人は何も浮かばない。
でも、洗練された言葉で表現するということもある種テクニックという部分で必要なのかもしれないと反省している。
全部を全部現代語で表現することも可能だ。
誰も悪いとは言わない。
にもかかわらず、何故かこの世界は専門用語と古語がまだ生きている。
旧い伝統に固執する気は毛頭無いけれども、それでも少しは基礎知識くらいは必要では無いかと反省している。
何が基礎なのかもわかっていない。
古語なんて、高校生の頃に少しやった程度。
英語のほうが簡単だと思った。
干渉刺激が少ない分、覚えればいいだけ。
古語はダメだ。
語句が似ているから混乱しやすいし、覚えたからといってそれが何かの役に立つという発想がまったく欠如していたために必要最小限度の知識しかない。
それでも、大昔うろ覚えに覚えていることが、何となく語句のニュアンスとして使えるというところが不思議。
そこが母国語の値打ちなのかもしれないな。
しかしですね・・・・あーいう言葉でお話していた時代があり、お話していた人たちがいたということは、やはりそれでお話できるということなんですね・・・
何となく、そーいうことを実感している今日この頃・・・・
それだけでも、詠んでる値打ちがあるのかもしれない。
順応だ。
すでに1年。
これに順応してしまっている。
死んだ神経細胞は蘇らなくても、残ったニューロンが新しく結合することはまだ可能なのかもしれない。
ちょっとは勉強しよ。
つきさま 照り返す
at 2002 02/12 01:36
月 きらきらと輝く新雪(ゆき)の美しき
転んでもいい 踏み出せばいい
☆ 一片の雪になりたし儚くは掌に融け一時の夢
月 ひとときの夢ならせめてもう少し覚めずにいたい雪降る中で
☆ 雪の中強く握りた手のひらに”さよならはいや”呟き掠れ
月 掌に書いた言葉と吾の手を あたたかき手がそっと包みぬ
☆ 温もりがあなたの姿伝えてる 今はそれだけ明日には消えて
月 今はあり明日には消える温もりを握りしめてる 心細さに・・
☆ 移ろいを月に擬え三日月の心細さも光湛えて
月 自らは光を放つことはなし君の輝きこの身にうけて
☆ 燃ゆる火をこころの底に抱きつつ君は輝く吾がこころ受け
月 いつの日も君の輝き身に受けて暗闇照らす明かりでいたい
☆ 闇の中君は誓いし愛の時 それでも逢えぬ幻なのか
月 闇の中君と誓いしその瞬間(とき)が 月の明かりに映しだされて
☆ 光とて君に照らされある身ならそれは狂おしいとせつなきは
月 幸せは人それぞれの中にあり 輝きだけがすべてにあらず
☆ 吾が命君がなくても空にあり 輝きだけを与えられしや
月 君在りて 君仰ぎ見る 人のある 其(そ)は幸せと 吾は思えり
☆ 君在りて君は見つめる吾だけを それは嬉しくそれは悲しき
月 籠の中 籠の外にと それぞれに かたちの違う 幸せがあり
☆ 生きるならそが輝きに満ち溢れ光なくしも輝き給ふ
☆ あまつさえ時が流れに身をまかせ 受けし気持ちを照り返しつつ
月 つきさま ☆ りん
ラサちゃん 小鳥の囀り
at 2002 02/12 20:21
☆ 別れても挙式費用は戻らない 人生勉強学費に泣いて
★ 学費無し 人生修行 ネットの旅で WEB短歌にも 投稿よろしく
☆ 挨拶に歌詠みかわし囀りの小鳥の声にせせらぎ聞こえ
★ 小鳥にも 声無き時の あるや無し
☆ 歌わずに何を伝える小鳥かな せつや流れのおぼつかなさに
☆ 為すことの無かりし難きことなれば 小鳥歌いて春を待つらむ
☆ 春を待ち紡いでいづる新芽かな 摘まれしことのかたはらいたき
☆ 壁の花待ちて待つのみ摘まれるを 群生するのみ目に止まらずや
☆ アンニュイに気持ち流して退廃の 恋のときめき滅びの美学
★ 滅ぶには まず産まれるの 始まりが 無くては恋の ときめきも無し
☆ ときめきも本能なりし欲望の発露と思し人の子の恋
★ はたまたは 恋なくしては 子も出来ず 人類の夢 クローンに託す
☆ 子どもにも人権ありて思うこと 脳死なりては遅からましを
☆ 壊れても傷があってもかまわない愛しき人の愛の温もり
★ 前を向く 勇気と愛が あればこそ 例え手足が 無くてもいいの
☆ 夢を見て現を知りて撞着に悩むは無償の愛を求めて
★ 夢なりや現も今も夢なりや人の姿のかくあらんとて
☆ 描く夢崩れ去るのをおそれてや夢を抱きしめ何をぞおもふ
☆ 大袈裟なときめきさえもごくふつう 電話もしもし声は声なり
★ なんでかね 隣の席にも メールだし
☆ 仕事するフリをしながらメール書きテキスト文書何処へぞ送る
★ ジェイホーン 紙飛行機に なりて行き
☆ 使い方遊びを知らず刺さる紙 瞳失い闇の中へと
☆ 甘い期待に胸ときめかせ期待はずれに凝りもせず
★ 乞ご期待 今度は何が 起きるやら 甘い恋ほど 危険はいっぱい
☆ 女とは恋に恋して落とし穴 リスクリターンを計算せずに
★ 憧れて戯れ遊ぶ恋の道 風穴見つけ埋めて欲しくて
☆ 愛消えて男消えねど子ども消ゆ 未来消えねど過去消えざらん
☆ 隠してもぽろぽろ零れる言の葉を 詩に詠みては心の世界
★ 秘密なの あたしの心 謎なのよ 言ってみたけど 諸美絵なのよ
☆ 詩人とは露出狂とも紙一重 優雅な謎かけ秘めたる愛に
★ 歌詠みは 心の襞の 片隅に 残しておいた 秘密までもや
☆ 幻の詩人はうたい愛の詩ささやく波にささやく風に
☆ 吾を待つ愛しき人の懐に抱かれる褥眠り深きに
★ 抱かれて 深き眠りに 誘われて 共に巡るは 時空の世界
☆ 愛だけを記憶に留め眠り姫 夢で逢う人変わらぬ姿
★ 顔もなく姿も見えずそれでいて何故か抱かれて潤う心
☆ 一人芝居一人で眺め幕引きをピエロに頼み二人の世界
☆ あてどなく漂う旅の面白さ 次に出会うは愛しき君か
★ 信じてる 夢みてるのよ 世界中 皆が仲良く なれる日来ると
☆ 好き嫌いインターナショナル誰にでも 今日の敵は明日の友か
★ 怖がらず試してみなけりゃ解らない例え至極の愛さえまでも
☆ 知らずとて描ける像の不可思議さ 人のちからの未知なるちから
☆ その先を言いたいけれど言葉飲み 女の勘を信じるしかなし
★ 丸呑みの怖さは今も忘れない刺さった骨の痛さよりまし
☆ 丸呑みの餅がつかえてあの世逝き 年を取るって哀しいことよ
★ ラサちゃん ☆ りん
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